第19話「空席の玉座」
ザラハート王国。
一年という月日が流れても、その王城にはまだ、ひとつだけ埋まらない場所があった。
謁見の間の最奥。
かつてアリ・ハザールが座していた玉座。
今、その席に座る者はいない。
磨き上げられた石床の向こう、王国の紋章を刻んだ玉座だけが、静かに亡き王の不在を物語っていた。
その手前に置かれた長机を囲み、十数名の貴族たちが顔を揃えており、上座には一人の若い女性が座っていた。
サフィーヤ・ハザール、二十歳。
亡きアリ・ハザール王の一人娘にして、現在残された唯一の直系王族だった。
父譲りの褐色の肌に、長い黒髪。
まだ若さの残る顔立ちながら、その瞳にはこの一年で身につけた静かな強さがあった。
その右隣には、腕を組んだヤシーンが立っている。
王の死後、ザラハートの総督として軍と政務をまとめ、現在はサフィーヤを補佐する摂政の役目も担っていた。
「では、改めて申し上げます」
白髭を蓄えた老侯爵が口を開いた。
「王国の復興も、ようやく一定の目処が立ちました。北部防衛線も再編され、交易路も回復しつつあります」
別の貴族が頷く。
「グランヘイムとの関係も良好です。魔族との共存についても、カリス殿の外交活動によって国外から理解が得られ始めている」
「だからこそ、今なのです」
老侯爵の視線がサフィーヤへ向いた。
「王家の未来を、正式に定めるべき時かと」
室内が静まった。
サフィーヤは表情を変えなかった。もう、この話が出ることは分かっていたからだった。
「つまり」
彼女は静かに言う。
「私の結婚について、ですね」
「……左様でございます」
老侯爵が頭を下げる。
「殿下は、アリ・ハザール陛下の唯一の御子。いずれ正式に王位を継がれる御方です」
別の貴族が続ける。
「ですが、王家を一代で絶やすわけには参りません。王配となる御方を早急に定める必要がございます」
「北方のラシード侯爵家には、二十五歳になる御子息がおります」
「いや、軍部との結びつきを考えるならば、ハルザーン将軍の嫡男が適任でしょう」
「西部諸侯との融和も考えねばならぬ。であれば―」
次々と名が挙がる。
家柄、領地、軍事力、財産、政治的影響。
サフィーヤは黙って聞いていた。
だが、その隣に立つヤシーンの眉間には、徐々に深い皺が刻まれていった。
「待て」
決して大声ではなかったが、低い声だった。
貴族たちの声が一斉に止まったタイミングで、ヤシーンは腕を解いた。
「さっきから聞いていれば、ずいぶんと都合のいい話ばかりだな」
老侯爵が眉をひそめる。
「総督?」
「北部との結びつき。軍部との関係。西部諸侯との融和。財産。血筋」
ヤシーンは一人ずつ貴族たちを見回した。
「そればかりだ」
「国家の将来を考えれば、当然のことでしょう」
「そうだな」
ヤシーンはあっさり認めた。
「国家としては当然だ」
一拍置く。
「では聞く」
その視線が鋭くなる。
「その男たちの中に、王女殿下が自ら生涯を共にしたいと思える者がいるかどうか、そなた達は一度でも本人に聞いたのか?」
誰も答えなかった。
沈黙の中、サフィーヤがゆっくりとヤシーンを見る。
「……ヤシーン」
「殿下は黙っていてください」
「何故です」
「今は私は腹を立てている」
「……そうですか」
サフィーヤは少しだけ口元を緩めた。
老侯爵が困惑したように言う。
「しかし総督。王族の婚姻とは、元来そのようなものです。個人の感情だけで決められる問題では――」
「分かっている」
ヤシーンの返事は早かった。
「そんなことは、私だって知っている」
その声から苛立ちは消えていたが、代わりにあったのは、重さだった。
「だからこそ、国の利益も考えろ。血筋も考えろ。外交も考えろ。それを否定するつもりはない」
ヤシーンはサフィーヤを一度だけ見る。
「だが、それと本人の人生を無視していいかどうかは別の話だ」
誰も言葉を挟まない。
「アリ・ハザール陛下は、この娘を国のためだけに生ませたわけではない」
サフィーヤの瞳が、わずかに揺れる。
「……」
「陛下が生きていたなら、少なくとも一度は聞いたはずだ」
ヤシーンの声が少しだけ柔らかくなった。
「"お前は、どうしたいのか"とな」
亡き父の姿が、サフィーヤの脳裏に浮かぶ。
