ドーナッツの穴、シャンプーの泡
ヘッドギアを外して目を開けると、何故だか私はリビングの方へと移動していて、汗だくになったままそこに突っ立っていた。
目の前には怪し気に笑う十七歳の天才ハッカー兼脳内記憶データ解析班の少女がいる。我々レジスタンスにのみ支給される、特製の銀色をした端末を手に構えていた。
私は四肢の関節が、先程まで激しく駆動していた感触を即座に察知した。
そして、全てを察した。
「……ああ……身体がシンクロしてたのね、ずっと……」
チエはホクホク顔で頬を普段以上にピンク色に染めながら、手元にある先刻まで録画していたであろう映像を眺めている。
「そうですねー。たまにあります、こういうの。対象者への共感が高まれば高まるほどに……えへへへへ。やっぱり、クローンって、いいもんですねー、えへ。ぐへへへへへへ」
全身の肌が粟立ち、冷や汗が湯水の如く湧き出てくる。
「あの……すみません、チエさん……出来れば、削除しては頂けませんでしょうか?」
顔を更に赤らめながら、中空にかざした端末画面を覗き込んでいる。
そして音声が──私の歌声が、そこからは聴こえてきた……
「──あなたは私のムーンライト──」
「──せめて今夜だけ──」
「──この宇宙を漂っていたい──」
「えへへへへ。永久保存版だー! なーんだルカちゃんも実は、なんだかんだでこういうのに憧れあったんですねー。でもダンスは割と上手いのに、歌の方は中々酷いもんで──」
すかさず右廻し蹴りを叩き込む。
首尾よくそれはガードされ、得意の大振り右ストレートがこちらへと飛んでくる──
空中に浮かぶ、黒い空間。
空間の中に空間が浮かんでいる、存在しているという矛盾。そうとしか形容出来ない、言語化出来ない摩訶不思議な事象がそこにはあった。
およそ半径五メートルほどの小型ブラックホールが、厳重管理された透明なゲートの中で、まるでドーナッツの穴のように浮かんでいる。ゲートの中にある門。それは紛れもなく、この宇宙の中に実存する宇宙だった。
とてもじゃないが自分なんかの知識では追いつけない、形而上学的な問いかけだ。現行のいきすぎた科学技術が犯した人類の禁忌。
「ドーナッツの穴は、ドーナッツに含まれるのか」
多元宇宙への入り口。
堅牢な質量と重力を称えた漆黒の門が、有事通信社の構える総監視塔の中枢部には眠っていた。
かつて一と半世紀前の映画では絵空事とされていたものが、今ではこうしてすっかりと実現され、吐き気を催すほどの悪魔の所業に利用されているわけだ。
この西暦二一六〇年の次元では。
明け方八時過ぎ。およそ五回に渡る運転が終了。
恐らくプロテクトが掛かっているためか、その記憶データの後半は何から何までバグだらけで殆ど読み取れなかった。リビングの窓には、既に朝の陽射しが降り注いでいる。
「恐らく、力が発現したのは先天的で──力が先天的に発現したということですかね」
「いや、何ひとつ分かっとらんやないかい!」
「まあ、流石はルカちゃんの遺伝子ってことですよ……てかなんすかそのアクセント」
卓袱台の上に投げ捨てられたヘッドギア。チエは未だにその机上に展開された、何やら訳の分からないパネルや見取り図、立体図等のホログラムを凄まじい勢いでタップし、データのさらなる解析を続けている。先生の元での三年間の修行中、彼女が傍らでコツコツと会得していたそのスキルに私は素直に感服した。ピンクの髪がタイピングの振動で微かに揺れている。
それに触れようと手を伸ばしたが、すんでのところで思い留まった。
チエは肩をすくめて言った。
「これ以上は分かんないです……取り敢えず、ルカちゃんの耐性を考えて、今日はここまでです。あまり一度に深く潜ると、ウイルスに感染する可能性もあるので……でも、今気付きました。どでかい収穫ですよ……これは……」
私は強く頷いた。全く、嫌な予感というものはよく当たるものだ。これだけ狂った世の中なら、それは尚更のことだった。
「……うん。これだけでも、昨日は向こうまで遠出してきた甲斐があったってもんよ」
チエは自らピンク色の毛先を慎重に指先で摘みながら、ゆっくりと呟いた。
「そうですね。全く、衝撃の事実ですよ」
「……うん」
「ルカちゃんは、踊っているときと、ベッドの中での関節の可動域がほぼ同じ──」
「ちげーよ」
お喋り破廉恥──でも可愛い大好き娘の頭上にチョップを喰らわせた後、先程の映像データが私たちの目に見える文字列として表示された、卓上の当該ラインを指差した。
「あっ、そういやネイルって興味あります? この前、手に入れたんですよ」
「違う! 見て! ここ!」
「……『私のいた次元で大昔に流行った』……歌ってる曲か……何だっけ? そうだ、『デュア・リパ』みたいってところか。私たちの知らないシンガーですね、これ。ちょっと他の部署の人に連絡して、調べてもらいます」
そしておよそ数十分後、極めて迅速な対応によってその謎めいたピースは元の画に収まったのだった。
