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世界の蛇口は俺が握る 〜転生配管工、異世界の血脈を繋ぎ直す〜  作者: もしものべりすと


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第1話 最後の現場

脚立の上で空を見上げた瞬間に死を予感する人間が果たしてどれだけいるだろうか。


 その日の桜井巧は確かに予感していた。安全帯のフックを外せと指示された瞬間に空気の質が変わったのだ。十七年の現場勘が首の後ろを冷やしていた。それでも巧は黙って従った。文句を言えば仕事を失う。家賃と工具のローンと年老いた母の介護費用が頭の中を流れた。


 三月の朝六時半。建設中の十二階建てオフィスビルの七階。コンクリートはまだ打ちっぱなしで天井裏には吊りボルトの森が広がっていた。蛍光灯すら入っていない暗がりの中で巧は脚立の天板に立っていた。手元には冷媒管の銅管がある。これを天井のインサートから吊り下げた金具に固定する作業だ。


「桜井ぃ。何モタモタしてんだ。安全帯外せって言ってんだろ」


 下から声が飛んだ。元請けの現場代理人。黒田優介。四十歳。安全靴は新品で泥ひとつついていない。スーツの上にヘルメットだけ載せた典型的な机上の人間だった。


「黒田さん。これ外したら墜落制止用器具違反です。労基入ったら一発でアウトですよ」


 巧は脚立の上から見下ろして言った。声はかすれていた。早朝の空気は冷たく口の中まで乾いていた。


「うるせえな。脚立は二メートル未満だ。安全帯義務化対象外。それより今日中にこのフロア終わらせねえと工程ぶっ壊れる。お前の段取りが悪いから遅れてんだろうが」


 巧は唇を噛んだ。脚立は確かに一メートル八十センチ。法律上の義務化対象ではない。しかし上に乗っている自分の頭の位置は床から三メートルを越えている。落ちれば致命傷になる高さだった。


 それに段取りが悪いのは巧ではない。図面の支給が遅れたのも材料の搬入が遅れたのもすべて黒田の管理ミスだった。それを下請けの作業員に押しつけて吠えているだけだ。


 巧は安全帯のフックを外した。カチリと小さな金属音が鳴った。十七年の経験が首筋でざわめいた。


「桜井さん。本当に大丈夫っすか」


 脚立の下で材料を支えていた見習いの若い男が小声で言った。入って三ヶ月の青年だった。名前はまだ覚えきれていない。


「気にすんな。すぐ終わる」


 巧は笑った。笑ったつもりだった。実際には頬の筋肉が引きつっただけだったかもしれない。


 冷媒管を肩に担ぎ直した。二十ミリの銅管が二メートル分。重さは大したことはないが長尺物はバランスが悪い。脚立の上で取り回すには集中力がいる。本来であれば足場を組むべき作業だった。だが足場を組む金も時間も黒田は出さない。


 吊り金具のボルトを締める。ラチェットを回す。カチカチと小気味よい音が暗がりに響いた。あと一回転で締結完了。そのときだった。


 脚立の脚がガクッと沈んだ。


 床のコンクリートに微妙な段差があった。前日に他業者が削ったハツリ跡だ。脚立を立てた瞬間には気づかなかった。気づいたところで他に置き場所もなかった。


 体が斜めに傾いた。本能的に銅管を放した。両手で何かを掴もうとした。掴むものは何もなかった。


 時間がゆっくり流れた。


 天井のインサートが視界を流れていく。打ち忘れたインサートが二箇所あった。後で職長に報告しなければと思っていた箇所だ。報告する前に自分が落ちていく。皮肉だな。そう思った。


 体が宙に浮いた瞬間に巧は一つの確信に至った。これは事故ではない。事故が起こる構造を黒田が作った。誰でもいいから落ちるべくして落ちる現場だった。落ちたのが自分だっただけだ。


 背中から落ちた。


 頭が遅れて落ちた。


 コンクリートの硬い感触が後頭部を貫いた。視界が白く飛んだ。痛みを感じる前に音が消えた。次に色が消えた。最後に思考が遠のいた。


 しかし完全に意識が消えるまでの数秒間。巧の耳は確かに黒田の声を拾っていた。


「おいおいどうしたんだお前。なんで安全帯外してんだよ。あれだけ言ったのに守れねえ奴は来るんじゃねえって。おい誰か救急車。あと労基には俺が説明する。こいつの自己判断のミスだったって言うから」


