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第8話「お忍び」

数日が経っても、村の噂は消えなかった。

市場での会話、食堂での笑い話、果ては井戸端会議のネタにまでなっていた。


「ねえ知ってる?王女様がバルダーにプロポーズしたんだって!」

「いや、バルダーは王子になるのかもな!」


そんな周囲のざわめきをよそに、当の本人のバルダーは畑で黙々と鍬を振るっていた。

今日も陽は高く、空は澄み渡っている。土の香りと汗の感覚が、世俗の喧騒から彼を遠ざけてくれる。


その時だった。

畑の端にある木の陰、風の音に混じって微かに「しゃり……しゃり……」という足音がした。


「……ん?」


警戒心を滲ませ、バルダーは手を止めてゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、一人の人物。顔を深くローブのフードで隠していたが、背格好と仕草からして若い女性であることはすぐに分かった。

農村には似つかわしくない、洗練された布地。警戒心が胸をよぎる。


「……誰だ?」


低く問いかけるバルダーに、相手は一拍おいて答えた。


「……バルダー」


名を呼ばれた瞬間、バルダーの目が微かに見開かれた。その声に、聞き覚えがあったからだ。いや、忘れようがない。


「……おま……まさか、レオナ王女!?」


驚きと呆れが入り混じった声。

ローブの裾をひるがえしながら、レオナはぱっとフードを外した。

美しい赤毛と、エメラルド色の瞳が太陽光に輝く。以前のような豪華な装飾を付けていなかったが、それが却って彼女の本来の美しさを際立たせていた。


「正解、お忍びってやつよ。数日ぶりだわね、農夫殿」


彼女は変わらぬ自信満々な笑みを浮かべていた。


「バカかお前!一人で来るなんて!?ここは王都じゃねえんだぞ!護衛は!?まさか本当に……」


「いないわよ?お忍びだもん」


「“お忍び”ってレベルじゃねぇよ……!マジで一人で来たのか!?霧の渓谷をどうやって抜けた!?あそこは、魔物や盗賊がうようよしてるって!王女がノコノコ一人で歩けるような場所じゃ―」


呆然とした表情のまま、バルダーはレオナに詰め寄った。

しかし当の王女は、肩をすくめ、涼しい顔でくるりと振り返る。


「ふふん♪そんなのフィリア様に転送してもらったに決まっているでしょ?」


「……え?」


バルダーはしばし沈黙し、ポカンと口を開けた。


「……は?フィリアって……あの、エルセリオンの……伝説のエルフの、システィーンの師匠の、あのフィリアさん……!?」


「そうよ。私と、最近ちょっと仲良くなったの。お茶を一緒にしたり、髪型の話をしたり……いろいろ」


「いやいやいやいやいやいやいや!!フィリアさん、そんな気軽に“人間を村の近くまでワープ”とかしないでしょ!?なんで王女様のお忍び旅にそれを使わせるんだよ!!」


「ふふ、頼んだら笑って転送してくれたわ。"まったく、あなたって子は……いいでしょう、でも無茶しないように"って♡」


「フィリアさんの無駄遣いだろ……」


頭を抱えるバルダーに、レオナは悪びれる様子もなく、草の上に座り込む。


「だって、バルダーに会いたかったんだもん」


「………………」


しばし言葉を失い、ため息をついたバルダーだったが、すぐに首をかしげるように問いかけた。


「……ていうか、いつからそんな“フィリアさんとお茶する関係”になってんだよ……」


「それはね、ブリシンガー殿のおかげよ」


レオナは胸を張って即答した。


「彼が以前の戦いで、すべての種族を繋いでくれた。お互いの垣根を超えて協力し合った。今では外交的な繋がりも、文化交流も進んでいる。あの方がいなかったら、今でもエルフと人間の深い交流なんて、夢のまた夢だったわ」


「だからね、私はエルフの国にも行ったし、フィリア様とも交流してる。つまり―」


レオナはバルダーに指をピンと立てる。


「私がここに一人で現れたのは、決して無謀なんかじゃないのよ。むしろ最先端の政治成果の象徴なの。分かった?」


「いや、言い方変えても、要するに“ワープしてきたお忍び王女”だろ。危なすぎる……」


「ふふっ、バルダーってば、心配性ね」


その微笑みは、以前の女王として訪れた時よりもどこか柔らかく、穏やかなものだった。


「今頃、王都ではパニックになってるんじゃねえのか?王女が居ないとか、えらいことになるぞ」


「大丈夫よ、信頼出来る家臣にはこのことを伝えているわ。この村には貴方と、ブリシンガー殿がいるじゃない。むしろ、王都にいるより安全よ。抜け出すのもこれが初めてじゃないし」


