表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第2話「小さな任務」

ファルデン村の空には薄い雲が流れ、畑の若葉は朝露を受けて柔らかく光っている。

どこかの家からは木桶を運ぶ音と、子どもたちの笑い声が聞こえていた。


ブリシンガーは家の前で、鍬を片手に立っていた。

その表情は真剣だった。

まるでこれから難攻不落の要塞に挑む戦士のように、目の前の畑をじっと見据えている。


「……今日の土は、昨日よりわずかに柔らかいな」


「土の状態を見る顔じゃないよ、それ」

隣に立つシスティーンが、くすっと笑いながら言った。


「そうか?」


「うん。完全に敵を見てる顔」


ブリシンガーは少しだけ考え込むように畑を見つめ、それから真面目に答えた。


「油断すれば、雑草は勢力を広げる」


「雑草を軍勢みたいに言わないの」


そんなやり取りをしていると、通りの向こうから村長が歩いてきた。白髪を朝風に揺らしながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


「おお、ブリシンガー殿。ちょうどよかった」


「何かあったのか?」


ブリシンガーがすぐに姿勢を正す。その反応があまりにも早かったので、村長は少しだけ目を丸くした。


「いやいや、大したことではありません。ただ、今日は少し人手が足りなくてな。よければ、村の用事をいくつか手伝っていただけないかと」


「任せてくれ」

即答だった。


その声に迷いはない。システィーンは隣で微笑む。

村長は助かったと頷き、指を折りながら説明を始めた。


「まず朝のうちに東の畑の水路を見ていただきたい。昨日少し詰まりかけておったのでな。それが終わったら粉屋へ小麦袋を三つほど運び、その後で鶏小屋の柵を直してもらえると助かる。ああ、それから夕方前には裏手の薪を納屋に積んでおいてもらえれば―」


ブリシンガーは微動だにせず聞いていた。

だが、その眉間には徐々に深い皺が刻まれていく。


村長が説明を終えると、彼はしばらく黙った。

そして、低く呟く。


「……すまん」


「はい?」


「三つ目から、作戦の全体像を見失った」


システィーンが思わず吹き出した。

村長も一瞬ぽかんとしたが、すぐに肩を震わせる。


ブリシンガーは至って真剣だった。


「東の畑の水路、粉屋への物資輸送、鶏小屋の防衛施設修復、薪の備蓄……までは理解した。だが優先順位と各地点の連携が曖昧だ」


「連携しなくて大丈夫だよ」


システィーンが笑いを堪えながら、そっと彼の隣に寄った。


「朝は水路。終わったら粉屋さん。お昼のあとに鶏小屋。薪は夕方で大丈夫」


「……なるほど」


ブリシンガーは深く頷いた。


「四段階の任務というわけか」


「任務じゃなくて、お手伝い」


「分かった。手伝いだ」


その返答だけは素直だった。


最初は手伝いは水路の確認だった。

東の畑へ向かうと、小さな水路に落ち葉と泥が詰まり、水の流れが弱くなっていた。村人たちが困ったように眺める中、ブリシンガーは水路の前に膝をつき、真剣な眼差しで流れを見つめる。


「ここが詰まれば、畑全体の補給が滞る」


「補給って言わないの」


「水は命だ。軽視できない」


「それは正しいけど」


ブリシンガーは棒を使って、丁寧に泥をかき出し始めた。意外にも、その手つきは慎重だった。力任せに壊すこともなく、流れを確かめながら少しずつ詰まりを取り除いていく。


やがて、水がさらさらと音を立てて流れ始めた。


「おお、流れたぞ!」


村人たちが声を上げる。

ブリシンガーは立ち上がり、静かに頷いた。


「補給路、確保」


「だから水路だってば」


次は粉屋だった。

粉屋の前には、小麦袋が三つ置かれていた。大人二人がかりで持つほど重い袋だったが、ブリシンガーはそれを片手でひょいと担ぎ上げた。


粉屋の主人が目を剥く。


「そ、それ一袋だけでも結構な重さなんですが……」


「問題ない」


そう言うと、彼は残り二つもまとめて持ち上げた。


周囲から「おお……」と声が漏れる。

システィーンは苦笑しながら言った。


「無理しないでね?」


「無理はしていない。だが、粉は扱いを誤ると危険だ」


「危険?」


「粉塵は爆発する可能性がある」


「粉屋さんを戦場みたいに見ないで」


粉屋の主人が袋を受け取りながら、腹を抱えて笑った。


「いやぁ、一年とは言え、英雄様に粉袋を運んでもらう日が来るとはなあ」


「英雄ではない。ただの村人見習いだ」


ブリシンガーが静かに答えると、主人は一瞬だけ目を細めた。


「なら、立派な村人ですな」


その言葉に、ブリシンガーは少しだけ照れたように視線を逸らした。


昼を過ぎると、鶏小屋の修理に移った。

問題は、柵の一部が壊れていることだった。だが、ブリシンガーが近づいた瞬間、鶏たちが一斉に騒ぎ始めた。


「コケコケコケッ!」


「……敵意はない」


「鶏に説明しても伝わらないよ」


一羽の鶏が壊れた柵の隙間から飛び出した。

村の子どもたちが歓声を上げる。


「逃げたー!」


ブリシンガーの目が鋭くなる。


「任せろ」


「優しくね!?」


次の瞬間、彼は風のように動いた。

だが捕まえ方は驚くほど丁寧だった。逃げる鶏の進路を塞ぎ、驚かせないように距離を詰め、最後は両手でふわりと抱き上げる。


鶏は一瞬だけ暴れたが、すぐに大人しくなった。


そして、なぜかブリシンガーの腕の中で落ち着いてしまった。


「……懐かれてる」


システィーンがぽつりと言う。

ブリシンガーは腕の中の鶏を見下ろし、少し困った顔をした。


「どうすればいい」


「そのまま戻してあげればいいよ」


「了解した」


その後、彼は柵を直した。釘を打つ力加減だけは少し危うかったが、システィーンが横から「優しく、そこは優しく」と言うたびに、彼は真剣に頷きながら作業を続けた。


夕方になるころには、水路も、粉屋の荷運びも、鶏小屋も、薪の積み上げもすべて終わっていた。

村長は満足そうに笑い、何度も礼を言った。


「いやはや、本当に助かりました。ブリシンガー殿がいてくださると、村の仕事が一日で三日分進みますな」


「それは良かった」


ブリシンガーは静かに答える。

その横で、システィーンが小さく笑った。


「今日は大活躍だったね」


「まだ失敗も多い」


「でも、みんな喜んでたよ」


彼は少しだけ黙り込んだ。

夕陽が畑を橙色に染めていた。家々の煙突からは夕餉の煙が上がり、遠くでは子どもたちが鶏の真似をして笑っている。

ブリシンガーはその景色を眺めながら、ぽつりと言った。


「戦場ではないが……誰かの役に立つという意味では、悪くない一日だった」


システィーンは、隣で優しく微笑む。

「うん。だからこれは、任務じゃなくて日常だよ」


「日常……」


ブリシンガーはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

その声があまりにも真面目だったので、システィーンは胸が温かくなった。


かつて世界を救った男が、今は村の水路を直し、粉袋を運び、鶏を抱えて困っている。

それが、どうしようもなく愛おしかった。


「じゃあ、帰ろう。今日のご飯、少し多めに作るね」


「助かる。今日の任務で消耗した」


二人の笑い声が、夕暮れの村道に溶けていく。

風が、ゆっくりと畑を撫でた。


ファルデン村の一日は、何事もなく、けれど確かに、穏やかに終わろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