第3話 井戸の通水試験
翌朝には村の半分がタルクの家の前に並んでいた。
行列の先頭にいたのは三軒先の農夫だった。両手に錆びた鋤を握ってずいぶんと深刻な顔をしている。その後ろには赤子を抱えた女房。さらに後ろには腰の曲がった爺さん。その後ろにも。その後ろにも。村の人間が並んでいた。
「タルク。うちの井戸も見てくれんか」
農夫がしゃがれた声で言った。
「うちは半年前から水が濁ってんだ」
「うちは水が出ても泥水だ」
「うちは水量が半分以下になっちまった」
次々に声が飛んだ。タルクは扉の前で頬をかいた。村のすべての家に井戸があるわけではない。共同の井戸を使う家もある。しかしそれにしても水回りの不具合がここまで多いとは。
「ちょっと待ってください」
タルクは行列を止めた。
「順番に行きます。まずは現場確認。それから修理計画」
「ゲンバ。シュウリケイカク」
農夫が呟いた。聞いたことのない言葉らしく顔をしかめた。十七年の現場で染み付いた言葉が無意識に口から出ていた。タルクは咳払いして言い直した。
「えっと。一軒ずつ見ていきます。直る順に直します。それでいいですか」
村人たちは納得して頷いた。
タルクは慌てて家に戻り。タルクの記憶の中にあった古い農具袋に。父の形見だという小さな道具一式を詰め込んだ。鉄槌が一本。鉄製のヤスリが一本。鋸状の刃物が一本。素朴な道具だが手に馴染んだ。十三歳の体には少し重いが扱えないほどではない。
最初の現場は隣家の井戸だった。
井戸の前に立ってタルクは光る管を見た。井戸の真下を通る管は無事だ。しかし井戸そのものに繋がる側枝の管が。途中で大きく折れ曲がっていた。地震か工事か何らかの原因で曲げられたまま放置されている。光の流れが完全に止まっていた。
「これは折れてますね」
タルクは言った。
「井戸が折れてる」
家主が眉をひそめた。
「えっと。井戸の中の。深いところの。曲がりが。ちょっと変です」
タルクは咄嗟に言い換えた。光る管の話はできない。家主にわかる言葉で説明しなければならない。
「で。直せるのかい」
「やってみます」
タルクはまた井戸に降りた。今度はロープではなく井戸の側面に付いた足場を使った。日本の井戸にはない構造だがこの世界の井戸にはあるらしい。タルクの記憶によれば井戸を掘った職人が後の修理用に組んだものだという。なるほど合理的だ。
降りた先で。タルクは光る管に意識を集中した。
今度は意識を流すだけでは足りなかった。管が物理的に折れている以上。光の力だけで戻るとは思えない。タルクは試しに手のひらを管の折れ曲がり部分に当てた。指は管をすり抜ける。しかし手のひらの真ん中に。じわりとした熱を感じた。
何かが反応している。
タルクは集中した。十七年の経験を言語化していった。配管が曲がったときどうするか。まず力を加えて元の形に戻す。曲げ戻し作業。しかしそれは塩ビ管や銅管の話。光の管にどう力を加えるか。
頭の中のイメージを切り替えた。
手のひらから「掴む」イメージを管に流し込んだ。
光が反応した。
手のひらに重みが返ってきた。物理的な重みではない。意識の中の重み。そういう感覚。タルクはゆっくりと手を動かした。曲がった管の形を。元のまっすぐな状態へと。じわじわと戻していく。十七年やってきた塩ビ管の曲げ直しと同じ手順。違うのは触れる対象が物質ではなく光であるということ。
ガコッ。
管が音を立てて元の位置に戻った。光の流れがふっと再開された。タルクの手のひらに鈍い痺れが残った。同時に脳の奥が一度疲弊した。さっきの井戸より消耗が大きい。これは慣れの問題か。あるいは作業の難易度の問題か。
タルクは足場を昇って地上に戻った。
地上ではすでに井戸から音がしていた。家主の女房が滑車を引いていた。澄んだ水が桶に入って上がってきた。家主と女房と子供が桶を覗き込んで歓声を上げた。
「タルクや。お前は神様の使いか何かか」
家主が目を潤ませて言った。
「いや。ただの修理屋ですよ」
タルクは小さく笑った。家主は何度も頭を下げた。タルクは礼を断ったが家主は強引に。卵を五つと干し肉を一束。袋に詰めて押し付けてきた。
「気持ちだ。受け取ってくれ」
