第1話「春の日課」
朝の光が、薄い雲を透かしてファルデン村に降りていた。
家々の屋根はやわらかな白に包まれ、煙突から立ちのぼる細い煙が、風にゆっくりと溶けていく。
村の外れに建つ、小さな木造の家。その戸口の前に、一人の男が立っていた。
ブリシンガー・ヴァルディア。
銀の髪を朝日に淡く照らされながら、腕を組み、じっと空を見上げている。
まるで何かの気配を探るような、静かな立ち姿だった。
やがて、家の中から軋むような足音がして、戸がゆっくりと開く。
「……おはよう、ブリシンガー」
現れたのはシスティーン・メイルフィ。
まだ少し眠たげな目をしながらも、その声はいつものように優しい。
ブリシンガーは振り返り、小さくうなずいた。
「おはよう」
「そんなところで、どうしたの?」
「確認していた」
「確認?」
システィーンが小首をかしげる。
彼は再び空へ視線を戻し、淡々と答えた。
「今日も平和かどうかをだ」
あまりにも真面目な声音だったので、システィーンは一瞬だけ目を丸くした。けれど次の瞬間、ふっと頬をゆるめる。
「……うん。今日は大丈夫そう?」
「ああ。異常はない」
「そっか」
そこで彼女は、家の前の畑に目をやった。
昨夜のうちに少しだけ芽を出した若葉が、朝露を受けてきらきらと光っている。
「お野菜も無事だね」
「それも確認した」
「そっちも?」
「当然だ。あれは俺たちの補給線だからな」
ぴたり、とシスティーンの動きが止まった。
「……補給線?」
「野菜が育たなければ食卓が崩れる。食卓が崩れれば生活が崩れる。生活が崩れれば、士気に影響する」
「村で暮らすのに“士気”って言う人、あんまりいないと思うよ」
「そうか」
そう言いながらも、ブリシンガーは至って真顔だった。その顔があまりにも本気なので、システィーンはつい笑ってしまう。
「ふふっ……もう。相変わらずだね」
「何がだ?」
「なんでもない」
笑みを含んだまま、彼女は彼の隣に並んだ。
朝の風はまだ少し冷たい。けれど、隣に立つ彼の体温が近くにあるだけで、不思議と寒さはやわらいだ。
しばらく二人で、静かな村の朝を見つめる。
遠くで牛の鳴く声がした。どこかの家では、もう朝餉の支度が始まっているらしく、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
「いい匂い……」
システィーンがぽつりと呟くと、ブリシンガーもわずかに目を細めた。
「ああ。悪くない朝だ」
それは短い言葉だったが、彼にとっては十分すぎるほど柔らかい感想だった。
かつてなら、朝の匂いや風に心を留める余裕などなかった男である。
システィーンはそっと彼を見上げた。
「今日も、畑からやる?」
「そのつもりだ。昨日の続きがある」
「うん。でも、その前に朝ごはん食べよう?」
「了解した」
「あとね、今日は織物のほうも少し手伝ってほしいの」
その一言に、ブリシンガーの表情がわずかに引き締まる。
「……織機か」
「うん」
「容易い任務ではないな」
「任務じゃないよ」
「いや、あれは難敵だ」
彼は低く呟き、遠くを見るような目をした。
以前、システィーンの実家で機織りを手伝った時のことを思い出しているのだろう。
糸を絡ませ、力加減を誤り、妙な方向に真剣さを発揮していた姿が、システィーンの脳裏にもよみがえった。
「今日はちゃんと、優しくやれば大丈夫だよ」
「……前回も、そのつもりだった」
「知ってる」
「だが、あの道具は油断するとすぐにこちらの想定を超えてくる」
「織機に対する評価が高すぎるんだよなあ……」
とうとうシスティーンは声を立てて笑った。
ブリシンガーはそんな彼女を見つめ、少しだけ眉をひそめる。
「そんなにおかしいか?」
「うん。ちょっとだけ」
彼はそう言ってから、ほんのわずかに口元を緩めた。その表情を見るたびに、システィーンの胸はあたたかくなる。
戦いの中で生き、誰よりも遠い場所を歩いてきたこの人が、今はこうして自分の隣で、畑や織物の話をしている。
それだけで、世界が少し優しくなったような気がした。
「……ブリシンガー」
「ん?」
「今日も平和だね」
システィーンがそう言うと、彼は一瞬だけ黙り込んだ。
それから村の風景を見渡し、静かに答える。
「ああ」
短い返答。だが、その声には確かな実感があった。
「こういう日を守るために、俺たちは戦った」
システィーンは目を見開き、そしてやわらかく微笑んだ。
「……うん」
春の風が吹き抜ける。家の前の若葉が揺れ、遠くの畑では誰かの笑い声が聞こえた。
大きな戦いは、もう終わった。世界を裂くような宿命も、空を焦がすような死闘も、今は遠い。
けれど人生は終わらない。土を耕し、布を織り、朝の匂いに足を止める。そんな小さな日々の中で、人はようやく“生きる”のだと、ブリシンガーは少しずつ知り始めていた。
「……では、朝食に向かうか。食後は畑、その後に織物だな」
「ふふっ。予定を立てるの、本当に真面目だね」
「生活には規律がいる」
「村暮らしにまでそれを持ち込むんだから」
くすくす笑いながら、システィーンは彼の隣で家の中へ戻っていく。
ブリシンガーもまた、その後に続いた。
木の戸が閉まり、春の朝の光が二人の背中をやわらかく照らしていた。
ここまで『銀の伝承』を読んでくださり、本当にありがとうございます。
本編はひとまず完結しましたが、ここからは外伝として、ブリシンガーたちのその後の日々を少しずつ描いていく予定です。
仲間たちのその後や、新しい出会い、ちょっとした騒動など本編とは少し違う雰囲気で、気楽に楽しんでいただければ嬉しいです。
なお、外伝の更新は今後、不定期になります。
無理のないペースで、書きたい場面を大切にしながら続けていければと思っています。
改めて、本編完結までお付き合いいただきありがとうございました。
これからの『銀の伝承 外伝』も、ゆっくり見守っていただけると嬉しいです。




