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最終話「受け継がれた役目」

アゼルグラム山脈。

人の国から遠く離れた、雲さえ山腹を這うほどの高峰。

春を迎えた平原では、すでに雪が消え始めていた。

だが、この地だけは季節から取り残されたかのように白い。


風が吹く。

木々を優しく揺らすような風ではない。

岩壁へ叩きつけられ、積もった雪を削り取り、冷たく鋭く、白い粉となって空へ巻き上げる。


人の営みなど拒むかのような風だった。


その中を一つの巨大な影が横切った。


赤い翼。

陽光を受けて鈍く輝く鱗。雲を割るほどの巨体。


ゼルグだった。


一度、翼を打つ。

それだけで大気が低く唸り、周囲の雲が大きく押し退けられる。眼下には、果ての見えない山脈。

人の足なら何日もかかる距離を、彼はわずかな時間で越えていった。


目的地はない。

獲物を探しているわけでも、敵を追っているわけでもない。

ただ、見ていた。


山脈を、その向こうにある森を。

さらに遥か遠く、人々の暮らす国々が存在する方角を。


魔力の流れ、大地の震え、風の違和感。遠い空に生じる、ほんの僅かな歪み。

かつてなら気にも留めなかったものまで、今のゼルグは一つずつ確かめていた。


やがて彼は、一際高い峰へ降り立った。


ズン。


雪原が低く震え、巨大な脚の下から白い粉雪が舞い上がった。

ゼルグは翼を畳み、しばらくその場から動かなかった。


ただ遠方を見つめる。

異常はない。


北方の魔力も安定している。

東方にも、大きな乱れはない。

南では人間たちが街道を修復している。

西方の森林では、エルフの集落が再び外界との交流を始めている。


世界は静かだった。


かつてなら、それを退屈と呼んでいたかもしれないが、今は違う。


「……平穏か」

低い声が、雪山へ響いた。


返事をする者はいない。

ゼルグは目を閉じて脳裏に浮かんだのは、一人の銀髪の男だった。


世界の各地を歩き、幾度も戦い、誰にも知られぬ場所で、数え切れぬほどの災厄を退けてきた男。


ブリシンガー。


あの小僧は長い、長い年月をこうして過ごしていた。

人々が眠る夜も、国が祭りに沸く日も、子どもたちが明日の心配などせず遊んでいる時も、誰も世界の危機など考えていない時でさえどこかに異変はないか、均衡を崩すものが現れていないか。

