第2話「小さな任務」
ファルデン村の空には薄い雲が流れ、畑の若葉は朝露を受けて柔らかく光っている。
どこかの家からは木桶を運ぶ音と、子どもたちの笑い声が聞こえていた。
ブリシンガーは家の前で、鍬を片手に立っていた。
その表情は真剣だった。
まるでこれから難攻不落の要塞に挑む戦士のように、目の前の畑をじっと見据えている。
「……今日の土は、昨日よりわずかに柔らかいな」
「土の状態を見る顔じゃないよ、それ」
隣に立つシスティーンが、くすっと笑いながら言った。
「そうか?」
「うん。完全に敵を見てる顔」
ブリシンガーは少しだけ考え込むように畑を見つめ、それから真面目に答えた。
「油断すれば、雑草は勢力を広げる」
「雑草を軍勢みたいに言わないの」
そんなやり取りをしていると、通りの向こうから村長が歩いてきた。白髪を朝風に揺らしながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「おお、ブリシンガー殿。ちょうどよかった」
「何かあったのか?」
ブリシンガーがすぐに姿勢を正す。その反応があまりにも早かったので、村長は少しだけ目を丸くした。
「いやいや、大したことではありません。ただ、今日は少し人手が足りなくてな。よければ、村の用事をいくつか手伝っていただけないかと」
「任せてくれ」
即答だった。
その声に迷いはない。システィーンは隣で微笑む。
村長は助かったと頷き、指を折りながら説明を始めた。
「まず朝のうちに東の畑の水路を見ていただきたい。昨日少し詰まりかけておったのでな。それが終わったら粉屋へ小麦袋を三つほど運び、その後で鶏小屋の柵を直してもらえると助かる。ああ、それから夕方前には裏手の薪を納屋に積んでおいてもらえれば―」
ブリシンガーは微動だにせず聞いていた。
だが、その眉間には徐々に深い皺が刻まれていく。
村長が説明を終えると、彼はしばらく黙った。
そして、低く呟く。
「……すまん」
「はい?」
「三つ目から、作戦の全体像を見失った」
システィーンが思わず吹き出した。
村長も一瞬ぽかんとしたが、すぐに肩を震わせる。
ブリシンガーは至って真剣だった。
「東の畑の水路、粉屋への物資輸送、鶏小屋の防衛施設修復、薪の備蓄……までは理解した。だが優先順位と各地点の連携が曖昧だ」
「連携しなくて大丈夫だよ」
システィーンが笑いを堪えながら、そっと彼の隣に寄った。
「朝は水路。終わったら粉屋さん。お昼のあとに鶏小屋。薪は夕方で大丈夫」
「……なるほど」
ブリシンガーは深く頷いた。
「四段階の任務というわけか」
「任務じゃなくて、お手伝い」
「分かった。手伝いだ」
その返答だけは素直だった。
最初は手伝いは水路の確認だった。
東の畑へ向かうと、小さな水路に落ち葉と泥が詰まり、水の流れが弱くなっていた。村人たちが困ったように眺める中、ブリシンガーは水路の前に膝をつき、真剣な眼差しで流れを見つめる。
「ここが詰まれば、畑全体の補給が滞る」
「補給って言わないの」
「水は命だ。軽視できない」
「それは正しいけど」
ブリシンガーは棒を使って、丁寧に泥をかき出し始めた。意外にも、その手つきは慎重だった。力任せに壊すこともなく、流れを確かめながら少しずつ詰まりを取り除いていく。
やがて、水がさらさらと音を立てて流れ始めた。
「おお、流れたぞ!」
村人たちが声を上げる。
ブリシンガーは立ち上がり、静かに頷いた。
「補給路、確保」
「だから水路だってば」
次は粉屋だった。
粉屋の前には、小麦袋が三つ置かれていた。大人二人がかりで持つほど重い袋だったが、ブリシンガーはそれを片手でひょいと担ぎ上げた。
粉屋の主人が目を剥く。
「そ、それ一袋だけでも結構な重さなんですが……」
「問題ない」
そう言うと、彼は残り二つもまとめて持ち上げた。
周囲から「おお……」と声が漏れる。
システィーンは苦笑しながら言った。
「無理しないでね?」
「無理はしていない。だが、粉は扱いを誤ると危険だ」
「危険?」
「粉塵は爆発する可能性がある」
「粉屋さんを戦場みたいに見ないで」
粉屋の主人が袋を受け取りながら、腹を抱えて笑った。
「いやぁ、一年とは言え、英雄様に粉袋を運んでもらう日が来るとはなあ」
「英雄ではない。ただの村人見習いだ」
ブリシンガーが静かに答えると、主人は一瞬だけ目を細めた。
「なら、立派な村人ですな」
その言葉に、ブリシンガーは少しだけ照れたように視線を逸らした。
昼を過ぎると、鶏小屋の修理に移った。
問題は、柵の一部が壊れていることだった。だが、ブリシンガーが近づいた瞬間、鶏たちが一斉に騒ぎ始めた。
「コケコケコケッ!」
「……敵意はない」
「鶏に説明しても伝わらないよ」
一羽の鶏が壊れた柵の隙間から飛び出した。
村の子どもたちが歓声を上げる。
「逃げたー!」
ブリシンガーの目が鋭くなる。
「任せろ」
「優しくね!?」
次の瞬間、彼は風のように動いた。
だが捕まえ方は驚くほど丁寧だった。逃げる鶏の進路を塞ぎ、驚かせないように距離を詰め、最後は両手でふわりと抱き上げる。
鶏は一瞬だけ暴れたが、すぐに大人しくなった。
そして、なぜかブリシンガーの腕の中で落ち着いてしまった。
「……懐かれてる」
システィーンがぽつりと言う。
ブリシンガーは腕の中の鶏を見下ろし、少し困った顔をした。
「どうすればいい」
「そのまま戻してあげればいいよ」
「了解した」
その後、彼は柵を直した。釘を打つ力加減だけは少し危うかったが、システィーンが横から「優しく、そこは優しく」と言うたびに、彼は真剣に頷きながら作業を続けた。
夕方になるころには、水路も、粉屋の荷運びも、鶏小屋も、薪の積み上げもすべて終わっていた。
村長は満足そうに笑い、何度も礼を言った。
「いやはや、本当に助かりました。ブリシンガー殿がいてくださると、村の仕事が一日で三日分進みますな」
「それは良かった」
ブリシンガーは静かに答える。
その横で、システィーンが小さく笑った。
「今日は大活躍だったね」
「まだ失敗も多い」
「でも、みんな喜んでたよ」
彼は少しだけ黙り込んだ。
夕陽が畑を橙色に染めていた。家々の煙突からは夕餉の煙が上がり、遠くでは子どもたちが鶏の真似をして笑っている。
ブリシンガーはその景色を眺めながら、ぽつりと言った。
「戦場ではないが……誰かの役に立つという意味では、悪くない一日だった」
システィーンは、隣で優しく微笑む。
「うん。だからこれは、任務じゃなくて日常だよ」
「日常……」
ブリシンガーはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
その声があまりにも真面目だったので、システィーンは胸が温かくなった。
かつて世界を救った男が、今は村の水路を直し、粉袋を運び、鶏を抱えて困っている。
それが、どうしようもなく愛おしかった。
「じゃあ、帰ろう。今日のご飯、少し多めに作るね」
「助かる。今日の任務で消耗した」
二人の笑い声が、夕暮れの村道に溶けていく。
風が、ゆっくりと畑を撫でた。
ファルデン村の一日は、何事もなく、けれど確かに、穏やかに終わろうとしていた。




