第17話「ザラハートの外交官カリス」
王宮の東棟には、各国の使節や文官たちが利用するための応接室が並んでいた。
その一室では今、グランヘイム王国とザラハート王国、二つの国の紋章を挟んで、数人の外交官が向かい合っている。
窓から差し込む昼の光が、磨き抜かれた長机を白く照らしていた。
「では、南部交易路に設けられている三か所の検問所については、今後、通行証を両国共通の形式へ統一するということでよろしいですね」
グランヘイム王国の外交官、アルベルト・レイヴァンが書類へ視線を落としながら確認した。
年齢は五十に届く頃だろう。
王宮外交を長年担ってきた人物らしく、その口調は穏やかながら、一言一言に隙がない。
彼はレオナからも厚い信頼を寄せられており、今回のお忍びを事前に知らされていた数少ない家臣の一人でもあった。
その向かいに座る青年は、静かに頷いた。
「異論はありません。ただし、ザラハート側から運ばれる魔鉱石については、現在の検査方法では荷を傷める恐れがあります」
濃色の外交官服に身を包んだカリスだった。
胸元にはザラハート王国の紋章が刻まれ、机の上には何枚もの資料が整然と並べられている。
かつて荒野を駆け、敵の懐へ忍び込み、仲間のために命を懸けた青年の面影は、隙なく整えられた装いの奥に隠れていた。
ただ、その鋭い眼差しだけは、昔と何も変わっていない。
失った片腕は、魔力で動く機械義腕となっている。
「魔鉱石は外部から強い魔力を当てると、品質が変質します。グランヘイム側の検査官が不正を疑う気持ちは理解できますが、すべての荷へ探知魔法を直接使用する方法は見直していただきたい」
「しかし、通常の目視だけでは密輸品の発見が難しい。実際、先月には禁制品が一件押収されています」
「承知しています」
カリスは反論を急がなかった。
相手の言葉を最後まで聞き、手元の書類を一枚だけ抜き取る。
「こちらが、問題となった荷の記録です」
アルベルトが書類を受け取る。
「……これは?」
「押収された品は、ザラハートから持ち込まれたものではありません。北方の商人が、ザラハート商隊の荷へ途中で紛れ込ませたものです。捕らえられた御者三名の証言も一致しています」
室内の空気が、わずかに変わった。
グランヘイム側の若い文官が、驚いたように隣の者と目を合わせる。
アルベルトは書類を読み進めた後、慎重に問いかけた。
「この調査を、貴国が?」
「私が行いました」
カリスは淡々と答えた。
「商隊が通過した宿場、井戸、関所を一つずつ確認しました。荷車に残された砂の成分も調べています。ザラハート南部の砂ではありません」
「……そこまでされたのですか」
「両国の信頼に関わる問題ですから」
カリスの口調に、誇張も自慢もなかった。
「我々は、責任を免れたいわけではありません。ザラハートの者が不正を働いたのなら、こちらで厳しく処罰します。しかし、事実でない罪まで受け入れれば、それは友好ではなく迎合です」
アルベルトは、しばらくカリスの顔を見つめていた。
その視線には、相手を値踏みするような鋭さがある。
だがカリスは目を逸らさなかった。
やがてアルベルトは小さく息を吐き、机の上で指を組んだ。
「なるほど。では、魔鉱石を傷めない検査方法について、貴国側から代案はありますか」
「はい」
カリスは別の資料を開いた。
「魔鉱石そのものではなく、荷箱の封印へ検査魔法を施します。ザラハートを出発する際、荷箱に両国共通の刻印を入れる。途中で開封されれば、封印の色が変わる仕組みです」
「検問所では、その封印だけを確認するということですか」
「必要があれば、荷主の同意を得た上で開封検査を行う。これなら品を傷めず、不正な積み替えも確認できます」
グランヘイム側の文官たちが、資料を覗き込む。
一人が感心したように呟いた。
「……実用化できれば、検問にかかる時間も大幅に短縮できますね」
「ザラハート側では、すでに小規模な試験を終えています」
「準備がよろしいことで」
アルベルトの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「人間の王宮へ赴任した魔族の外交官と聞いた時には、正直なところ、もう少し難しい人物を想像していました」
室内の若い文官たちが、一瞬だけ緊張する。
だがカリスは表情を変えなかった。
「私も、人間の外交官はもう少し話の通じない方々だと思っていました」
「ほう」
「お互い、噂を真に受けすぎていたようです」
数秒の沈黙の後、アルベルトが小さく笑った。
「違いありませんな」
張り詰めていた空気が、わずかに和らいだ。
カリスもほんの少しだけ目元を緩める。
一年。
ザラハートの使節として王都へ赴任してから、一年が経っていた。
最初の頃は、廊下を歩くだけで視線を向けられた。
いくらブリシンガーたちと共に戦い、ザラハートを守った英雄とはいえ、魔族に対する憎悪や恐怖、偏見が簡単に消えるわけではない。
その魔族が王宮にいる。ただそれだけで警戒する者もいた。
会議では発言を遮られ、提出した書類を必要以上に疑われ、宴席では隣の席が不自然に空けられることもあった。
それでもカリスは、声を荒らげなかった。
一つずつ事実を集め、相手の言葉を聞き、自分の言葉を返した。
人と魔族が互いを信じられるようになるまで、どれほどの年月が必要なのかは分からない。
しかし、かつてブリシンガーたちが命を懸けて繋いだ道を、途絶えさせるわけにはいかなかった。
「では、共通封印の試験運用を、来月から南部交易路で開始する方向で調整しましょう」
アルベルトが告げる。
「ありがとうございます」
カリスは深く頭を下げた。
「ただし、問題が起きれば即座に中止します」
「当然です。その場合は原因を調査し、次の案を用意します」
「随分と自信がおありだ」
「失敗しない自信はありません」
カリスは静かに答えた。
「失敗した後、投げ出さない自信ならあります」
アルベルトは目を細めた。
「……よい答えです」
その時、応接室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
王宮の侍従が扉を開き、一礼する。
「レイヴァン卿。会談中のところ、申し訳ございません」
「どうした」
「レオナ王女殿下が、先ほど王宮へお戻りになりました」
アルベルトは安堵したように息を吐いた。
「ようやくか。今回も随分と自由に過ごされたものだ」
「はい。それで……」
侍従はなぜか言葉を濁した。
カリスが眉をわずかに動かす。
「何か問題でも?」
「王女殿下は、お一人ではございません」
「護衛の方か」
「いえ。その……ファルデン村より、客人をお連れになっております」
カリスの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「ファルデン村から?」
「はい。バルダー・ガインルフ様です」
その名を聞いた瞬間。
書類を整えていたカリスの指が、ぴたりと止まった。
「……バルダー?」
外交官として保たれていた冷静な表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。
その声には、先ほどまでの外交官らしい硬さとは違う響きがあった。
懐かしさと、驚き。
そして隠しきれない、かすかな喜び。
アルベルトがカリスの方を向き、少しだけ微笑む。
「バルダー殿か、久しぶりに会うのでは?」
「……一年ぶりの、仲間です」
窓から吹き込んだ風が、机の上の書類を一枚だけ揺らした。
カリスはそれを押さえながら、珍しく小さな笑みを浮かべた。
「まったく……来るなら、先に知らせろ」
そう呟いた声は、もうザラハートの外交官のものではなかった。
かつて世界を共に旅した、仲間の声だった。