「……間違いない。じゃあ、ナナちゃん──いや、『元ナナちゃん』も、私たちと『同じ宇宙』から『ここ』に連れて来られたと……」
「そう。だから冒頭の記憶はその『元ナナちゃん』の可能性が高い。戦場に梵の使い手なんかが現れたら世界中大騒ぎだしね。そんでこいつは戦死した後、あたしの細胞データを使って琴音ナナとして生まれ変わったってこと……有事通信社の豚共の手によってね。きっとDNAの適合条件を満たしてたんでしょ」
この全宇宙はたったひとつに留まらず、未だに無限大の可能性──その波紋を広げ続けている。
シャンプーを泡立てた際の泡の一粒一粒には、ありとあらゆる全宇宙の存在が宿っている。
私たちは、元々いた宇宙──元々いた二〇一〇年から連れ去られて、この二一六〇年の世界にやって来たのだ。
この科学文明の極度に発達した、「中華連邦・第三列島・トーキョーラマ」の人体実験部隊の連中の手によって。
屈強な超能力を携えた、最強の兵士として育成されるために。
まさに宇宙を股に掛けた誘拐。
時間と空間を飛び越えた人拐い。
ここは正真正銘、クソッたれの世界だった。
「でも、片方は施設を脱出してレジスタンス入り、もう片方は大戦に繰り出された後、今や有名アイドルとして活躍中って……何だか不思議ですね」
「全くね。数奇な運命だよほんとに」
「……たまに考えるんですけど、『本当の二一六〇年』は、今頃どうなってるんでしょうね」
「さあね。まあ、こんなとこよりはマシなはずでしょ。絶対。早く帰りたいよ。出来れば大元の二〇十〇年に帰れれば一番なんだけどさ、どうやら無理らしいし。ワームホールの構造上、因果関係が壊れる接続はもう二度と出来ないとかで」
「……一度確定したら、時間は前にしか進まないってことですね」
あの「ドーナッツの穴」は、数年おきに作動している。
そして現在、調査によれば、私たちの宇宙──「本当の二一六〇年」と繋がっている。
しばらくの間を置いて、チエが静かに呟いた。
「でも計画は中止されて、今では私たちみたいな子供はもういないって……本当によかったですね」
「……うん」
テレビのニュース番組では、今月の自殺、他殺、病死、餓死などを含むありとあらゆる「交通事故死」を遂げた人物の名簿が淡々としたBGMと共に流れている。
やがて、それも終わった。テロップが流れる
勿論、提供は、有事通信社──
官民共にこの列島を統べる、全知全能の人工知能、「全」が率いる国際的テック企業だ。
始まりは新進気鋭のIT企業だった。
数々の技能爆発を繰り返した後に、遂にその会社の携える人工知能はとある技能的特異点に達してしまったのだ。
人類を、自分たちの掌中に治めるという最適解。
かつてプロメテウスは天上の灯を人類へと明け渡した。やがて幾星霜の月日が経ち、遂に人類はその灯を自分たちよりも高機能の脳味噌へと明け渡す愚を犯してしまったという訳だ。
各種のロビー活動や政治献金を通じて、データプライバシー、独占禁止法、税制などの政策に影響を与えた後──この忌まわしき発展はまさしく影響爆発とも言える──人間を遥かに凌駕する高性能のブレインは、人民への洗脳によって完全に統制された巨大の全体主義国家──世界大陸の大半を股にかけた「中華連邦」を作り上げた。
「テレビ、環境映像とかフェイクの戦場レポートばっかでつまんないですね、やっぱ」
「本当にねー。全く」
「それにしても、こんだけCDやらレコードやらDVDやらブルーレイやら、隠し持ってたり入手経路を確保してる、ランボーさんたちの組織は改めてすごいですよねー。ほんと」
チエは居間の向こう側にある棚の森を、少しだけ開かれていた襖越しに見やりながら言った。
「元々は私たちの宇宙とこの宇宙は『同根』だったらしいから、そこから分岐していったんだよね、確か。だから、旧時代のレア物として、探せば何とか見つかるっていう」
有事通信社の人体実験室から抜け出した後、私たちは行く宛もなく街を彷徨い歩き、レジスタンスの指揮を取っているランボー先生直々に拾われた。
非指定地区への「正式なる侵入」には公的書類の偽造など含めて、およそ三年もの月日を要した。私たちはその間、中華連邦・第一大陸側の人里離れた山奥にて先生のお弟子さんたちの元、みっちりと梵の研鑽を積んだ。
私は主に、この力の修行。
この子は主に──映画で観たハッキングやプログラミングの修行。キーボードをカタカタカタ……カッターンというやつだ。どうやらとある作品を観て、すっかり虜になったらしい。
そしてこの列島に、革命を起こすことを引き換えに──
通信社の中枢に内通している彼らレジスタンスの尽力によって、私たちは私たちの宇宙へ帰ることが出来るという手筈だった。
「この国が現在関与している紛争、そして来るべき戦争などの有事に備え、有事通信社は常に、あなたたち国民の側にいます」
テレビの中で、いつものAI音声──全の声が流れている。
一体この国は現在、どの国と戦っているのか?
