第21話「剣聖、礼儀作法を学ぶ」
カリスが王都を去って数日。
グランヘイム王城の一角にある、小さな礼法室。
普段は若い貴族や王族の子女が、宮廷での立ち居振る舞いを学ぶために使われている部屋だった。
磨かれた床と、壁際に並ぶ椅子。
中央には長い絨毯が敷かれ、その先には大きな姿見が置かれている。
そして今そこにいる世界を救った英雄の一人。
王都で剣聖とまで呼ばれる男、バルダー・ガインルフが、その絨毯の上で、これまでにないほど険しい顔をして立っていた。
「……もう一回言ってくれ」
向かいに立つレオナが、腰に手を当てる。
「だから、まず王族に対する基本の礼よ」
「そこまでは分かる」
「男性の場合、正式な場では右足を半歩引いて、背筋を伸ばしたまま上体を傾けるの」
「それも分かった」
「ただし相手によって礼の深さを変えるわ」
「……そこだ」
バルダーの眉間に皺が寄った。
「なんで変えるんだ」
「相手の身分が違うからよ」
「全員同じじゃ駄目なのか?」
「駄目」
「なんでだ」
「礼儀だから」
「理由になってねぇ!」
レオナは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
その隣には、王宮で長年礼法を教えている老婦人が立っていた。
名をエレノアという。
六十を越えてなお背筋は真っ直ぐで、灰色の髪をきっちりとまとめた、小柄ながら威厳のある女性だった。
王族ですら彼女の前では姿勢を正す。レオナも幼少期から何度となく叱られてきた相手である。
「バルダー殿」
「はい」
バルダーの返事だけは妙に良かった。
「理由を考えてはいけません」
「……はい?」
「まず覚えるのです」
「……」
バルダーは今まで敵を見る時にも見せたことのない顔をした。
理解不能。
そう書いてある。
少し離れた椅子に座って見学していたレオナが、とうとう肩を震わせた。
「笑うなよ」
「わ、笑ってないわ」
「笑ってるだろ」
「だって……ふふっ……あなた、村で鍬を持ってる時はあんなに堂々としてたのに……」
「鍬なら耕すか掘るかぐらいだろ!」
「礼儀作法も同じよ」
「どこがだ!」
エレノアが軽く咳払いし、二人が同時に口を閉じる。
「続けます」
「……お願いします」
まず、立ち姿。
これは簡単だった。
「背筋を伸ばしてください」
言われる前から伸びている。
「顎を少し引いて」
すぐに修正。
「肩の力を抜いて」
一瞬で対応。
「重心を均等に」
完璧だった。
エレノアがわずかに眉を上げる。
「……これは問題ありませんね」
「まあ、そこはな」
バルダーは少しだけ得意げになる。
何年も戦場で身体の軸を鍛えてきた男である。姿勢だけなら、そこらの貴族とは比較にならないほど美しかった。
レオナも感心したように彼を見る。
「こうして黙って立っていると、本当に貴族っぽいわね」
「こうして黙ってって何だよ」
「喋ると崩れるのよ」
「失礼だな!」
「そこです」
エレノアの声が飛ぶ。
「王女殿下に対して"失礼だな"ではありません」
「……じゃあ何て言えばいいんです?」
「"恐れながら、殿下"です」
バルダーがレオナを見る。
「恐れながら、殿下。失礼だな」
「後ろがそのままじゃない!」
レオナが即座に突っ込んだ。
「難しいな……」
「難しくないわよ!」
次は歩き方。
これも最初は順調だった。
「一定の速度で」
「はい」
「足音を立てず」
「はい」
「視線は前へ」
「はい」
バルダーが歩く。滑るように静かだった。
足音がほとんどない。
エレノアが少し驚く。
「……随分お上手ですね」
「敵に気付かれないよう歩く訓練は散々やったんで」
「目的が違います」
「結果は同じじゃないですか」
「違います」
「そうですか……」
そして問題は、挨拶だった。
エレノアが説明する。
「国内外を問わず、国王陛下の前ではこの位置で止まり、まず一礼。その後、お声が掛かるまで待ちます」
「はい」
「王妃の場合も基本は同様です」
「はい」
「王太后がおられる場合は―」
「待ってください」
「はい?」
「王妃と王太后は違うんですか」
レオナが目を見開く。
「違うに決まってるでしょう!?」
「いや、言葉が似てるだろ」
「似てないわよ!」
「王がいて、その妻が王妃だろ?」
「そう」
「王の母親が王太后」
「そうよ」
「じゃあ前の王の妻は?」
「場合によるわ」
「……」
バルダーが止まった。
「場合による?」
「ええ」
「……敵の第二形態みたいなものか?」
「何の話よ!?」
エレノアが額を押さえた。
「バルダー殿」
「はい」
「宮廷社会を魔物の分類のように覚えないでください」
「でもその方が覚えやすいんですが」
「駄目です」
「はい……」
次は貴族への呼び方。
「公爵」
「公爵」
「侯爵」
「侯爵」
「伯爵」
「伯爵」
「子爵」
「子爵」
「男爵」
「男爵」
「以上です」
バルダーはしばらく黙っていた。
「……何が違うんだ?」
レオナが椅子からずり落ちそうになった。
「全部違うわよ!」
「いや、だから何が!」
「爵位が!」
「全部偉い人なんだろ!?」
「そうだけど!」
「じゃあ"貴族さん"で統一できないのか?」
「できるわけないでしょう!」
「便利なのに……」
「便利さで王宮を運営しないで!」
さらに数十分。
バルダーの顔から、徐々に生気が消えていった。
礼の角度。
立つ位置。
扉の開け方。
