第22話「難しい言葉」
とある日の、ファルデン村の午後。
日差しが窓から柔らかく差し込み、木造の小さな家の床へ四角い光を落としていた。
台所では、システィーンが夕食の下ごしらえをしている。
鍋からは野菜を煮込む穏やかな香りが漂い、開け放たれた窓の向こうからは、遠く畑を耕す音と鳥の声が聞こえていた。
そんな、いつもと変わらない午後だった。
ただ一つ、食卓に座るブリシンガーを除いては。
「…………」
彼は一冊の分厚い本を、恐ろしく真剣な顔で読んでいた。
革張りの表紙、細かな文字。
題名は、
『万象存在論及び霊的構造体系における生命概念の多層的考察』
だった。
今朝、村の道端で拾ったものだった。
どうやら王都から来た旅人が落としていったらしく、持ち主を探したものの見つからなかったため、とりあえず家へ持ち帰ってきたのである。
システィーンが横目で見る。先ほどから、同じ頁を十分近く見ている。
「……ブリシンガー?」
「なんだ」
「その本、面白い?」
「うむ」
即答だった。
「どんなことが書いてあるの?」
「…………」
ブリシンガーの目が、文字へ戻る。
数秒。
「生命についてだ」
「うん」
「かなり深く書いてある」
「へえ」
「……非常に深い」
「具体的には?」
「…………」
さらに沈黙。
システィーンが振り返った。
ブリシンガーは本から目を逸らさない。
「ブリシンガー?」
「……正直に言おう」
「うん」
「よく分からん」
システィーンの手が止まった。
「分からないの?」
「ああ」
「ずっと読んでたよね?」
「二時間ほどな」
「二時間読んで、分からなかったの?」
「ほとんどな」
あまりにも堂々と言うので、システィーンは思わず笑った。
「ふふっ……じゃあ、なんでそんなに真剣に読んでるの?」
ブリシンガーはようやく顔を上げた。
「言葉遣いが格好いい」
「……え?」
「知的に聞こえる」
システィーンが瞬きをする。
ブリシンガーは一度本へ視線を落とし、そして妙に重々しく頷いた。
「今後、俺もこの話法を日常生活へ部分的に導入することによって、知的教養を有する文化的個人としての印象形成を試みようと考えている」
「…………」
システィーンが固まったが、ブリシンガーは満足そうだった。
「どうだ」
「どうしたの?」
「今のだ」
「何が?」
「知的だっただろう」
「……長かった」
「そうか?」
「うん」
システィーンは困ったように笑い、再び野菜を切り始めた。
「いつもの喋り方でいいと思うけどなあ」
「それでは学習成果が反映されない」
「内容は分かってないんでしょう?」
「文章表現は学んだ」
「そこだけ学んだの?」
「ああ」
妙に誇らしげだった。
システィーンが鍋を覗き込みながら尋ねる。
「ブリシンガー、お水取ってくれる?」
ブリシンガーが立ち上がった。
「了解した。現時点において君が必要としている液体資源は、あの陶器製容器内に保存されている飲用可能な水分であると認識して相違ないか?」
「……お水取って」
「これか?」
「それ」
水差しを渡す。
「ありがとう」
「当該要求に対する物品移送行為は完了した」
「普通に"どういたしまして"って言って」
「どういたしまして」
即座に戻った。
数分後。
「ねえ、味見してくれる?」
「承知した。当該煮込み料理における塩分濃度及び香辛料の総合的配分について、俺個人の味覚機能を用いた―」
「味見して」
「分かった」
一口。
「……摂取した食物群が味覚受容器へ及ぼす刺激が、極めて肯定的な―」
「もういいよ!」
システィーンが笑いながら彼の腕を軽く叩いた。
「普通に"おいしい"でいいの!」
「……そうか」
「うん」
「では、おいしい」
笑い声が、小さな家の中に響く。
「簡潔すぎないか?」
「それでいいの」
その後。
システィーンが戸棚の上に置かれた籠へ手を伸ばす。だが、微妙に届かない。
「ん……」
背伸びをする。
