第15話「君のいる場所」
ファルデン村の灯りはぽつぽつと夜の中に浮かび始めていた。
畑の向こうでは、家々の煙突から細い煙が立ちのぼり、遠くで犬の鳴く声がひとつ響く。
夜風は少しだけ冷たく、けれど昼間に耕された土の匂いをまだ残していた。
バルダーの小さな家の前に辿り着くと、レオナはふと足を止めた。
「……もう、こんな時間なのね」
ぽつりと漏れたその声には、名残惜しさが混じっていた。
昼間の彼女は、村娘の服に着替え、畑仕事にも挑戦し、子どもたちと笑い、システィーンと肩を並べて小道を歩いた。王都の宮廷では決して見せない顔を、ここでは何度も見せた。
「……明日、戻るんだろ。王都に」
「ええ。さすがにこれ以上、こちらにいると兄上にも迷惑がかかるわ。信頼できる家臣には伝えているけれど、あまり長く空けるわけにもいかないもの」
「まあ、そりゃそうだよな」
「でも、また来るわ」
レオナは当然のように言った。
「システィーンにも、また案内してもらいたい場所があるし。畑仕事も、まだ全然うまくできていないもの。ブリシンガーにも、今度こそ村娘らしい歩き方を見せてやるわ」
「まだそこ気にしてんのかよ……」
バルダーが呆れたように笑うと、レオナは頬を少し膨らませた。
「当然よ。あの人、妙なところで鋭すぎるのだもの。王族の変装が一瞬で見破られるなんて、屈辱だわ」
「いや、あれは普通に目立ちすぎだったぞ」
「あなたまで言うの?」
「事実だからな」
二人はしばらく、そんな他愛ない会話を交わした。
けれど、笑いが一度途切れると、夜の静けさがそっと二人の間に落ちてきた。
バルダーは家の扉に背を預け、空を見上げた。雲の切れ間から、星がいくつか瞬いている。
「……なあ、レオナ」
「なに?」
「俺も、王都に行ってみてもいいか」
その言葉に、レオナは一瞬、きょとんとした。
「……え?」
まるで意味を飲み込めなかったように、彼女は目を瞬かせる。
バルダーは少し気まずそうに頭を掻いた。
「いや……別に、変な意味じゃねぇぞ。ただ、その……王族ってのが、実際どんな暮らししてるのか、もう少し知りたくなっただけだ」
「……」
「お前がこの村の暮らしを知りたいって言うなら、俺も逆に、そっちを見てみてもいいんじゃねぇかって思ったんだよ」
口ではそう言いながらも、バルダーの声はどこか落ち着かなかった。
レオナは黙って彼を見ていた。
バルダーはさらに、逃げ道を作るように言葉を続ける。
「それに……ザラハートから来てるカリスにも久しぶりに会いたいしな」
その名を出した時だけ、彼の声には少しだけ素直な響きが混じった。
「今、あいつは外交官として来てるんだろ。ロズベルグ王のところで。あいつもあいつで、いろいろ背負ってるだろうし……顔くらい見に行ってやってもいいかなって」
「カリス……」
レオナは静かにその名を繰り返した。
かつて魔族として生き、人間の国に居場所など持たなかった青年。今ではザラハート王国の外交官として働き、人と魔族を繋ぐ象徴のような存在になりつつある。
バルダーは少しだけ笑った。
「まあ、あいつに会いに行くってのは口実っぽく聞こえるかもしれねぇけどな」
「……そうね」
レオナは小さく答えた。
「口実に聞こえるわ」
「おい」
「だって、そうでしょう?」
彼女は一歩近づいた。
月明かりに照らされた頬が、ほんのり赤く染まっている。だがその瞳は、まっすぐにバルダーを見ていた。
「あなたは、カリスに会いたい。王都も見たい。王族の暮らしも知りたい。……でも、本当は」
そこで一度、言葉を止める。レオナの指先が、自分の胸元にそっと触れた。
「私のいる場所を、見てみたいのでしょう?」
バルダーは言葉に詰まった。
「……っ」
反論しようとした。違う、と言おうとした。だが、言葉は出てこなかった。
レオナはそれを見て、少しだけ勝ち誇ったように、けれどそれ以上に嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。図星ね」
「……うるせぇな」
「否定しないの?」
「……別に、否定するほどのことでもねぇだろ」
その返答に、今度はレオナの方が固まった。
「…………」
数秒、沈黙。さっきまで余裕たっぷりだった王女の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……そ、そう」
声が少し上擦っていた。
「なら……もちろんよ。あなたなら、いつでも歓迎するわ」
レオナは咳払いをひとつして、いつもの堂々とした姿勢を取り戻そうとした。だが頬の赤みは消えていない。
「付いてきなさい、バルダー。王都を案内してあげる。王城も、騎士団の訓練場も、厨房も、庭園も……それから、カリスにも会えるよう手配するわ」
「いや、そんな大げさにしなくていいって」
「大げさじゃないわ。あなたは私の客人よ。それに―」
レオナは少しだけ視線を逸らした。
「……来てくれるのなら、私も嬉しいもの」
その声は、小さかった。
王女としての命令でも、強気な宣言でもない。ただ、ひとりの女性としての本音だった。
バルダーはその言葉に、しばらく黙っていた。夜風が二人の間を通り抜ける。やがて彼は、照れ隠しのように鼻を掻いた。
「……そっか」
「ええ」
「じゃあ、行く。王都に」
「本当に?」
「ああ。明日、お前が戻る時に一緒に行く」
その瞬間、レオナの顔がぱっと明るくなった。
「そう。なら決まりね!」
彼女は嬉しさを隠しきれないまま胸を張った。
「帰りはシスティーンの転送魔法を使う予定だったけれど、あなたも一緒ならちょうどいいわ。フィリア様には、こちらへ送っていただいたお礼も改めてしなければいけないし……ふふっ、システィーンも驚くでしょうね」
「ブリシンガーは絶対ニヤつくだろうな」
「そうね。あの人、穏やかな顔で妙に鋭いことを言うもの」
「昔からそうだよ」
バルダーは苦笑した。
「で、王都ってのは……やっぱり礼儀作法とか、面倒くさいのか?」
「当然よ」
「うわ、やっぱりか」
「でも安心なさい。私が教えてあげるわ。まずは立ち方、歩き方、挨拶の仕方。あとは晩餐会で使う食器の順番も覚えないとね」
「今から行くのやめたくなってきた」
「逃がさないわよ?」
レオナは楽しそうに笑った。けれど、その笑みは以前のように一方的に彼を振り回すものではなかった。
バルダーが自分から来ると言った。その事実が、彼女の胸を静かに温めていた。
「……でも」
ふと、レオナは柔らかい声で言った。
「無理に王族らしく振る舞わなくてもいいわ」
「え?」
「あなたは、あなたのままで来なさい。私が見せたいのは、王都の華やかさだけじゃないもの。私がどんな場所で育って、何を背負っていて、何を守ろうとしているのか……それを知ってほしいの」
バルダーは彼女を見つめた。
月明かりの下で立つレオナは、王女でありながら、昨日まで彼の小さな家で料理を作り、掃除をし、子どもたちと遊び、村娘の服で畑を歩いた女性でもあった。
高飛車で、強引で、誇り高くて。けれど、誰かを笑顔にしたいと本気で願う人だった。
「……わかった」
バルダーは静かに頷いた。
「俺も、ちゃんと見る。君のいる場所を」
レオナは目を見開いた。
そして、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「……ええ。見せてあげるわ。私の世界を」