 ああやっぱりな。


 巧の意識が薄れる中で最後に残ったのはその一言だった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただの納得だった。十七年現場にいれば人間の本性は嫌でも見える。黒田はそういう男だった。最初からそういう男だった。


 救急車を呼ぶ声が遠ざかった。


 誰かが自分を覗き込んでいる。見習いの青年だった。涙を流していた。何か叫んでいるが音は届かない。


「兄ちゃん。気にすんな」


 巧は呟いた。声が出たかどうかはわからない。


「お前のせいじゃない。現場ってのは誰かが守らないといけねえ。図面と。数字と。段取りでな。それを覚えとけ」


 視界が黒く塗り潰されていった。


 最後に脳裏をよぎったのは母の顔だった。次に工具袋の重みだった。次に施工した何百件もの建物の風景だった。マンションの天井裏。商業ビルの機械室。病院のパイプスペース。誰の目にも触れない場所で巧の管が黙々と水を流し続けている。


 誰も知らない。


 誰も褒めない。


 しかし蛇口をひねれば水が出る。トイレを流せば汚物が消える。冬になれば暖房が効く。それを支えてきたのが俺たち配管工だ。


 俺の人生は無駄じゃなかったよな。


 なあ母さん。


 意識が完全に途切れた。


 暗闇の中で巧は意外なほど穏やかだった。死ぬとはこんなものか。三十五年は短かったかもしれない。それでも悔いはあまり残っていなかった。一つだけあるとすれば。


 黒田。あいつだけは。


 いつか必ず。


 そう思った瞬間。


 暗闇の底から光が差した。


 最初は針の穴ほどの小さな光だった。それがゆっくりと大きくなっていった。光は柔らかく温かかった。誘うように手招きしているようだった。


 巧は手を伸ばした。死後の世界とは光に向かって歩くものらしい。葬式で坊主が言っていた。なるほどこれか。


 光に触れた瞬間に巧の体は引き込まれた。


 猛烈な速度で何かが流れた。色彩のない景色が目の前を駆け抜けた。長い長い管の中を流される水のように巧は流された。耳の中で誰かの声が聞こえた気がした。古い言葉だった。聞いたことのない響きだった。それでもなぜか意味がわかった。


「――あなたは選ばれた。あなたは見える者。あなたの手は世界を繋ぐ」


 誰だ。


 巧は問おうとした。声は出なかった。


 答えはなかった。代わりに体がぐるりと回転した。重力の向きが変わった。空気の匂いが変わった。風の音が変わった。


 目を開けた。


 まず最初に見えたのは藁葺きの屋根だった。日本の屋根ではなかった。茅葺きでもない。乾燥した藁を束ねて重ねた素朴な屋根だ。その隙間から朝の光が漏れている。空気は冷たかった。土と煙の匂いがした。木が燃える音が遠くで聞こえた。


 巧は寝ていた。固い藁のベッドの上だった。毛布のようなものが体にかけられている。粗末な布だった。


 体を起こそうとした。違和感があった。手が小さい。腕が細い。足が短い。


「なんだこれは」


 声が出た。声も違っていた。少年の声だった。声変わり前の高い声だった。


 巧はベッドから飛び降りた。隅に水を張った木桶があった。覗き込んだ。


 水面に映ったのは見知らぬ少年の顔だった。


 黒髪で黒い瞳。日に焼けた肌。痩せた頬。十二か十三といったところだ。少なくとも三十五歳の桜井巧の顔ではなかった。


 巧は呆然と水面を見つめた。指で頬を触った。確かに自分の手で頬に触れている。鏡像が同じ動きをした。これは現実の自分の顔だ。


 脳の奥で何かが流れ込んできた。記憶だった。


 タルク。それが今の自分の名前だった。十三歳の孤児。三年前に流行り病で両親を失った。村の世話役の老婆の家で雑用をしながら暮らしている。村の名前はセレシア。辺境の小さな農村。


 しかしそれは日本ではなかった。地名も違えば言語も違う。それなのに頭の中の少年タルクは確かにその言葉で生きてきた記憶を持っている。


 巧の意識とタルクの記憶が一つの体の中に同居していた。


「マジか」


 巧は呟いた。日本語が口から出た。それと同時にタルクの言語でも同じ意味の言葉が浮かんだ。脳が二重に動いている。あるいは融合している。


 巧は深呼吸した。三十五歳の桜井巧の冷静さがまず動いた。状況を整理する。死んだはずの自分が見知らぬ世界の少年として目覚めている。これは夢ではない。指先の感触が生々しすぎる。


