第7話 魔導管網という名のインフラ
ヴェルナー教授の研究室は塔の七階にあった。
扉を開けた瞬間にタルクは思わず息を呑んだ。部屋の全壁面が天井まで本棚で埋められていた。床にも積み上げられた羊皮紙の山があり。中央の机には地図と古代の図面が広げられていた。窓からは王都の街並みが一望できる。
部屋の空気は古い紙の匂いに支配されていた。革の表紙の本。色あせた羊皮紙。長く密閉されていた書類庫の匂い。タルクは深く息を吸い込んだ。日本の図書館や古書店で何度か嗅いだことのある匂いだった。世界が変わっても本の匂いは変わらない。
窓辺には小さな鉢植えがあり。蔓植物が窓枠に絡んでいた。植物は長く愛されてきた様子で。葉の緑は健康的だ。研究に没頭する学者の中にも生き物を世話する人間がいる。それは好ましい兆候だった。
壁の本棚の中には。一冊だけ古びた装丁の薄い本があった。背表紙が他の本より光を反射する角度が違う。タルクは無意識にその本に視線を留めた。長年職人をしていると。手入れの行き届いたものとそうでないものの区別が瞬時につく。あの本は教授が頻繁に手を取って読んでいる本だ。最も大事な研究資料だろう。
「散らかってて済まないね」
ヴェルナー教授は紅茶のような飲み物を二つ用意した。タルクに一杯渡し。自分も机の向かい側に座った。
「先生。これは」
タルクは机の上に広げられた図面を指差した。
その図面はタルクが見慣れたものに極めて近かった。一本の幹線から枝分かれする無数の支線。継手と思しき記号。バルブと思しき記号。流量と思しき数字。日本の配管系統図とほぼ同じ表記法だった。
「これは私が古文書から復元した。〈原初の建設者〉の管路図の一部だ」
ヴェルナー教授は言った。
「世界の中央。海の真ん中にあるとされる失われた島。そこに本部があったと伝えられている。そこから世界中に管路が敷設された。これは島から大陸へ繋がる主管の一部の図と思われる」
タルクは図面を凝視した。本能的に図面を読み始めていた。
「この線。一本どこかで切れてますね」
タルクは図面の中央付近を指差した。
「ん」
ヴェルナー教授は驚いた顔をした。
「どこだ」
「ここ。継手の記号がない。普通は管が繋がるはずの場所に。何もない」
「それは。古文書の写本作業で抜けたのかもしれない」
「いえ。文字としては抜けてますが。意図的に省かれてる可能性もありますね。この図面を写した人が。原本にあった印を意識的に消した。例えば。盗難防止のためとか」
ヴェルナー教授はぽかんと口を開けた。それから声を出して笑った。
「タルク君。君の発想は素晴らしい。我々学者の多くは図面を権威の象徴として扱うあまり。図面そのものに込められた人間の意図を見落とす。君は職人の目で見ている」
「えっと。村の修理屋の感覚で見てます」
タルクは曖昧に答えた。本当のことは言えない。十七年の現場で何百枚も図面を読んだ経験から来る感覚だ。
「タルク君。〈原初の建設者〉とは何であると思う」
「神様ですか」
「いや。ある種の伝承では。彼らは別の世界から呼ばれた者たちだとされる」
「別の世界」
タルクの心臓が一度跳ねた。
「我々の世界とは異なる。技術と知識を持つ世界。そこから呼ばれた職人たちが。我々の世界に魔導管網を敷設したのだという」
タルクは紅茶のカップを置いた。手が少し震えていた。それを誤魔化すために膝の上に置いた。十七年の現場で動揺を表に出さない訓練は積んでいた。しかし今度の動揺は普通ではなかった。
別の世界から呼ばれた職人たち。
それは。
俺と同じだ。
ヴェルナー教授は続けた。
「私の研究によれば。〈原初の建設者〉は十二人いたとされる。それぞれが異なる専門分野を持っていた。水を扱う者。火を扱う者。風を扱う者。地を扱う者。その他にも。光と影。生命と死。時と空間。彼らは協力して世界の管路を敷いた。世界が魔法を使えるようになったのは彼らのおかげだという」