タルクは仕方なく受け取った。
ふと立ち止まって考えた。これは現代でいえば修理代金だ。修理屋として動くならば。この世界でも対価は受け取るべきだ。タルクの記憶の中の老婆の家計は決して楽ではなかった。世話になっている以上タルクが金を稼げるのなら稼ぐべきだ。
次の家でも同じだった。
タルクは光る管の状態を確認し。修理し。報酬を受け取った。報酬は卵だったり野菜だったり布切れだったり。村は貨幣経済が成熟していなかった。物々交換が主だった。タルクはそれをすべて袋に放り込んだ。十軒目を回ったときには袋が膨れ上がっていた。
昼になると村の広場に長老が立っていた。
「タルク。ちょっと話があるんだが」
長老は六十過ぎの白髭の男だった。村でいちばん古い家系の主であり。村長と呼ばれることもある人物だった。タルクの記憶の中では遠い存在だった。孤児の少年が話しかけられるような相手ではなかった。
しかし今日は違った。長老はタルクの肩にしっかりと手を置いて。村の集会所の方へと連れていった。
集会所の中は薄暗かった。蝋燭が一本灯っているだけだ。蝋燭の煙の匂いが日本の仏壇の線香と似ていた。長老は奥の椅子に座って。タルクに向かい合うように手招きした。
「お前さん。なんでこんな力を持ってる」
長老は単刀直入に切り出した。
「俺にも。よくわからないんです」
タルクは正直に答えた。半分は本当だった。光る管が見える理由はわからない。修理ができるのも理由はわからない。
「最近変わったか」
「えっと。今朝から。です」
「今朝から」
長老は腕を組んだ。長い沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れた。長老の目はタルクの目をじっと見つめていた。値踏みするような目だった。十三歳の孤児の顔を見ているのではなく。その奥にいる別の何かを見ているような目だった。
タルクは黙って見つめ返した。十七年の現場で身につけた目線だった。元請けの社員に対峙するときと同じ角度の目線だ。怯えてはいけないが挑発してもいけない。ただ事実だけを伝える目。
長老が小さく頷いた。
「お前さんはこの村に長くいる子じゃないかもしれんな」
「え」
「いや。物の例えだ。とにかく。お前さんに頼みがある」
長老は懐から一通の手紙を取り出した。羊皮紙に蝋で封がされた本格的な書状だった。封蝋には盾と剣の紋章が刻まれていた。
「これは領主様からの通達だ。先月から領主館の大浴場の湯が出なくなった。湯沸かし機関の不具合らしいが。領主様抱えの技師が誰も直せない。半月もすれば領主様が王都に行かれるご予定だが。それまでに直さないと体面が悪い。だから領内の腕利きを募集しておられる」
「腕利き」
「お前さんが行ってくれんか」
タルクは目を瞬いた。
領主館。
この村のずっと格上の建物だ。タルクの記憶の中の認識では。雲の上の存在。石造りの大きな館。壁の高さはこの集会所の三倍。中には湯殿があり。広間があり。応接室があり。そして最新式の魔導機関が動いている。十三歳の孤児が足を踏み入れることなど普通なら一生ない場所だった。
しかしタルクは断らなかった。
断る理由がなかった。
「行きます」
「即答だな」
長老は呆れたように笑った。
「行きます。ただし条件があります」
「条件」
「もし直せたら。報酬をいただきたいです。あと。村で使っている水車の修理にも回してください。あれも光が漏れてます」
「光」
「えっと。あの水車も今度ちょっと変なんで。一緒に直したいです」
タルクはまた言葉を選んで言い換えた。光る管の話はまだ早い。長老は目を細めて頷いた。
「いいだろう。お前さんを領主様の館に推挙しよう。ただし忘れるなよ。ここは辺境の村だ。お前さんが下手を打てば。村全体が罰を受ける」
タルクは深く頷いた。
「段取り八分です。最初に現場確認。次に手順書。次に作業。最後に試験です。手順を守れば失敗はしません」
長老はその言葉を理解しなかったらしく。眉をひそめた。しかしタルクの目の奥にある何かを見て。深追いはしなかった。
「明日の朝に出発だ。村の馬車に乗っていけ」
長老は立ち上がった。
