第2話 異世界の少年と、見える管
扉を開けた瞬間に老婆が三歩後ずさった。
「あんた目が変だよタルク」
しゃがれた声だった。腰の曲がった老婆は手にした杖でこちらを指していた。
「変ですか」
タルクは自分の頬に手を当てた。鏡などなくとも気配でわかる。三十五歳の桜井巧の眼差しは十三歳の少年のものではない。十七年現場で図面を読み数字を睨み続けた目だ。それが今この少年の顔に乗っている。
「まあいい。熱でも出たんだろ。井戸見てきてくれるね」
老婆は深追いしなかった。杖をついて前を歩き出した。タルクは黙ってついていった。歩きながら自分の体の歩幅を測った。一歩が短い。重心も低い。十三歳の体は思っていたよりも小さかった。
空気は乾いていた。土の匂いと家畜の匂いと薪が燃える匂いが混じっていた。日本の春先より少し寒い。風は乾燥していて唇がすぐに切れそうだ。村のあちこちから煙が上がっていた。竈の煙だ。朝食の支度の時間らしい。
道は石ころだらけの土道だった。轍の跡が深く刻まれている。馬車らしきものが日常的に通っているのだろう。タルクは足元を見ながら歩いた。靴は底の薄い革のサンダルだった。爪先が擦り切れている。タルクの記憶の中ではこれが唯一の靴だった。
光る管が至るところに見えた。
道の下にも通っている。家の壁の中も走っている。空中にも何本か浮いていた。空中の管は他のものよりも太く明るかった。タルクは無意識に天を仰いだ。光の管は雲を貫いてさらに上へと伸びていた。そして遥か地平線の方向で他の太い管と合流して大河のような流れを形成していた。
「これ気にしないんですか」
タルクは思わず老婆に尋ねた。
「何のことだい」
老婆は振り返らずに答えた。
やはり見えていない。タルクは口をつぐんだ。十七年の現場経験が言っていた。よそで通用する説明を現場でいきなり始めるな。まずは観察。次に検証。それから報告。
老婆の後ろを歩きながらタルクは頭の中で図面を描いていた。村の見取り図だった。タルクの記憶の中にある村の地理と。今見えている光る管の配置を。重ねて記憶していく。これは将来の参照用だ。ベテラン配管工の習い性だった。新しい現場に入ったらまず全体図を頭に入れる。
井戸は村の中央広場にあった。
石を積んだ円形の井戸だった。直径は二メートルほど。深さは見えない暗闇の底。木の屋根と滑車がついている。ヨーロッパの中世絵本に出てくるような典型的な井戸だ。日本の井戸とは形が違う。タルクは滑車のロープを引いてみた。木桶が上がってきた。
桶は空だった。
「ほらね。何度引いても水が来ないんだ」
老婆が肩をすくめた。
「夏でもないのに水が出ない井戸なんてね。神様がお怒りなのかね」
タルクは桶を覗き込んだ。底に湿った跡はある。完全に枯れたわけではない。水位が滑車のロープが届かないほど下がっているか。あるいは水脈そのものが詰まっているか。可能性は二つ。
光る管に目を凝らした。
井戸の真下に太い管が一本走っていた。直径は三十センチほど。普通の上水道より明らかに大きい。管の中身は薄い青色の光が緩やかに流れていた。しかしその流れは井戸のすぐ手前で。見事に詰まっていた。
異物が管を塞いでいた。
異物の正体はわからない。光が乱反射して内部はぼやけていた。しかし詰まっているのは確実だった。
「井戸ってのは地下水を汲み上げるもんですよね」
タルクは老婆に確認した。
「当たり前だろう。何言ってんだいタルク」
「すみません。確認です」
タルクは桶を井戸に戻した。胸の中で計算が始まっていた。
この村は地下水で生活している。しかし光る管も走っている。光る管は何を運んでいるのか。普通の水ではない。あの色と質感は液体ではないように見える。気体に近い。あるいはプラズマか。日本にはなかった概念だ。エネルギー体のようなもの。
異世界。魔法。
タルクは無意識に呟いた。
「魔力か」