 窓の外を見た。


 質素な石垣に囲まれた小さな村が広がっていた。茅葺きの家々。土でできた道。畑を耕す人々。鋤を引く牛のような獣。子供たちが裸足で走り回っている。鶏に似た生き物が地面をつついている。


 空には太陽が二つあった。


 大きな黄色い太陽と。小さな赤い太陽が。


「異世界かよ」


 巧は思わず呟いた。


 ベッド脇の壁にかけられた小さな剣が目に入った。子供用の鉄剣だ。タルクの記憶によればこれは父の形見らしい。剣がある世界。そして空に二つの太陽。これは間違いなく異世界というやつだ。


 巧は壁にもたれて座り込んだ。理解が追いついていなかった。それでも一つだけはっきりしていることがあった。


 俺は死んだ。


 黒田に殺された。


 そして今ここにいる。


 怒りはあった。しかし腹の底で静かに燻る程度だった。死はもう完了した過去だ。今は別の問題がある。生きている自分。新しい体。新しい世界。


 巧は深呼吸を繰り返した。十七年の現場で身につけた習慣だった。困難な現場ほどまず深呼吸する。次に状況確認。次に段取り。


 段取り八分。


 その言葉が口から漏れたとき。


 巧の視界に異変が起きた。


 壁の向こうに薄く光る何かが見えた。最初は目の錯覚かと思った。しかし違った。家の壁の中。床の下。天井の上。淡い水色の光が血管のように走っていた。


 パイプ。


 配管だ。


 巧は立ち上がって壁に手を当てた。光は確かにそこにある。半透明で揺らいでいる。形は明らかに管だった。直径二十ミリほどの細い管が網のように張り巡らされている。


「なんだこれは」


 巧は壁から手を離した。光は消えなかった。むしろ家の外まで続いているのが見えた。地面の下を這うように。空に向かって伸びるように。村全体に張り巡らされている。それも一つや二つではない。何百本何千本という管が。


 しかし誰もそれを見ていない。窓の外の村人たちは光に気づく様子もなく歩いている。


 巧は震える手で水桶の縁を掴んだ。


 配管が見える。


 異世界に転生して。


 なぜか俺には配管が見える。


 巧は乾いた笑いを漏らした。死んで生まれ変わって異世界に来てまで配管かよ。神様も粋なことをする。


 しかし笑いはすぐに止まった。


 光る管の一本に目が留まった。家の壁の中を走る一本。途中で破れていた。光が漏れていた。漏水だ。あの形状は明らかに継手の不良。経年劣化か施工不良か。いずれにせよ機能不全を起こしている。


 巧は別の管を目で追った。


 また破れていた。


 別の一本。


 また破れていた。


 村中の管が至るところで光を漏らしていた。漏水。詰まり。亀裂。継手の緩み。十七年の経験が告げていた。


 これは死にかけている。


 この村の管は。


 いや村だけじゃない。


 巧は窓に駆け寄った。地平線の向こうまで光る管が伸びている。森の中を抜け山を越え地平線の彼方まで。そのすべての管が至るところで光を漏らしていた。


 世界全体が漏水していた。


 巧は窓枠を強く握った。


「マジかよ」


 声が震えた。


 異世界の十三歳の少年タルクの体の中で。三十五歳の配管工桜井巧は新しい現場の規模を理解しはじめていた。


 扉を叩く音がした。


「タルク。起きてるかい。井戸が今朝も水が出ないんだよ。あんたちょっと見てきておくれ」


 しゃがれた老婆の声だった。村の世話役。タルクの記憶の中の老婆だった。


 巧はゆっくり扉に向かった。


 井戸が水を出さない。


 なるほど。


 最初の現場はそれか。


 巧の唇が無意識に動いた。タルクの声で。しかし中身は紛れもなく桜井巧だった。


「今行きます。道具と図面用意しといてください」


 老婆は扉の向こうで首をかしげただろう。図面とはなんだ。道具とはなんだ。村の少年が朝から何を言っている。


 しかし巧は気にしていなかった。


 現場が動き始めていた。


 異世界での最初の段取りが今始まろうとしていた。

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