夢幻‐音楽の話‐
薄暗がりの中、巨大なフロアーの四隅に設けられた遠くの長方形の硝子窓から、光の結晶が放たれているのが見えた。汗ばんだ上着を摘んで風を送り込む。もしかしたら、七月はもうやってきたのかもしれない。昨日、いつものように外で演習をやらされた時には、青空がやけに高く感じた。
夏だ。夏がきたんだ。
恐らく、ここへ来てからおよそ半年程の時間が流れたはずだ。この全ての悲劇は、まるで全てが一瞬の出来事でしかないかのような気がしてきた。
今日も頭が重い。目が霞む、思考回路が散漫で、なかなか定まらない。この力を手にしてからというもの、私はますます眠れない体質になってしまった。向こう岸にいるあの怪力少女が毎晩、寝静まった部屋に高鼾を響かせているのが羨ましい。
それにしても、惨い。とてもじゃないが、やり切れない。ぼんやりと思い出す。あまりにもあっけなかったので、今では記憶がただの妄想に変わっているのではないかとさえ思う。
昨日はナンバー5とナンバー6が殺された。重火器の扱いに長け、今回の脱走計画の要となるはずだった女の子二人組だ。
それも、ただの気まぐれのようだった。白衣の大人たちが日々液晶パネルに記録している何らかの数値は、最早彼らのお気に召すものではなくなったらしい。二人は、ゴミ箱にプレゼントの包み紙を投げ捨てるように処理された。
「これはもう、要らないな……」
目隠しをされたまま炎天下の空の下へと連れ出されていく途中、廊下で痩せ細った骸骨のような顔をした男の指導員と、背の低い見た目の若い女の指導員が、そんなことを話していたのを「視た」。
巨大な三角錐のタワーの麓に隣接された広大な基地。
まるで都市型の公園のように、トーキョーラマと呼ばれる都市のど真ん中に開いた空洞。虫食いになった緑と土気色の大地、各種の施設の中で、私たちは日々何かしらの実験や訓練を強制されていた。
そしてあの塹壕の中、気付くと二人は何かしらの機関銃の側で、脳漿を垂らして横たわっていた。軍服に朱色の筋と、粘着質で透明な液体が垂れ落ちているのが「視えた」。
暫くして清掃員がやってきた。私はそれを遠くの位置から覗き込んでいた。この時の私には、目を隠されていたって何だって「視えた」のだ。
次に瞼の裏に浮かんだのは、指導員の一人が遥か後方、正面ロビー方面から三番ゲートを潜り、私の方角へと歩を進めている映像。私はそそくさと持ち場へと戻り、そこに置かれていた機関銃に手を掛け、強烈な振動と爆音と共に、前方の壁に並ばされていた数十人の死刑囚たちを右から順に撃ち殺していった。
銃は嫌いだ。それに自分が何故、こんなことをやらされているのかも分からない。
ここにいる大人たちだって、結局のところ皆、広大な中華連邦の端っこにある小さな島国を統治し、滞りなく経済活動を回すために従順に人工知能の命に従っているだけだ。
子供たちを一端の殺戮兵器として育てたり、好き勝手に人体実験を繰り返すのが、この国の長によると極めて論理的な思考実験に依る「演習」であるらしい。
特に好き勝手扱っても何の問題もない、他所様の宇宙の子供であれば尚更だ。
無から有を生み出す。
どうやら私たちが元々いた宇宙には何か秘密があるらしい。
「これこそが、死者の特権ってやつね。これ以上、もう死なないでいられるのは」
近寄ってきた見た目の若い女の指導員が、満足そうにそう呟いた。
初めてここで、人をこの手で殺めた時の記憶は私にはもう残っていなかった。
どうやらここで過ごしていると、都合の悪いことはこうして全部忘れていくようだった。
ありとあらゆる投薬によって、人間としての全ての感情を失いかけていた。
あの子のこと──
チエちゃんのこと以外は。
ヘンテコな鳥だった。
あれは何という品種なのだろう。雉鳩? 違うか。極楽鳥のように派手な飾り羽と、顔周りの模様。全体的にオレンジがかって見える。
遠い薄闇の向こうで見たこともない鳥の目が、私をじっと見つめている。