タルクも立ち上がった。集会所の外に出た。日が傾きはじめていた。空は二つの太陽の影響で奇妙な紫色に染まっていた。日本では絶対に見ない色だ。
タルクは長老と別れて自分の家へと歩き出した。
道々で考えていた。
領主館の湯沸かし機関。
光る管がそこにも通っているはずだ。村と違って大規模な設備が組まれているはず。機関本体の構造は知らないが。光る管の流れさえ追えれば原因はわかるだろう。
ただし。
領主の館に出入りする「技師」たちはどうだ。彼らは光る管が見えていない。それでも修理を試みている。つまり彼らはこの世界の技術体系の中で。表面的な現象を相手に修理している。光る管の存在は知られていないらしい。
なぜ俺だけ見えるのか。
タルクは空を見上げた。
答えは出なかった。
しかし答えが出なくても現場は始まる。
これは現代の現場でも同じだった。配管がなぜ詰まったかわからなくても。詰まりは取らねばならない。物理を知らなくとも漏水は止めねばならない。理由よりも先に対処。それが現場の鉄則だった。
家に戻ると老婆が玄関で待っていた。
「タルク。あんた領主館に行くって本当かい」
「はい」
「お前さんがあの館に行くなんて。死んだ父さん母さんに顔向けできるかね」
老婆は涙ぐんでいた。タルクはそっと老婆の肩に手を置いた。
「大丈夫です。俺は配管工です。直せる現場なら直せます」
「ハイカンコウ」
老婆はその言葉も理解しなかった。それでもタルクの手の温度を感じて。何度も頷いた。
その夜。タルクは父の形見の道具袋を磨いた。十三歳の少年の手で。三十五歳の桜井巧の動きで。一つ一つ。鉄槌の柄を布で擦り。ヤスリの目を確認し。鋸の刃を研ぎ直した。
道具を磨くのは現場前の儀式だった。
日本でもこの世界でも変わらない。
桜井巧は十八歳で配管工として働き始めたとき。先輩の親方から最初に教わったのが工具の手入れだった。お前の手を伸ばす相手はパイプじゃねえ。工具だ。工具を可愛がれ。工具がお前を裏切らねえようにしろ。あの言葉を巧は今でも覚えている。十七年経って自分が三十五歳の中年になっても。あの教えだけは色褪せなかった。
タルクは鉄槌を布で磨きながら手の重さを確かめた。十三歳の手は鉄槌一本でも重い。しかし握り具合は悪くない。父の形見だというこの道具は誰かが大事に使い込んだ形跡があった。柄の握り部分が手のひらの形に擦り減っている。タルクの父はどんな職人だったのだろうか。タルクの記憶の中には父の顔の朧げなイメージしかない。鍛冶屋だったか。木こりだったか。いずれにせよ手仕事の人間だったらしい。
工具を磨く間に窓の外の風景が変わった。
二つの月が空に並んでいた。一つは銀色で大きく。もう一つは赤紫で小さい。両方とも満ちかけていた。月の光が二色に重なって地面に複雑な影を落としている。日本では見られない夜空だった。それでも月そのものの静けさは同じだった。星の輝きも同じだった。世界が違っても夜は夜らしい。
タルクはふと窓辺に立った。
遠くの空に光る管の大河が見えた。
昼は気づきにくいが夜の方がはっきりと見える。世界中の管路が地平線の彼方で合流して。巨大な光の流れを形成している。それは天の川のようでもあり。あるいは血管のようでもあった。世界そのものの循環系。
タルクは小さく息を吐いた。
あの大河に比べれば。村の井戸の修理など。蛇口のパッキン交換ほどの作業に過ぎない。明日修理する領主館の湯沸かし機関も。せいぜい家庭用ボイラーの不具合と同じ規模だ。本当の現場はあの空にある。世界の隅々まで通っている管の総体。それを誰が敷設したのか。なぜ劣化しているのか。なぜ自分にだけ見えるのか。
答えは何もない。
しかし。
タルクは静かに窓を閉めた。
答えは現場が教えてくれる。十七年やってきてそれだけはわかっていた。考えていてもわからない。手を動かすうちに見えてくる。一本ずつ。一現場ずつ。それを積み上げていく。それが配管工の仕事の進め方だった。
窓の外で二つの太陽が沈み。代わりに二つの月が昇り始めた。淡い月の光がタルクの手元を照らした。タルクは静かに笑った。
明日は新しい現場だ。
異世界での。最初の。本格的な現場。
桜井巧の現場勘が静かに研ぎ澄まされていった。