老婆が振り返った。眉をひそめていた。
「あんた何を言ってるんだい。子供が魔力なんて言葉どこで覚えた」
「いえなんでもないです」
タルクは慌てて口を閉じた。タルクの記憶の中では魔力という概念は知識としてはあった。教会の司祭が時々口にする言葉。貴族の中には扱える者がいるという話。村人にはまったく無縁の世界の言葉だった。十三歳の村の少年が口にするのは確かに不自然だ。
頭の中で桜井巧の意識が舌打ちをした。注意せねば。前世の記憶と知識を不用意に出すな。この体はタルクという名前の村の孤児だ。今後ずっとそれで生きていく。
「とにかく井戸の中見てきます」
タルクは滑車のロープに両手をかけた。
「あんた何する気だい」
「降ります」
「危ないよ。男衆呼ぼうかね」
「いえ俺で大丈夫です」
老婆は止めようとしたが。タルクの腕を見て黙った。十三歳の少年の腕は細いが。動きには迷いがなかった。十七年現場でロープに頼って降下してきた人間の動きだった。
タルクは井戸の縁に座り。両足をロープに絡ませて。ゆっくりと体を下ろし始めた。手のひらの感触を確かめる。麻のロープだった。ささくれが指に刺さった。日本の現場ロープとは違う。摩擦が強い。これなら滑落の危険は少ない。
井戸の中は暗かった。冷たい空気が顔に当たった。湿った石の匂いがした。地下に降りるほど世界の音が遠ざかった。地上の鶏の声が小さくなった。代わりに自分の呼吸音と水滴の音が大きくなった。
ポタリ。
ポタリ。
水の音はある。底に水はあるのだ。しかし汲み上げられない。
光る管がすぐ目の前にあった。井戸の壁の中を貫いている。タルクは片手を伸ばして触れようとした。指が管をすり抜けた。物理的な実体はないらしい。あるいは体が触れられない属性のものか。
ふと思いついて。タルクは自分の指で空気をなぞった。管の流れに沿って線を描いた。
すると。
管の中の光が一瞬揺れた。
反応した。
井戸の中の暗がりは奇妙に静かだった。地上の音は石の壁に吸い込まれて遠い。代わりに自分の心臓の音と。湿った空気が気管を通る音と。指先のロープが軋む音だけが聞こえていた。タルクは呼吸を整えた。三十五歳の桜井巧の体ならばロープにぶら下がるくらい何ともなかった。しかし十三歳の少年の腕は十秒で限界が見えはじめていた。筋肉の絶対量が違う。これは慣れていくしかない。
冷たい水滴が首筋に落ちた。タルクは身震いした。井戸の壁の苔の匂いは日本の現場で何度も嗅いだ匂いだった。古い建物の地下ピット。雨漏りした倉庫の床下。そういう場所で必ず嗅いだ匂いがこの異世界の井戸の中にもあった。匂いというのは世界が変わっても変わらないものらしい。
タルクは目を凝らして光る管の表面を観察した。
よく見ると管には継手のようなものがあった。日本の配管で言うところのフランジ継手に近い形状だ。ただし材質は金属ではない。光そのものが固まったような半透明の輪。それが等間隔で並んでいる。間隔は約二メートル。日本の規格配管と同じ単位だ。これは偶然か。それとも。
タルクの脳裏に違和感が走った。
この世界の管路設計は。地球の現代の規格に。妙に近い。
偶然にしては似すぎている。古代の設計者が何者であったのか。タルクは脳の片隅にその疑問をしまった。今は調査ではなく修理だ。順番がある。
タルクは目を見開いた。確かに反応した。何かしらの干渉が起きている。これは見えるだけではない。触れることもできる。ただし普通の物理的な接触ではなく。意識を込めた何かによって。
桜井巧の脳がフル回転した。配管工としての本能が告げていた。これは介入できる。介入できるならば修理ができる。修理ができるならば現場として成立する。
管の詰まりに意識を集中した。
頭の中で十七年やってきた作業を再現した。詰まった管の通水手順。バルブを閉める。圧力を抜く。詰まり箇所を特定する。撤去する。再通水する。試験する。その手順を。意識として管に流し込んだ。