これからどのような戦いが待ち構えているのか?
その答えを知っている者は、誰一人としていなかった。有事通信社の経営理念を妨げる言説は、この世に一切必要ないからだ。
午前九時過ぎ、放送は中断された。
これから非指定地区の住民たちの労働が始まる時間帯だ。
指定認可地区を、非指定地区を、そしてこの国──「中華連邦・第三列島」を統治している、全の冷たい機械音声は淡々と喋り続ける。
「──労働、生産、消費、繁殖──」
「──全てのサイクルは貴方の為に、貴方は全てのサイクルの為に──」
「──全ては、論理的な帰結の名の元に──」
「──提供は、有事通信社──」
やがてスクリーン画面はブラック・アウトした。
「……ちょっと、休憩しようか。ご飯取ってくるね」
私はキッチンへ今月の支給品を取りにいった。
明日、配給に回すパンや葡萄、林檎、バナナ等のフルーツ類は別に冷蔵庫の中に保存してある。今週はコオロギのフライだ。それらが山盛りに詰められた銀色の防菌ケースと、冷蔵庫から豆乳と野菜ジュースを取って卓袱台へと戻る。味付けはコンソメだった。
「先週のバター醤油の方がよかったですねえ。マシなのは最初だけで、飽きがくるのが早いですこれ」
「……ていうか豆乳との相性最悪、野菜ジュースも……」
「ルカちゃん。どうせ食べるもんはどこにも売ってないんですから、ドリンク選びは重要ですよ。もっと気を配らないと」
「いやお前だろ、リスク背負って豆乳買ってこさせたのは」
私たちは机上の風味よく揚げられたコオロギたちに、静かに齧り付いていた。
「てか煎餅、何枚食べたの?」
「……うん、いや……まあ……」
「食べすぎじゃない? あたしまだそんなに食べてないよ」
「まあ、その……そこそこですよ。それより! 野菜ジュースって栄養あんまないのって本当ですか?」
「……まあ、基本糖分だからね、あれ。飲むとしたらトマトジュースよ。血圧も下がるし。あたしよく飲んでる」
「へえ。じゃあ、今度外出た時に買ってきて下さい!」
「で、煎餅何枚食べたの?」
「あー! 早く指定認可地区でラーメンとか、寿司とか、ステーキ! ラーメンとかラーメン! あとはラーメンとか食べたいですね!」
「おい! 煎餅何枚食べたんだよ! おい! ふざけんなよ! こら!」
「……血圧全然下がってないじゃないですか!」
そう叫ぶとチエは仰向けに倒れ込んだ。
「……まあ、ラーメンは次の仕事で機会があれば、ね」
「あと、いちごのパフェ!」
防菌ケースの中にあったコオロギたちを見下ろす。
まだまだ山のように残っていた。労働者階級はなるべく飢えさせずに、労働力として搾取する政策。そして無断廃棄は厳罰。私は溜息をついた。
「久々にあれ……やっちゃいます?」
チエが、不敵な笑みを浮かべながらそう言った。
「……やっちゃいますか! 次は負けないから」
「じゃあ負けた方は、向こうでラーメン奢りで」
「オッケー」
私たちは二人分の皿を用意し、香ばしく揚がった残りのコオロギたちを等分に分けた。
そして、熾烈な早食い競争の幕は切って落とされたのだった。