「そして。今は」
「今は。彼らは去った。あるいは消えた。あるいは死んだ。記録は曖昧だ。しかし彼らが残した管路は今もまだ動いている。少なくとも一部は」
「劣化してます」
タルクはぽつりと言った。
「ん」
「世界中の。魔導管が。劣化してます。漏水が起きてます。詰まりも起きてます。あちこちで」
ヴェルナー教授の手から羊皮紙が落ちた。教授は一瞬呆然とした顔でタルクを見つめた。
「タルク君。それは推測ではなく」
「観察です」
タルクは答えた。
「俺の目に。世界中の管が見えます。村の井戸の管。領主館の機関の管。塔の壁の管。街道沿いに走る大河のような幹線の管。そして空を貫いて地平線の彼方へ伸びる管。すべて見えます。すべての管に。何らかの不具合が起きてます」
ヴェルナー教授は震える手で口元を覆った。
「タルク君。それは大変なことだ」
「はい」
「世界の魔法はおそらく。古代の管路に依存している。管路が劣化していけば。魔法そのものが衰退していく。事実近年は。古代に比べれば魔法の威力も種類も減少している。それは管路の劣化と無関係ではないかもしれない」
「先生」
タルクは姿勢を正した。
「古代の管路を直すには。何が必要ですか」
「それを私に聞かれても」
ヴェルナー教授は両手を広げた。
「四十年研究してきたが。直し方どころか実物すら見たことがなかったのだから」
タルクは深く頷いた。
「では。一緒に研究させてください。俺が見えたものを先生に伝えます。先生の知識と。俺の視覚を合わせれば。何かが見えてくるはずです」
ヴェルナー教授は震える指でタルクの手を握った。
「タルク君。君は神の使者かもしれないな」
「ただの修理屋です」
タルクは小さく笑った。
「ヴェルナー先生。一つだけ聞きたいことがあります」
「何でも」
「古代の管路の。継手とか。固定金具の話は。古文書に出てきますか」
ヴェルナー教授は本棚から数冊の本を引き出した。
「ある。断片的にだが。固定金具については特に多くの記述がある。〈原初の建設者〉は世界の管路を敷くにあたって。柱や山や川底にあらかじめ。受け入れ金具を埋め込んだ。それが世界の構造を支える鍵となるとされている。受け入れ金具のことを。古文書では『差し込み座』と呼んでいる」
差し込み座。
タルクの心臓が静かに早鐘を打ち始めた。
「差し込み座。これって。後から何か別のものを差し込むための。受け側の金具ですか」
「そうだ。古代の文献では。世界の構造の各所に。差し込み座が埋め込まれているという。それらは普段は使われないが。何か特別な状況で。後から差し込み具を取り付けることで。世界の管路を補強するのに使われるとされる」
「インサートだ」
タルクは思わず呟いた。
「ン」
「いえ。先生。日本では。あ。すみません。俺の村の言葉で。コンクリートを流す前に。後から何かを取り付けるために打ち込んでおく金具を。インサートと言います」
「インサート」
「将来の改修のために。前もって埋め込んでおく。受け側の。メスねじの。金具」
タルクの口が無意識に十七年の現場用語を吐き出した。ヴェルナー教授は怪訝そうな顔をしたが。タルクの説明から要点を理解したらしく頷いた。
「そう。そういうものだ。インサート。覚えておこう。我々の言葉よりも端的だ」
「先生。差し込み座が世界中にあるなら。それを利用して管を直すことができるかもしれません」
「理屈の上では」
ヴェルナー教授は頷いた。
「しかし。差し込み座の所在は不明だ。古文書には『世界の構造を支える各所にある』としか書かれていない。具体的な位置は失われている」
「失われている」
タルクは顎を撫でた。三十五歳の桜井巧の癖だった。
「先生。差し込み座が世界中の構造体に埋め込まれてるなら。それは何かしらの規則性に従って配置されてるはずです」
「規則性」