光る管が震えた。
詰まりの周囲に小さな光の渦が生まれた。
次の瞬間にズンと底から重い音がした。井戸の壁が震えた。タルクは慌ててロープを掴み直した。地響きのような音が地下から上がってきた。同時に水音が変わった。ポタリポタリだった音が。ザァァァという連続音に変わっていた。
水が来た。
タルクは驚いて下を見た。井戸の底に光が灯っていた。詰まりが解消され。光の流れが戻っていた。同時に普通の水位も上昇していた。地下水脈の出口が魔導管の流れで活性化されたようだった。
「タルク何があった。地響きがしたよ」
頭上から老婆の声が降ってきた。
「水来ます。引き上げてください」
タルクはロープを引っ張った。
老婆と。集まってきた村の男衆数人がロープを引き上げてくれた。タルクが地上に戻ったときには。井戸の中ではすでに水音が響いていた。男衆の一人が滑車の桶を下ろした。引き上げると。桶には澄んだ水がなみなみと入っていた。
広場に歓声が上がった。
「タルクが井戸を直したぞ」
「水だ。水が出たぞ」
「あの孤児が」
「魔法でも使ったのかい」
タルクは黙って井戸の縁にもたれていた。汗をかいていた。意識を管に流し込んだ作業は思った以上に消耗が激しかった。何かエネルギーを使っている。脳の奥で電池が減ったような感覚があった。
「タルク。あんた何したんだい」
老婆が小声で尋ねた。
「井戸の。水脈が詰まってたんで通しました」
「通したって。下に降りて何かしたのかい」
「祈ったらこうなりました」
タルクは目を伏せた。本当のことは言えない。光る管が見えると言っても理解されない。理解されないどころか異端扱いされかねない。十七年の現場勘が告げていた。本当のことを言うな。相手にわかる言葉で説明しろ。
「祈った」
老婆は何度か頷いた。
「あんたは特別な子だね」
タルクは何も答えなかった。ただ井戸から汲み上げられる水を見つめていた。透明な水だった。日本の水道水よりも澄んでいた。村の男衆が一人ずつ桶を覗き込んでは歓声を上げていた。
水が出る。
それは現代の日本では当たり前のことだった。蛇口をひねれば水が出る。それを支えていたのは何百万キロの水道管とポンプ場と浄水場と管理会社と。そして無数の配管工たちだった。誰も気にしないインフラだった。
しかしこの世界では。水が出るというだけで人は涙を流すらしい。
タルクは黙って水を見ていた。
胸の奥に小さな熱が灯った。これは現場が成立した瞬間の感覚に似ていた。十七年で何百回と味わった感覚。ボイラーが起動した瞬間。給水管に水が通った瞬間。試運転で配管が初めて鳴った瞬間。あの感覚が。違う世界で。違う体で。確かに戻ってきていた。
俺はまだ配管工だ。
タルクは思った。
体が変わっても。世界が変わっても。技術は俺の中にある。
「タルクや」
老婆が肩に手を置いた。
「あんたは今日からこの村の宝だよ」
タルクは首を横に振った。
「俺は宝じゃないですよ。ただの。修理屋です」
修理屋。
その言葉が異世界の村の朝の空気に響いた。
集まった村人たちは意味を測りかねて顔を見合わせた。
しかしタルクの中の桜井巧だけは。その言葉に確かな手応えを感じていた。
最初の現場は完了した。
通水試験は成功。
ただし。
タルクは光る管に視線を移した。
井戸の周りの管はまだあちこちで漏水していた。今修理したのはほんの一本。詰まりの一つだけだった。村全体には数百本の不具合が見える。村だけではない。村の外には数千本数万本の管が広がり。そのほぼすべてが何らかの不具合を抱えていた。
これは。
大規模改修工事だ。
タルクは小さく息を吐いた。
異世界転生。配管工。世界規模のインフラ更新工事。
なんだか。
悪くない仕事じゃないか。
タルクの口の端に微かに笑みが浮かんだ。
桜井巧が三十五年で初めて現場を任された日と同じ笑みだった。