ただ、見続けていた。


「……なるほどな」


ゼルグがゆっくりと目を開く。


「存外、退屈な役目だ」


皮肉めいた声だったが、そこに不満はない。

むしろほんの僅かに、理解した。ブリシンガーが何を見てきたのか。

何故、あれほど静かな男になったのか。


一万年という時間の中で。


どれほどの国が生まれ、どれほどの国が消え、どれほどの者と出会い、そしてどれほどの者を見送ったのか。

そのすべてを背負ったまま、それでも世界を嫌いにならずに守り続けた。


「……大した小僧だ」


誰にも聞こえない声で、ゼルグは呟いた。


眼下には何も起きていない。


それでよかった。

守護者の役目とは戦うことではない、戦わずに済む日が続くことこそ、本来望むべきものなのだ。


遠く雲の切れ間の彼方に、グランヘイムの方角があり、さらにその西にはファルデン村があった。


そこでは今頃あの銀髪の小僧が、鍬でも振るっているのだろう。

恐らく何か妙なことをして、システィーンに笑われながら。


ゼルグの口元が、ごく僅かに緩んだ。


「……小僧め」


世界の均衡を守り続けた者が今では畑の土と格闘し夕食を食べ、本を読み、妻とくだらない話をして、一日を終える。


笑ってしまうような話だった。


だが、それでよい。

いや、それがよい。


「お前はもう、好きに生きろ」


誰へ聞かせるでもなく、ゼルグは呟いた。


「長過ぎるほど働いた」


ブリシンガーは、人間になった。

寿命を得た。家庭を得た。帰る家を得た。


そしてようやく世界のためではなく、自分自身の人生を選んだ。


ならば。


ゼルグは立ち上がり、巨大な翼を広げる。


「残った分は……」


鋭い瞳が、遥かな世界を見据える。


「我が見ておけばよい」


それだけだった。

使命を宣言する声ではない。誰かへ誓う言葉でもない。

ましてや、自らを英雄と称するようなものでもない。


ただ長い旅を終えた友の背から残された荷を、静かに受け取るような言葉だった。


次の瞬間に轟、と大気が震えた。


巨大な翼が風を叩く。

積もった雪が爆発するように舞い上がり、陽光を受け、無数の白い光となって散った。

赤き巨体が大地を離れる。


一度。

二度。

力強く翼を打つたび、その姿は高くなっていく。


雲を突き抜け、峰を越え、やがて、広大なアゼルグラム山脈さえ、その眼下へ沈んでいった。


そこから見える世界は静かだった。

大地には、新しい草が芽吹いている。

崩れた街道には荷馬車が戻っている。

国境を越え、商人たちが行き交う。


かつて敵同士だった者たちが同じ市場で物を売り、同じ道を歩き、同じ空の下で生きている。


遠いドワーフの里では、今日も炉に火が灯り。

槌の音が、谷間へ響いているのだろう。


王都では新しい時代を担う者たちが剣ではなく言葉を交わし、国と国との間に、新しい道を作っている。


そして。


小さな村では夕暮れになれば、家々の煙突から煙が上がる。


誰かが夕食を作り。

誰かが今日一日の出来事を話す。


笑う者がいる。

怒る者もいる。

恋をする者がいる。

明日の天気を心配する者がいる。


眠りにつけばまた朝が来る。

そのために彼らは戦ったのだ。


英雄と呼ばれるためではない。巨大な像を建てられるためでも、歴史書へ名を刻むためでもない。


名も知らぬ誰かが、明日の朝も当たり前のように目を覚ますために。

また笑って何でもない一日を、何でもないまま、終えられるように。


その当たり前を奪わせないために彼らは剣を取った。


幾つもの命が戦った。

幾つもの手が、倒れそうになる仲間を支えた。


そして長すぎる旅路の果てに、世界はようやくその当たり前を、取り戻した。


ゼルグは何も言わない。

ただ翼を広げ遥かな空を飛び続ける。眼下の大地を、その鋭い瞳へ映しながら。


かつて銀の戦士が歩いた場所を。

システィーンが笑った場所を。

バルダーが剣を振るった場所を。

ドゥガルの槌が鳴った場所を。

カリスが命を懸けた場所を。


そして名も残らぬ、多くの者たちが生き、愛し、守り、未来へ託した世界を。

そのすべてを包むようにただ一頭の竜が、空を飛んでいた。


誰からも称えられることなく。

誰からも命じられることなく。

誰にも気づかれることさえなく。


それでも、確かにかつて銀の戦士が担っていた役目を、今度は彼が静かに引き継いでいた。


やがてその姿も、雲の彼方へ消えていった。


あとに残ったのはどこまでも澄み渡る、青空だけだった。


戦いの時代は終わった。長い旅も終わった。


英雄たちは剣を置き、それぞれの人生へ帰っていった。

そして世界はもう彼らに救われる時を待ってはいなかった。


そこに生きる者たち自身の手で、昨日から今日へ、今日から明日へ。

ゆっくりと、確かに歩き始めていた。


かつて一人の銀の戦士が守り続けた世界。


その大地に今あるものは、また明日が来るという何よりも尊い約束。


それは長きにわたる戦いの終わり、英雄たちの旅路の終着。


そして彼らが命を懸けて守り抜いた、


平和という名の、何でもない一日の始まりだった。

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