「現代の建築でも同じです。インサートは適当な場所に打つわけじゃありません。図面で。荷重のかかる場所。配管が曲がる場所。継手が来る場所。そういう必然性のある場所に打ちます。古代の建設者も。同じ思想で配置したはずです」
「タルク君。その発想は素晴らしい」
「先生の管路図と。俺の見える管の流れを照らし合わせれば。差し込み座のあるべき場所が予測できるかもしれません」
ヴェルナー教授は深く頷いた。それから目を細めて笑った。
「タルク君。君は十三歳とは思えない発想をする」
「中身は意外と古いんで」
タルクは冗談交じりに言った。教授は声を上げて笑った。
タルクは胸の中で改めて反芻していた。
インサート。
日本の建設現場で何百個も打ってきた。コンクリートを打つ前に型枠の上に釘で止める小さなメスねじ金具。打った直後はコンクリートで埋もれて見えなくなる。後から天井裏で配管を吊るときに。全ねじボルトを差し込むだけで支持金具が取り付けられる。それがなければ後でハツって付けるしかない。インサートを打ち忘れた現場は地獄だ。何度も後輩に説教した。コンクリ打つ前にインサート打ち忘れたら現場の負けだ。後でハツって入れるしかない。それが現場の常識だ。あの言葉を何度繰り返しただろう。
その地味な金具が。
もしかすると。
世界規模で。
〈原初の建設者〉が世界を「打設」する前に。世界中に何百個何千個と埋め込んだのかもしれない。後の改修のために。後の救済のために。何も知らない後世の者でも。掘り起こしてボルトを締め直しさえすれば。世界の管路が再起動するように。
ありえる話だった。
むしろ。配管工としてはありえる以上に。整合性のある話だった。インサートは設計の大原則だ。いずれ改修すべき構造物に。あらかじめ受けを仕込んでおくのは当然のこと。文明レベルが高い設計者ほどそれをする。〈原初の建設者〉が高度な技術者集団であったなら。世界規模のインフラに対しても同じ思想で動いたはずだ。
タルクは机の上の図面を指で軽く撫でた。
ここに。
答えがある気がした。
まだ全貌は見えない。しかし手応えはあった。十七年の現場勘が告げていた。これは引いていい筋だ。掘り進めば何かに当たる。
その日の夕方まで。タルクとヴェルナー教授は管路図と地理図を照らし合わせ続けた。光る管の流れの記憶を頼りに。差し込み座があるべき場所を予測していった。古代神殿の柱。山頂の石碑。海中の岩礁。そういった象徴的な場所が候補として浮かんでくる。
窓の外で日が傾いた。
タルクはふと立ち上がった。
「先生。今日はこのへんで失礼します。リエラさんが街で待ってるので」
「リエラ」
ヴェルナー教授は眉を上げた。
「リエラ・カエス。元宮廷魔術師の」
「お知り合いで」
「ああ。教え子だ。優秀な学生だった。彼女が無実の罪を着せられたことは。私もずっと気にかけていた。彼女は今どうしている」
「街で待ってます。先生のメモは持ってますって伝えてもいいですか」
「もちろんだ。彼女に。私は信じていると伝えてくれ」
「わかりました」
タルクは教授の研究室を後にした。
塔の螺旋階段を降りながら。タルクは考えた。
差し込み座。
インサート。
古代の建設者は。日本の現代の建設業と同じ思想で。世界を建設していた。それは偶然か。あるいは必然か。あるいは。〈原初の建設者〉は実は別世界から呼ばれた職人たちであり。彼らも何らかの形で。地球の建設業の常識を持ち込んだのではないか。
ありえない話ではない。
いや。むしろ。ありうる話に思えてきた。
俺と同じだ。
俺と同じ。別世界から呼ばれた。職人たち。
タルクは塔の出口で立ち止まった。
彼らは去った。あるいは消えた。
ならば。次に呼ばれるのは誰だ。
次は俺の番か。
タルクは静かに笑った。
悪くない。
現場が俺を呼んでくれるなら。応える。それが配管工の仕事だ。