しかしその視力の魔術も、次の瞬間には消え失せてしまった。もう鳥の姿は、ぼやけた霞の中へと消えた。目頭を強く揉む。今やこんな幻想を視るまで、私の頭はイカれてしまったのか。日々、変調していく肉体と精神の狭間で──今は脱出作戦の日まで、時間が過ぎ去るのを待つだけだった。
「(……サビの部分でボーカル含む各楽器チャンネルの音量レベルがグッと持ち上がる、特にグランジと呼ばれるロックのサブジャンルでは──)」
「(ちょっと! 頼むから黙ってておくれチエちゃん。せめて、事前に許可を取ってよ! 急に頭ん中に勝手にウンチク垂れ流されたら困るよ)」
「(でも、聴いたら絶対に気に入りますよ! 多分、お父さんが言ってました! この国の、この世界の音楽のレベルは宇宙一だって! きっと百年後も残るだろうって。そんで宇宙人が地球を侵略しに来た時に、そのレベルの高さに驚愕するだろうって。いや、正確にはお父さんの記憶はなくって……)」
「(もういいから! 本当にお願い!)」
私は頭の中で叫んだ。
すると遠い向こう側で、チエちゃんが、長い黒髪を項垂れているのが……今夜は視えはしなかったが、しっかりと感じ取れた。
「(……ごめん、つい)」
「(いえ、私の方こそ、すみませんでした……)」
一呼吸を置いて、私は彼女に思念を送った。
「(……映画も音楽もさ、本来人間が生きていくのには、直接必要ない訳じゃん? でも、何で昔は世界中で作られてたんだと思う?)」
「(……仕事? お金になるから?)」
私は思わず吹き出した。勿論、頭の中で。
「(チエちゃん、意外とリアリストなんだね。まあそれもあるだろうけど、一番重要なのは、やっぱ人間は芸術を食べていかないと、心が死んじゃう生き物なんだよ。だから……そんだけ映画や音楽に詳しかったチエちゃんのお父さんは、本当に心の豊かな人だったんだと思うよ)」
また少し間を置いて、チエからの返答があった。その声は、少し涙くんでいるような調子に感じた。実際、どうだったのかは分からない。どっちだっていい。
「(ありがとうございます、ルカちゃん……)」
フロアーを満たす張り詰めた空気が、私たちの間をゆっくりと流れてゆくのを感じた。全ては流動するエネルギー。今、時間と空間を支配しているのは、この今という瞬間だけだった。
チエと話し相手になって以来──不思議な力を持つ者同士の友達になってから、私はこうして話しているうちに、例の不安を拭い去ることが出来るようになった。いや、これだけうるさくされたら、忘れざるをを得ないのだ。毎回、毎回──
「(こうしてルカちゃんと話してると、何だか安心します)」
「(……ちょっと! それこっちが先言おうと思ってたのに!)」
「(えへへ。一番乗りー)」
そうだ。この子がいなければ、私はとうの昔に発狂していたに違いない。
「(たまに、これって全部、夢なんじゃないかなって思う時ありません? 一炊の夢、胡蝶の夢、邯鄲の枕とか……色々言い方はありますけど、全ては一瞬の内に過ぎ去ってゆく夢)」
「(意外と難しい言葉を知っているのだな、と思いながら私はチエの方を見やった)」
「(いや失礼ですね、それぐらい知ってますよ)」
私は不意を突かれて驚いた。
「(ああごめん、なんか漏れてたわ。気を付ける)」
「(下ネタですか?)」
「(ちげーわアホ、黙っとけ)」
一瞬の沈黙の後、私たちはお互いに頭の中で笑い出した。
こうしてテレパシーを通して大声で笑い合ったのは初めてだった。何とも趣が深いものだった。
もしかしたらこの宇宙で執り行われた、初めての試みだったのかもしれない。
本当に不思議な子だ。
こうして全てが、良い意味で馬鹿馬鹿しくなってしまう。
私は体育座りをしながら、チエに向かってこのテレパシーを送り続けた。この子と一緒なら、全てを笑い飛ばしてやっていけるような気がしてきた。
私が、この子を守るんだ。
この先、何が待ち受けていようとも。