椅子へ座る順番。
他人の会話へ入るタイミング。
目上の者へ話しかける際の前置き。
紹介された時の返答。
廊下ですれ違った時の礼。
正式な謁見。
非公式な謁見。
「待て」
バルダーが両手を上げた。
「まだあるのか?」
エレノアは淡々と答えた。
「今お教えしているのは、基本中の基本です」
「……」
「今日中には終わりません」
「……」
バルダーはゆっくりとレオナを見た。
「君さ」
「なに?」
「よくこんなの全部覚えたな」
あまりにも真剣な声だった。レオナは一瞬きょとんとして、少しだけ嬉しそうに笑った。
「まあね」
胸を張る。
「私は王女だもの」
「……すげぇな」
「え?」
「いや、本当に」
今度はからかいではなかった。
「俺なら剣を百本振る方がまだ楽だ」
「そんな比較されても困るけど……」
レオナの頬が少し赤くなる。
これまで彼女にとって、礼法など「できて当然」のものだった。
幼い頃から何度も間違え、何度も叱られ、何年もかけて身につけた。
それを初めて、バルダーが素直に「すごい」と言った。
「……まあ、あなたにもできるわよ」
レオナは少しだけ柔らかい声になった。
「最初から全部覚えなくていいの」
「でも失敗したら君に恥かかせるだろ」
レオナの表情が止まった。
バルダーは姿見の前で、ぎこちなく礼を繰り返しながら続ける。
「俺一人なら別にいいんだよ。田舎者が礼儀知らずだって笑われても」
もう一度。今度は少し深すぎる。
エレノアが無言で手を上げ、角度を修正する。
「でも、君と一緒にいる以上はそういうわけにもいかねぇだろ」
「……バルダー」
「だからまあ……覚えるよ」
頭を掻く。
「時間かかるかもしれねぇけど」
レオナはしばらく何も言わなかった。
やがて彼の隣へ歩み寄る。
「じゃあ、私が教える」
「エレノアさんがいるだろ」
「私も教えるの」
「なんで」
「いいでしょう、別に」
「また厳しくされそうだな……」
「当然よ」
レオナは彼の肩へ手を置いた。
「まず、肩」
「ん?」
「少し力が入りすぎ」
軽く押す。
「そう。もっと自然に」
「こうか?」
「うん」
「で、足は?」
「右を半歩後ろ」
「こう?」
「少し引きすぎ」
「細けぇな……」
「文句言わない」
レオナは笑いながら、今度は彼の顎を指先でほんの少し下げる。
「視線は真っ直ぐ」
二人の距離が近くなる。
バルダーが一瞬だけ固まった。
「……近くないか?」
「指導よ」
「絶対楽しんでるだろ」
「少しだけ♪」
「やっぱりかよ!」
それを眺めていたエレノアが静かに息を吐いた。
「王女殿下」
「はい?」
「指導中に生徒をからかわないように」
「……はい」
今度はレオナが叱られた。
バルダーが小さく吹き出す。
「お前も怒られるんだな」
「君!」
「……あ」
バルダーが口を押さえた。
レオナが腕を組む。
「さっそく一つ間違えたわね」
「そこも礼儀作法に入るのか?」
「私との約束よ」
「そっちかよ」
エレノアは二人を見比べる。
「……先は長そうですね」
「ですよね」
バルダーは深く頷いた。
だがもう一度、姿見へ向き直る。
右足を半歩引く。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
そして教わった通り、ゆっくりと頭を下げた。
先ほどよりずっと自然で、エレノアの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……今の礼は悪くありません」
「本当ですか?」
「ええ」
バルダーの顔がわずかに明るくなる。
レオナも嬉しそうに笑った。
「ほら。できるじゃない」
「……まあな」
少し得意げに胸を張る。
「これでも一応、ブリシンガーの一番弟子だからな」
「礼儀作法と関係ないでしょう」
「何事も修行だろ?」
「そこだけ急に立派なこと言うのね」
「よし」
バルダーは拳を握った。
「もう一回だ」
エレノアが頷く。
「では次は、正式な晩餐会での着席について――」
バルダーの拳が止まった。
「……まだ立つ座るの話するんですか?」
「します」
「剣持ってきていいですか?」
「駄目です」
「ですよね……」
レオナの笑い声が、礼法室いっぱいに響いた。
世界を救った剣聖、幾多の死線を越えた戦士。
だが今は、彼の前に立ちはだかる新たな強敵は、剣でも、魔族でも、神話の怪物でもなかった。
礼儀作法だった。
夕暮れ。
礼法室を出たバルダーは、げっそりした顔で廊下を歩いていた。
「……グロイを相手にしてた方が楽だったぜ……」
「大げさね」
「大げさじゃねぇ」
レオナは隣で楽しそうに笑う。
「明日は晩餐作法よ」
バルダーが立ち止まった。
「……まだあるのか?」
「もちろん。その次は舞踏会」
「帰っていいか?」
「駄目」
「だよな……」
深いため息。
それでも、バルダーは歩き出す所をレオナが横目で彼を見る。
「嫌なら、本当に無理しなくてもいいのよ?」
バルダーは少しだけ考えた。
「いや」
そして、前を向いたまま答える。
「もうちょっとやってみる」
「……そう」
「君が何年もやってきたことなんだろ?」
レオナの表情が柔らかくなる。
「だったら、少しくらい知っときたい」
ほんの少し二人の肩が触れる。
レオナは何も言わなかった。ただ、そのまま王城の長い廊下を、彼の隣を歩いた。
これから先も二人で歩いていく道のように。