大きな手。
低い声。
公の場では厳格だった父が、二人きりになると時折見せた穏やかな笑み。
彼女は膝の上で、自分の手をそっと握った。
すると、一人の貴族が遠慮がちに口を開いた。
「ならば……ひとつ、案があります」
ヤシーンが視線を向ける。
「なんだ」
「ヤシーン総督」
嫌な予感がした。
「……まさか」
「貴公が、王女殿下の王配となればよろしいのでは?」
室内に、ざわめきが広がった。だが否定の声は上がらない。
むしろ数人の貴族が、納得したように頷いていた。
「なるほど……」
「確かに」
「総督は王国軍からの信頼も厚い」
「民からも支持されている」
「先王陛下にも最も信頼されていた一人だ」
「戦後の国政も、この一年ほとんど貴公が支えてきた」
ヤシーンの顔が、見る見るうちに険しくなっていく。
「待て」
しかし老侯爵は止まらない。
「血筋だけを考えれば諸侯の子息に一歩譲るでしょう。しかし、王国の安定という点ではこれ以上の人物は―」
「断る」
室内が静まり返った。
あまりにも早い即答だった。
「……総督?」
「断ると言った」
「しかし―」
「私は王になるつもりはない」
ヤシーンはきっぱりと言った。
「王座が欲しくてこの一年、この国を支えてきたわけでもない」
「ですが王配であって、王そのものでは―」
「同じだ」
ヤシーンは首を横に振った。
その目が、誰も座っていない玉座へ向く。
「私は、あの方の臣下だ」
一年前、そこには確かに王がいた。
戦争があれば、戦場へ赴く兵を励まし、傷ついた者を気遣い、魔族と人間の共存を測った。
最後までこの国を守ろうとしていた男がいた。
「陛下が死んだから、その座が空いた」
ヤシーンは静かに言う。
「だからといって、"ちょうど空いたから私が座る"などと考えられるほど、私は器用ではない」
「ヤシーン……」
サフィーヤが小さく呟く。ヤシーンは彼女へ目を向けた。
「それに私は、この方の後見を任されたつもりでいる」
「誰に?」
「勝手に陛下にだ」
「父上は、何も仰っていなかったと思いますけれど」
「だから勝手にだ」
サフィーヤはとうとう、小さく笑った。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ヤシーンも鼻を鳴らした。
「私の仕事は、殿下を王座まで送り届けることだ。その隣へ座ることではない」
老侯爵はしばらく黙った後、深く息を吐いた。
「……では総督は、婚姻そのものに反対なのですかな」
「まさか」
「では?」
ヤシーンは少し考えた。
「条件を変えろ」
「条件?」
「ああ」
彼は指を一本立てる。
「まず、殿下本人が嫌だと言った男は、その時点で候補から外せ」
「それでは政治的に有力な候補が―」
「外せ」
「……はい」
二本目。
「王位を欲しがる男も外せ」
「それは、どういう……」
「王女ではなく玉座を見ている男など論外だ」
三本目。
「殿下を自分より下だと思っている男も外せ」
貴族の一人が苦笑する。
「……随分と厳しいですな」
「当たり前だ」
ヤシーンは鼻を鳴らした。
「この国の次代の女王だぞ」
そこで初めて、サフィーヤがはっきりと顔を上げた。
「次代の……女王」
「そうです」
ヤシーンは今度は彼女へ向き直った。
「殿下」
「はい」
「我々が探しているのは、次の王ではありません」
静かな声だった。
「王は、あなたです」
サフィーヤは息を呑んだ。
「……」
「王配となる者は、あなたの隣に立つ者です。あなたの代わりに国を治める者ではない」
ヤシーンは真っ直ぐに彼女を見る。
「だから、自分で選んでください」
サフィーヤの指先が、わずかに震えた。
「ですが……私は、まだ父上のようには……」
「なる必要はない」
即答だった。
「え?」
「アリ・ハザール陛下になろうとするな」
サフィーヤが目を見開く。
「陛下は陛下だ。あなたはあなたです」
ヤシーンの声は厳しい。けれど、不思議なほど温かかった。
「一年間、あなたは逃げなかった」
王を失った直後。
焼けた砦。
壊れた壁。
泣く民。
傷ついた兵士たち。
まだ父の死を受け入れることすらできていなかった少女が、それでも毎朝執務室へ来た。
分からない書類を読み。
会議へ出席し。
