第3話「英雄、王都へ」
これは、二人がまだ結婚式を挙げる前、ファルデン村での暮らしに少しずつ慣れ始めた頃の話。
数日後の早朝、ファルデン村を包む霧がまだ晴れきらぬうちだった。
「……そろそろ、行くか」
ブリシンガーは小さく呟いて立ち上がる。
腰には旅装束。その姿を見て、システィーンが支度をしていた手を止めた。
「もう行くの?」
以前に、グランヘイム王都のロズベルク王と約束をしていた、兵に稽古を付けるという約束の日だった。
「ああ。ロズベルグ王との約束だからな。月に何度か王都の兵に稽古を付けるという」
「うん、知ってるけど……なんか、やっぱり寂しいよね。慣れてきたのに」
「馬で行くからな、すぐ戻るさ。せいぜい一週間ちょっとで片が付く」
「もう……わたしのことも心配してってば」
「それは心配だ。虫が出ても一人で倒せるか不安だしな」
「失礼な!もうっ……!」
システィーンが頬を膨らませる。ふと彼の裾を引いて、上目遣いに小さく囁いた。
「気をつけてね……あと、帰ってきたら、ちゃんと……その……」
「ん?」
「……ぎゅって、して?」
「了解した。任務に含めておく」
「違うってば~~~!」
二人の笑い声が、朝靄に溶けていく。
村の出口まで見送るシスティーンは、彼の背に最後まで視線を注いでいた。小さく手を振ると、ブリシンガーも片手を上げて応え、そして森の道へと消えていく。
道中、森を抜け、丘を越え、王都へと続く街道に出たブリシンガーは、馬の背に跨って高速で駆け抜ける。以前に通った霧の渓谷も今日は晴れ渡っており、魔物の気配もない。
「戦の心得、か……」
彼は呟きながら、かつての戦場を思い出す。
剣の振り方一つ、歩法一つに命の重みが宿る世界。そんな彼にとって、兵への“指導”というのはむしろ難題だった。
霧の渓谷を抜け、アウロラ平原を駆け抜けて数日。
遠くに王都の城壁が見えてきた。
(……それにしても)
ブリシンガーはふと背後を振り返った。そこには、もうとっくに見えないはずのファルデン村。けれど、その記憶は胸の中で温かく、静かに燃えていた。
「帰る場所があるってのは、悪くないな……」
ぽつりと呟き、微笑を浮かべて再び前を向いた。
王都の巨大な門が見え始めると、その周囲に立つ兵たちの様子が一変した。銀色の鎧に身を包んだ衛兵が、一人、また一人と視線をブリシンガーへと向け、やがて口々に名前を囁き始める。
「……あれは……」
「ブリシンガー様だ……!」
声は波紋のように広がり、王都の門前に立つ者たちは慌ただしく動き出した。
門番たちは慌てて門を開き、その奥で控えていた兵士たちは整列し、背筋を伸ばして出迎えの体勢に入る。
ブリシンガーが馬をゆっくりと進め、門をくぐると、その先に現れたのは、城へと続く石畳の広場。
そこにはすでに、整列した兵士たちの隊列がびしりと並んでいた。
銀の槍を携えた近衛兵たちは、彼が通るたびに槍を掲げ、威厳ある敬礼を送る。
「ブリシンガー様が……!おいでくださった!」
広場へと進むと、あらかじめ伝令によって知らされていたかのように、王城から兵が列を成して現れた。
その中心には、気品と威厳を備えた若き王、ロズベルク王の姿があった。
まだ二十代半ばほどの若さであるが、その瞳は真っ直ぐに前を見据え、背筋は凛として揺るぎない。
馬を降りたブリシンガーがゆっくりと歩み寄ると、ロズベルク王は一歩前へと進み、深々と頭を下げた。
「……お戻りいただき、感謝いたします。ブリシンガー殿」
その言葉に、周囲の兵士たちは静まり返った。
王自らが迎えるという事実に、場の空気は厳かさを増してゆく。
「この国……いえ、全世界が、今も貴殿を英雄と呼び続けております。我らの剣を鍛える機会を与えてくださること、その栄誉に、臣下一同、心より感謝申し上げます」
