夢幻‐科学とオカルトの話‐
口の中に血の味がする。
朦朧とした意識が捉えるその痛みの実体は、今では酷く曖昧だ。しかし目の内にちらつく小さな火花のような光は、着実に手足の力を奪い、三半規管を揺るがし、平衡感覚を徐々に狂わせてゆく。
ぬるま湯に浸かったまま時折鋭く感電するような感覚が、椅子から垂れ落ちた手足が左右にふらつく毎に身体中に襲いかかってくる。
「……上出来だな。血清をブチ込んでからというもの、こんだけいたぶっても、歯の一本も折れやしねえ。多少出血はあるがな。ナンバー7……もしかしたらこいつは、ここでの最高傑作になるかもな」
豚、豚、豚、豚。
豚共が、私のデータを取っている。
私の身体を弄り回して、振り回して、嬲って、今日も思い通りの数値を手に取っている。
拘束具に縛り付けられた私は、そいつらを眺めているしかない。
ここでの私の名前はナンバー7。
壁をちょこっと凹ますだけじゃ足りない。念じただけで、あいつらの頭を爆破出来ればいいのに。どうやら、私の力はまだ足りないみたいだった。頭の中で具体的にイメージ出来ないことは、まだ実行出来ない。檻の中へと戻された後、いつものように紙のコーヒーカップ片手にこちらを眺めている見張り番の顔を見つめながら念じる。
──殺す殺す殺す殺す──
念の塊、念の塊、念の塊、念の塊。
いつもは頭を爆破どころか、動かすことすら出来なかった。
しかし、今日は違った。見張り番の男の腕が少し左へと動いて、その手に握っていたカップを床に落としそうになったのだ。
彼は熱い液体の掛かった作業着を手で拭いながら吐き捨てた。
「ああ? 何だよクソ!」
私は自分自身に新たな可能性を見出した。
こうやって、少しずつ希望の糸を手繰り寄せよう。少しずつ、少しずつ。
この広大な施設には幾つか、旧時代の迷信を色濃く反映した、殆どオカルトともいえる部署がある。今思えばそれはこの国を統べる人工知能の機能が、少しずつ綻びを見せ始めた証左だったのかもしれない。とりわけ、総監視塔と呼ばれる巨大な三角錐の建物──その堅牢な金属片で構築された、巨大な三重ゲートの中にあるものがそうだった。
昨日の演習はライフルだかマシンガンだかでいつも通りに死刑囚を撃ち殺し、採血や注射、各種ソフトな拷問器具での身体耐性チェック、メディカルチェック、解剖、縫合などを経た後に、世界各地から取り揃えられた呪物に彩られた小部屋で洗礼を受けるコースだった。
その儀式のようなものの内容は、部屋の床中央に描かれた大きな魔法陣のようなものに全員が並ばされて(ナンバー1、2、3、7、8、10、11)、祈禱のようなものを読まれた挙げ句、分かりやすく魔道士みたいな格好をした中年男性が聖書の引用のようなものを唱え私たち全員に灌水礼を執り行うという、それはそれは旧時代的でくだらないものだった。
問題はその奥にある大部屋だ。
周囲に銀色の巨大な加速器や計測器が蜷局を巻いている空間。その中心部。
高さ三十メートルほどの直方体。何重にもセキュリティーが施された透明な分厚い防弾ガラスの中に、それはあった。
「(いやーいつ見てもグロいですねーこれ)」
中空に浮かぶその異次元世界への門は、どこまでいっても堅牢な質量を湛えた、流動する漆黒の世界へと繋がる入り口だった。
空中に浮かぶ、半径五メートルほどの真っ黒い空間。
ここではないどこか──他の宇宙への入り口。
私たちは地獄を見つめていた。
地獄も私たちを見つめていた。
「(今時、神通力を開くのに穿頭も必要ないんだよ。知ってる? 中世ヨーロピーナでは瀉血をやってたよね? 医学的根拠は何もないのに。科学はこうして、今も進歩し続けている。別次元の宇宙の新元素──そのエーテルの正体を突き止めるまでにね)」
明らかにラリっている指導員の男が私たちに話しかける。いや、正確に言えば私たちの立っている場所の斜め後ろ、虚空に向かって一人呟いている。いまいち焦点の合わない目線を投げかけながら。彼はどうやらこのエリア全体に隣接された巨大なタワーに自由に出入り出来る身分であるらしい。
「──そして、それに適合していた君たちの次元はこの先、私たちにきっと多大なる恩恵をもたらしてくれることだろう」
そいつは口の端に泡を溜めなから喋り続けた。