「慣れとんのかい」


レオナは立ち上がり、颯爽と歩き出す。


「さ、バルダー。早く私を貴方の家まで案内なさい♪」


バルダーは頭を抱えて嘆いた。


「こっちは静かに暮らしてるってのに……。なんでこうも、騒がしくなるんだ……」


「ん?何か言った?」


「……いや、何でもない……」


気だるそうに肩をすくめながらも、バルダーは鍬を地面に突き立て、渋々歩き出す。

一国の重要人物を流石に放っておく訳にはいかない。


「……ったく。こっちだよ。俺の家、言っとくが狭いぞ?ふかふかのベッドもねぇぞ?」


「それで充分よ。だって、バルダーがいればいいもの」


それを聞いたバルダーが少したじろいだ後、歩を進める。

レオナは楽しげにその背に並んで歩きながら、あたりを見回す。


「やっぱり素敵ね、この村。風が心地いいし、空も広い。鳥のさえずりまで澄んで聞こえる……まるで絵本の世界みたいだわ」


「……あんたがいるだけで、ちっとも静かじゃねぇけどな」


やがて、バルダーの住む家に到着した。以前は農家の住み込みで手伝いをしていた彼だったが、一人で住みたいという彼の為に大きな小屋一つを家に改造し、与えられた。


「……ここだ」


「……まあ。まさか、こんな可愛らしいおうちだったなんて……!」


「あまりジロジロ見るなよ、人に見せれる家じゃねえし」


レオナはもう聞いていなかった。目を輝かせながら玄関を開け放ち、中にズカズカと入り込んでいく。


「土の香りがする……!キッチンが見える……!天井が低いけど、それもまた趣があるわ……!」


「勝手に人の家を博物館みたいに評価すんな」


だが、そんなぼやきもどこ吹く風。レオナはバルダーの方へくるりと振り向くと、誇らしげに手を腰に当てて宣言した。


「今日からここが、私の城よ!」


「帰れよマジで」


一通り落ち着いたあと、レオナは窓辺に腰かけていた。

陽光が彼女をやわらかく照らし、村の静けさと相まって幻想的な空気が流れる。


「バルダー。ここでの暮らしは好き?」


不意に発せられた言葉に、彼は鍋に火をかけながら答える。


「まあな。静かだし、平和だし……戦いばっかだった頃に比べりゃ、平和すぎて体が鈍るけどよ」


「……いいところね、本当に。王都の喧騒なんかより、ずっと落ち着くわ」


その声は先ほどまでの明るい調子とは違い、どこか柔らかく、そして少しだけ寂しげだった。


「王女ってのも、大変なんだな」


木のコップにお茶を注ぎ、彼女に出すバルダー。


「村で騒ぎになるのは困るからよ……この辺の人たちに目立たないようにしてくれよ」


「ええ。貴方の隣に、しばらく居させてもらうわ。村の生活、学ばせて?こういう暮らしも知らなくちゃ」


「……嘘くせぇ動機だな」


「……ふふっ、バレた?」


レオナは小さく笑った。

彼女は湯気の立つお茶を一口すすると、ふと部屋の隅に目をやった。


「……このあたり、少し埃が溜まっているわね。掃除するわ」


そう呟くと、彼女は立ち上がり、戸棚の上に手を伸ばした。指先に触れた埃を見て、やれやれと笑いながら軽く払う。


「おい、ちょっと待て……掃除なんて、王女様のやることじゃねえだろ」


慌てて立ち上がろうとするバルダーを、レオナは軽く手で制した。


「私、こう見えても掃除や料理は得意なの。王城にいる時も、使用人に任せきりにはしてなかったのよ。自分の部屋ぐらい、自分で整える方が落ち着くから」


「マジかよ……」


あっけに取られるバルダーの目の前で、レオナはさっさと布を手に取り、器用に窓辺の拭き掃除を始めた。


「料理も、こう見えて得意なのよ。料理人たちの作る料理も悪くないけど、私の方が上手に出来ると思って一人で練習していたら、出来るようになっちゃったの」


彼女は鼻歌まじりに笑いながら言った。


「まさか、王女様に家の掃除される日が来るとはな……」


バルダーは頭を掻きながら、座り直す。


「貴方は畑仕事で疲れているのでしょう?生活面は私に任せて。住まわせて貰っているお礼。交代よ、今日から」


「交代って……」

レオナは振り返り、腰に手を当てて得意げに笑った。


「“レオナ・ヴァルクリア”、王女でありながら家庭スキル高し。王族にも、庶民の暮らしを学ぶ義務があるってことよ」


彼女の笑顔には、どこか無邪気で温かさがあった。


「……城で、そういうことやるのが好きだったってのは……ホントなのか?」


「ええ、本当よ。まぁ見ていなさい」


それは、王女としての計算された振る舞いでもない。ただの、ありのままの彼女だった。

バルダーは一瞬、何か言いかけて、だが言葉を飲み込んだ。

レオナはそんな彼の様子に気づいてか気づかずか、さっさと次はキッチンに向かうと、戸棚の中を覗いた。


「さて、次はキッチン。食材チェックと……調味料の配置が酷いわね、これはちょっと改革が必要ね」


「おい、勝手に改造すんなよ……!」


だが、その声には、どこか呆れを超えた微笑が滲んでいた。

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