復興した市場へ足を運び。
戦争で親を失った子どもたちの話を聞いた。
何度も泣いた。
何度も迷った。
それでも、一度も逃げなかった。
「それで今は十分だ」
ヤシーンは言った。
「王になるというのは、最初から何でも知っていることじゃない」
サフィーヤは俯いた。
「……怖いです」
初めて。
この場で初めて、王女ではない声が出た。
「父上がいなくなってから、ずっと怖い」
誰も口を開かなかった。
「私が間違えれば、大勢の人が困る。私が弱ければ、この国がまた傷つくかもしれない」
彼女は顔を上げる。
「だから……時々思います」
玉座を見る。
「本当に、私でいいのかと」
ヤシーンも玉座を見た。
そして、短く答えた。
「私も毎日思っている」
「……え?」
「本当に、この判断でいいのかとな」
貴族たちが目を丸くする。
ヤシーンは肩を竦めた。
「戦場なら敵を倒せばいい。政治はそうはいかん。正解が見えないことなど、いくらでもある」
「ヤシーンでも?」
「私をなんだと思っているんです」
サフィーヤは少しだけ笑った。
「何でも分かっている人かと」
「買いかぶりです」
ヤシーンもほんの少し笑う。
「ただ、間違えたなら直せばいい」
その言葉に、遠く離れたグランヘイムで働く一人の魔族の青年を、彼はふと思い出していた。
失敗しないことではなく。
失敗しても、投げ出さないこと。
それは今、この世界を生きる者たち皆に必要なことなのかもしれない。
「ですから殿下」
ヤシーンは改めて頭を下げた。
「王になる覚悟を、今すぐ完成させる必要などありません」
「……はい」
「ただし」
「はい?」
「婿選びについては、私も口を出します」
「え?」
「変な男を連れてこられても困る」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
サフィーヤが思わず立ち上がった。
「私が選ぶのではなかったのですか!?」
「選ぶのは殿下です」
「では何故!」
「候補者が殿下に近づく前に、私が一度見る」
「それでは意味がありません!」
「身元確認です」
「絶対それだけじゃないでしょう!」
久しぶりに王宮の会議室へ、若い女性の声が響いた。
貴族たちは顔を見合わせる。
やがて老侯爵が、堪えきれずに小さく笑った。
「……総督」
「なんだ」
「まるで父親ですな」
ヤシーンの顔が固まる。
「誰がだ」
「貴公が」
「違う」
「では兄でしょうか」
「違うと言っている」
サフィーヤは口元を押さえて笑った。
「ふふっ」
「殿下まで笑わないでください」
「だって……」
笑いながらも、その目にはほんの少し涙が浮かんでいた。
父はもういない。
その事実は、何年経っても変わらない。
空いた玉座が埋まったからといって、父が帰ってくるわけでもない。
それでも、彼女の周りには、まだ人がいた。
支えてくれる者や、叱ってくれる者がいた。
自分の人生まで国へ差し出せと言うのではなく、自分で選べと言ってくれる者がいた。
玉座が先ほどまでより、ほんの少しだけ近く見えた。
「……ヤシーン」
「はい」
「私、いつかあそこに座ります」
ヤシーンは答えずにただ、彼女の言葉を待つ。
「父上と同じ王にはなれないと思います」
「ええ」
「でも……」
サフィーヤは胸の前で手を握る。
「サフィーヤ・ハザールとして、この国を守れる女王になります」
ヤシーンはしばらく彼女を見つめていた。
そして。
深く、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
それは総督としてでも、摂政としてでもなかった。
亡き王へ長く仕えた、一人の臣下としての礼だった。
「その日まで、このヤシーンがお支えいたします」
窓の外。
復興したザラハート王都の街路を、人々が行き交っている。
遠くでは、新たに建て直された市場から商人たちの声が響いていた。
人間も。
魔族も。
同じ通りを歩いている。
国王アリ・ハザールは、もういない。
だが、彼が守った国は残っている。
そして、その先を歩く者たちも。
玉座は、まだ空いていた。
けれどもう、それは王なき国の象徴ではなかった。
いつの日かそこへ座る一人の少女を、静かに待つ席となっていた。