その後ろからブリシンガーが何気なく腕を伸ばし、籠を取った。
「ほら」
「あ、ありがとう」
「君の身体的全高では当該収納位置への接触が困難であるため、今後―」
「背が足りないって言いたいの?」
「概ねそうだ」
「概ねじゃないの!」
ブリシンガーは少し考えた。
「では訂正する」
「うん」
「ちっちゃい」
「訂正したら悪化した!」
家の中にシスティーンの声が響き、ブリシンガーは不思議そうに首を傾げる。
「難しいものだな」
「あなたが自分で難しくしてるの!」
夕食の頃には、システィーンもすっかり慣れてしまっていた。
二人は向かい合って食卓につく。
パン。
野菜の煮込み。
今日採れたばかりの豆。
特別なものは何もない。
システィーンがパンをちぎりながら、向かいを見る。
ブリシンガーはまだ例の本を隣の椅子に置いていた。
「そんなに気に入ったの?」
「ああ」
「内容分からないのに?」
「ああ」
「……変なの」
「文章には価値がある」
ブリシンガーは真顔で言った。
「俺も長く生きてきたが、ここまで一つのことを説明するために大量の言葉を必要とする者は珍しい」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
システィーンがくすくす笑う。
ブリシンガーはスープを一口飲み、何かを思いついたように顔を上げる。
「システィーン」
「なに?」
「現在俺が君と共同生活を維持している状況について、その心理的充足度を言語的に表現するならば―」
「待って」
システィーンが手を上げた。
ブリシンガーが止まる。
「……なんだ」
「それ、もしかして何かいいこと言おうとしてる?」
「そうだ」
「じゃあ普通に言って」
「何故だ」
「普通のブリシンガーが言った方が嬉しいから」
「…………」
ブリシンガーは黙った。
例の本を見てからシスティーンを見る。
もう一度、本を見る。
ぱたんと本を閉じた。
「分かった」
いつもの低く、静かな声だった。
システィーンが微笑む。
「うん」
ブリシンガーは少しだけ考えた。
そして、ごく当たり前のことを言うように口を開いた。
「……一緒に暮らせて、幸せだ」
システィーンの手が止まった。
「…………」
今度は彼女の方が黙る番だった。
頬が、ゆっくりと赤くなる。
ブリシンガーが首を傾げる。
「どうした」
「……ずるい」
「何がだ」
「さっきまであんな変な喋り方してたのに、急に普通にそういうこと言うの、ずるい」
「普通に言えと言ったのは君だろう」
「そうだけど……」
システィーンは口元を隠しながら笑う。
「……私も幸せだよ」
ブリシンガーの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そうか」
「うん」
短い。
たったそれだけだった。
けれど先ほどまでの難解な文章よりも、二人にはずっとよく伝わった。
しばらく穏やかな沈黙が流れる。
窓の外では、夕日が村を橙色に染め始めていた。
やがてシスティーンが、閉じられた本を指差した。
「ところで、それどうするの?」
「最後まで読む」
「分からないんでしょう?」
「いつか分かるかもしれない」
「そっか」
「それに」
ブリシンガーは本を持ち上げる。
「難しい言葉をいくつか覚えた」
システィーンの笑顔が少しだけ引きつった。
「……まだ使う気?」
「ああ」
「ほどほどにしてね?」
「善処する」
「ほら、もう難しくなった!」
「これは普通だろう」
「いつもそんな言葉使わないでしょう!」
夕暮れのファルデン村に、二人の笑い声が小さく響いた。
かつて神の戦士と呼ばれた男は、もう世界の異変を追ってはいなかった。
剣を握ってもいなかった。
難しい本を拾い、内容もよく分からないまま読み、覚えた言葉を妻に使って呆れられる。
そんな、何でもない一日を過ごしていた。
そして今の彼にとってはそれこそが、何より大切な時間だった。