ブリシンガーは一瞬だけ、視線を王から外した。
王の言葉は礼儀ではなく、真の敬意から発せられたものだった。
それが彼の胸に、微かな誇りと、どこかくすぐったいような感情を灯す。
「こんな手厚い歓迎なんてしなくてもいいんだがな……俺は、今となってはただの農夫にすぎない。だが、約束は果たす主義だ」
静かに、けれど確かにそう告げると、ロズベルク王は微笑を浮かべ、もう一度深く頭を下げた。
「それこそが、貴殿が英雄と呼ばれる所以でありましょう」
朝の陽が城壁に差し込み、白銀の鎧や槍の先に光が反射する。
その輝きの中、ブリシンガーとロズベルク王はしばし無言で並び立ち、兵たちは胸に手を当て、忠誠と敬意を捧げるように、その姿を仰ぎ見ていた。
「すでに中央訓練場を空けております。王都の選りすぐりの騎士たちが、貴方の教えを心待ちにしております」
ブリシンガーは肩をすくめ、苦笑を浮かべながらも、王の真摯な態度に応じるように小さくうなずいた。
「教えられるものが、あるかどうかは分からん。ただ……俺の過去が、少しでも誰かの未来に繋がるなら、それでいい」
彼の言葉に、ロズベルク王は静かに頷く。
「それこそが、何よりの教えです」
王の言葉が落ち着いた調子で響いた後、静まり返っていた広場に号令の声が響いた。整列していた近衛たちが道を開けるように隊列を解き、ブリシンガーの前方に一本の道ができる。
石畳を進むたびに、兵士たちが一糸乱れぬ動きで頭を下げる。城壁の上には見物する民たちの姿もあり、「本物の英雄だ……」「伝説だ……」とざわめきが起きる。
やがて、王城の一角に位置する広大な訓練場が見えてきた。
そこにはすでに、選び抜かれた騎士たちが整列し、黙々と準備を整えていた。黄金の鎧を身にまとった者、黒鋼の槍を携えた者、精鋭と呼ぶにふさわしい面々が一堂に会している。
ブリシンガーは馬を下り、ゆっくりと訓練場へと足を踏み入れた。整然と並ぶ兵士たちの前に立つと、あたりの空気が張りつめたように静まり返る。彼の動き一つ、呼吸の深さ一つが、すでに全員の心を圧倒していた。
そして、ブリシンガーは無言のまま数歩前へ進み、兵士たちを見渡した。
やがて、口を開く。
「剣の振り方を教えろと言われた。槍の構えを、盾の受け方を、戦場の立ち回りを……。確かに、それらは戦う上で欠かせぬ技術だ。だが、俺は今日、それ以上に大切なことを伝えに来た」
「技も、体力も、鍛えれば応えてくれる」
声は低く、だが確かに場の空気を震わせた。
「だがそれだけでは、生きて帰れない。戦場というのは、“正しさ”や“善”だけで片付くものではない。信念、覚悟、そして“なぜ戦うのか”という問いに、自分自身で答えを持っていなければ、いずれ心が折れる」
兵たちは沈黙のまま、全身でその言葉を受け止めていた。
「俺は…“神の戦士”と呼ばれていた。だが、今は違う。神々に創られたその力を、もう俺は持っていない。今ここに立つのは、ただの人間だ」
言葉の一つひとつが、静かに兵たちの胸へ染み込んでいく。
「だからこそ言える。命を懸けて戦うなら、誰のために剣を振るうのかを、今のうちに見つけるのが重要だ。それは盾にもなり、剣にもなる。……仲間の死を乗り越える力にもなる」
彼は一瞬、空を仰ぎ、そしてゆっくりと深呼吸した。
「俺が教えるのは、剣の技や体術だけではない。戦い抜く心だ」
「身構えなくてもいい。間違えていい。倒れてもいい。ただ、立ち上がり続けろ。それが戦士だ」
沈黙の中で、誰かが静かに息を吸い込んだ音がした。緊張の糸が張りつめる。
ブリシンガーは、片手を軽く上げる。
「さあ、始めようか」