「(努めて古人を読むべし、ってね。古代インディアーラ人は偉大だよ、君。まあショーペンハウアーはインディアーラじゃないけど。あとはね、ルース・モンゴメリーとかかな。とある大陸側で焼夷弾だの枯葉剤だの大っぴらにばら撒かれてた時代に、誰よりも早くこの空間の目に見えない波動について論じてた訳だからね。じゃ、そろそろ行こうか。いずれは君たちにも、どこか他の場所へと空いた、あの穴の中を探索してもらうかもだからね。でも今はまだ、時期尚早さ。まだ、現代のラジウム・ガールズになられるはこっちとしても、困るからね……君たちは、将来この国を支えてゆく存在なんだから」
彼らがトリップしている東洋思想の幻想と、タキオン粒子の流動を利用した最新式の機器類。空間と空間を繋げる実験などは、既に推し進められているらしい。
「(……気色悪い。今殺そうかな、これ)」
「(……まだ我慢ですよ。ルカちゃん)」
私たちはその大部屋を後にした。
少し前を歩くチエの黒髪は、今やボロ雑巾のようにチリチリになって、無数の脂ぎった光沢を放っていた。
またしても、鳥だ。
今や冴え切った視力で捉えることの出来る、オレンジの飾り羽。中空に浮遊しながら、暗闇の中で小さな光の粒を纏っている。
一体、私に何の用があるのだろう。
それにしても、眠い。眠すぎる。きっとまだ完全に、この力に身体が慣れてないのだろう。私は弛緩しきった四肢に精一杯の力を込めながら、何とか固いベッドの上で上半身を起こした。
暗闇。檻の中から覗くフロアーの景色はいつもと変わらない。向こう側にいる彼女以外は。
「虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……」
端っこにいる檻の中で、発狂したナンバー11のエルちゃんが虚ろな目で小さく呟き続けていた。
「(お腹空きましたね、ルカちゃん)」
チエはいつもどおり。怖いくらいいつもどおりだった。この子は本当に強い子なのだろう。いつも気を張ってばかりの、私なんかとは違って。出来れば、この子とずっと一緒にいられたらいいのに。何となくそう思い始めていた。
「(……ねえ知ってる? 大昔はいきすぎた科学技術は黒魔術として扱われてたらしいよ。きっと今じゃ、その価値観が逆転してるんだよ。いきすぎた黒魔術の荒唐無稽な力を、科学で何とか実現しようとしてる。突き動かしてるのは人間の悪意。だからあいつらのやってることってのは結局──)」
「(やっぱり、こうして話してないと不安ですか?)」
私はギュッと目を瞑った。
それでどうにかなる訳でもないが、今はそれしか選択肢がない気がした。
そして暗闇の向こう側にいる少女に──頭の中で話し掛ける。
「(……ごめん。今日はイメージの訓練も終わったし、早く寝よっか)」
「(私は不安です。もっと話してください。何なら一晩中、話し掛けてきてください。ルカちゃん)」
暗闇の中で、はっと息を呑んだ。
チエの元に今すぐ駆け寄って、彼女をぎゅっと抱きしめてあげたい気持ちになった。彼女に、この手で直に触りたい気持ちになった。これはこの地獄を通じて知りあった仲間への友情の証なのか。それとも、何か別の感情なのか。
どんな化学やオカルトの話よりも奇妙で、不可解で、複雑怪奇で、とてもじゃないが理解が及ばなかった。
私たちはきっと皆、それぞれが心に宇宙を宿しているのだ。
エルちゃんの囁やきが、さらさら流れる小川のように部屋の中央部に木霊していく。
「虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……虹、向日葵、息……」
「(出来れば、ずっとこうしていたいです。ルカちゃんと、ずっとお喋りしてたいです)」
「(そうね、うん……じゃあ、もうちょい話そうか。そんで後もう一回、イメージの修行しよう)」
「(……はい!)」
この力は、イメージの世界だ。
私たちは想像力で天地をひっくり返す。
この地獄の淵から、きっと抜け出してみせる。
エルちゃんの投げ込まれた死体安置所を横切って、被検体保管フロアーのあるB棟から、指導員を先頭に隊列を組んで出てゆく。
区域内の離れにある小さな教会で、私たちはいつものように老神父からよく分からない説法を聞かされていた。
非論理を排斥する人工知能の親玉が、こうして前時代の慣習を現存させているのには何か訳があるのだろうか? それとも信仰には、何か私の知らない、それこそ化学の力にも匹敵する革新的な魔術が未だに残っているのだろうか?
「さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出でてきた群衆に向かって言った」
「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、逃れられると、お前たちに誰が教えたのか」
ドレッドヘアーの目立つ、黒人の神父が何か呟いている。どうやらルカの福音書と呼ばれるものらしい。私の本当の名前。そして奇しくも、私たちの数字と同じ並び──第3章7節。
バプテスマとは──確か「洗礼」のことだったはずだ。清らかな水に浸されて、また新たに生まれ変わろうとしている信者たちに向けて執り行なわれる神聖な儀式。どうやらそれは、本当の意味で神に立ち返ろうとせずに、ただ地獄から逃れたいという一心で、そのバプテスマを受けようとしている人々を、「まむしの子」と呼んで批判している一節らしい。
私たちが弟子として仕えるべき主とは誰だろう? 分からない。この国の党首ではないことだけは確かだ。
帰り際、その神父から声を掛けられた。
その声は、日々の寝不足で浮ついていた私の脳髄に、一筋の雷電を落とした。
「次の火曜の午後だろう? 止めておけ。確かに監視は緩くなるが、力に目醒めたのは君たちたった二人。全員で脱出は無理だ」
振り返ると彼は、私を無表情に、まるで雨の日の自宅の庭でも眺めるように静かに見下ろしていた。単なる客観的な事実を述べたに過ぎないとでもいうように。神父は更に淡々と続ける。
「我々の全へのハッキング攻撃が奏功し、生じたこの最初の故障──上からの圧力を掻い潜って、『この部署』を残しておくのには中々骨が折れるんだよ。もうすぐ私も異動になる。話すのは今日が最初で最後だ。会えてよかったよ」
私は頭をフル回転させて、その男とコミュニケーションをとろうと試みた。たが、遂に言葉が口をついて出てくることはなかった。
「君は、史上最悪の被検体と呼ばれている。しかし中には、神の御子と呼ぶ者もいる。ここの連中からしたら最悪というのは最高と同義だからな。規格外の数値に加えてその梵の力だ。これ以上、少しでも能力の発露が観測されれば、次からは本当に何の自由も与えられず、この場から一生逃れられなくなる。こうして少し外に出て、神父のありがたい説法を聞くこともなくなる訳だ。だからやめておけ。出来れば、次のチャンスを待ってほしい」
私は、何とかして言葉を絞り出した。
「……一体、いつになったら次が来るんですか?」
「分からない。だが、然るべき時は来る。必ず……それに梵は魔法なんかとは違う。その強大な力は、いずれはきっと、お前の身を滅ぼす」
遠く向こうから、次の演習を担当する指導員が迫ってくる。
──梵の力が、私を滅ぼす──
私は神父の静かな目線を背中に感じながら隊列の中へと戻り、次の棟へと歩を進め始めた。
こうしてリスクを犯してまで、あれだけ大掛かりな「部署」を残してまで内部に潜伏し、気の遠くなるような年月のレジスタンス活動を経て──伝えたかった言葉がやめておけ、だと?
私は信じられなかった。大人というものが。
世界というものが。何もかもが分からなくなった。
だから絶対に、この計画を完遂しようと決心した。




