第16話 帝国侵攻
国境の鐘が鳴り始めたのは夜明け前だった。
魔導院の塔の窓際でタルクは目を覚ました。遠雷のような重低音が連続して響いていた。あれは雷ではない。タルクの脳裏に前世の記憶が走った。建設現場で杭打ち機が地盤を叩く音。あの低音と振動。それが今聞こえている。ただし規模が違う。
タルクは寝台から飛び降りた。窓を開けた。
冷たい朝の空気の中に。火薬と硫黄の匂いが混ざっていた。
「戦争が始まった」
タルクは呟いた。
この匂いを。タルクは前世で何度か嗅いだことがあった。建設現場の発破作業の後の匂い。岩を砕いた直後の空気。それが今。国境の方から漂ってきていた。これは戦争用の魔法か火薬か。あるいは双方の混合か。タルクの記憶は瞬時に状況を分析した。
空は暗かった。二つの月はすでに沈んでいて。代わりに東の空がほんのり白み始めていた。夜明けが近い。鐘の音は連続的だった。一定の間隔で鳴り続けている。これは緊急召集の鐘。タルクの記憶の中にも知識として残っていた。三回ずつ間隔を空けて鳴る鐘。それが今。間断なく続いている。事態の深刻さを物語っていた。
扉が叩かれた。リエラだった。彼女は服装を整えるどころか寝間着のままで駆け込んできた。
「タルク。起きて。フェルム帝国軍が国境を越えた。北方戦線で」
「北方」
「あんたが起動したインサートがある場所。すぐ近く」
タルクの背筋が冷えた。
二週間前。タルクは北方神殿で一つ目のインサートを起動した。鍵となる意識を込め。柱の中の金具に螺旋ねじを刻み込むイメージを送り込んだ。すると神殿全体が一度震え。次の瞬間には光る管の流れが大きく強化された。世界中の管路の流量が約十パーセント増加した。それはタルクの目だけが確認できる変化だった。しかし効果は確実だった。北方神殿一帯では。長年枯れていた井戸が再び水を出し始めた。神殿で異変が起きたという噂はすぐに広まった。
その噂が。フェルム帝国側にも届いたのは間違いなかった。
帝国は反応した。
軍を動かして。
「行きます」
タルクは服を整え始めた。
「ヴェルナー先生は」
「すでに学長と協議中。学長は王立騎士団に応援要請を出した。私たちはこの混乱に乗じてインサートの起動を進めるしかない」
「ギルベルトさんとセシリアさんは」
「すでに集合場所で待ってる。あんたが来るのを待ってる」
「了解です」
タルクは荷袋を担ぎ。リエラの後を追った。
魔導院の中庭で。ギルベルトとセシリアが馬車の支度を整えていた。
「タルク。準備はいいか」
「いいです」
「目的地は」
「ヴェルナー先生の地図にある。残り十一箇所のインサート。このうち王国側にあるのは六箇所。これを優先的に起動します」
ギルベルトは深く頷いた。
「西部に二箇所。中部に二箇所。南部に二箇所。それぞれを早急に巡回する」
「分担しますか」
「いや。同行する。あんたの能力がないとインサートの起動はできない。チーム単位で動くのが最速」
タルクは頷いた。
馬車は王都を出発した。御者は今回もリエラだった。彼女の魔法は風を呼んで馬車の速度を上げる効果があった。普通の馬車の倍の速度で街道を進んでいった。
最初の目的地は西部の小神殿。王都から二日で到着できる。
道中。タルクは光る管を観察し続けた。北方戦線が動き始めていることは。光る管の流れの変化からも確認できた。北方の管路が異常に活発になっていた。誰かが意図的に流量を変えている。これは戦闘魔法のための魔力供給を引き上げている兆候。
帝国軍の魔法兵団が動員されている。
その規模は。タルクの予測を超えていた。
「リエラさん。北方の戦線。どんな感じです」
「私もまだ把握しきれてない。ただ」
「ただ」
「シュヴァルツが指揮を執ってる」
タルクは唇を噛んだ。
黒田の名が出た。
黒田は帝国軍を動員してまで。何をしたいのか。
タルクの脳裏に答えが浮かんだ。
黒田もインサートを知っている。
彼はタルクが起動したインサートの効果を見て。これが世界の管路を再起動する手がかりだと気づいた。そして自分でも残りのインサートに手をつけようとしている。だから帝国軍を動かしたのは。インサートの位置を確保するため。それも王国側のインサートを。軍事力で奪うため。
「これは。インサート争奪戦です」
タルクは結論を呟いた。
「世界の管路の。支配権争いね」
リエラが頷いた。
馬車は街道を全速で走った。途中の街で替え馬を借りた。野営はせず昼夜兼行で進んだ。一日半で西部の小神殿に到着した。
小神殿は丘の上の小さな石造りの建物だった。広間は大神殿の十分の一の規模。柱もなく。中央に一つの祭壇があるだけ。タルクは入った瞬間に光る管を確認した。祭壇の真下にインサートが一つある。
「セシリアさん。ここで起動します。皆さんは外で警戒してください」
「了解だ」
タルクは祭壇の前に膝をついた。床に手を当てた。意識を集中した。
起動の手順は北方神殿で確認していた。インサートの位置に意識を当て。鍵となる技能を込める。建設者の魂が起動の応答を返す。それで完了。
しかし今回は。妙な抵抗を感じた。
光る管の流れが乱れている。
タルクは目を凝らした。
「リエラさん。誰かが管路を妨害してます」
「ん」
「光る管が異常に振動してる。この近くで。何者かが。妨害工作を仕掛けてる」
外から喧騒が聞こえた。ギルベルトが叫んだ。
「敵だ。帝国軍の。先遣隊」
タルクは慌てて立ち上がった。
神殿の窓から外を見た。
黒い鎧の兵士たちが。十数人。丘の麓に展開していた。先導するのは。フード付きの長衣を纏った魔術師。明らかに帝国軍の精鋭。
「皆さん。警戒してください」
タルクは祭壇に戻った。インサートの起動を急ぐ。
しかし光る管の妨害が強まった。タルクの集中を弾く力が増していた。これは並みの妨害ではない。組織立った魔法攻撃。複数の魔術師が連携して。インサートの起動を阻止している。
「リエラさん。手伝ってください」
「私の魔法じゃ。インサートには干渉できないわ」
「俺の周囲の。空気を。火で固めてください。物理的にも。魔法的にも。隔離したいです」
リエラは頷いた。
タルクの周囲に。炎の輪が立ち上がった。タルクとセシリアを囲む。リエラは集中を切らさず炎を維持した。火の壁が外部からの干渉を弱めた。
炎の温度はかなりのものだった。タルクの背中に熱気が圧し掛かる。前世の現場で消防検査の試験炉に近づいたときの感覚に似ていた。皮膚が乾燥していく。汗が出る。それでも炎は内側を焼くことはなく。あくまで境界を区切る役目を果たしていた。リエラの魔法制御の精度は宮廷魔術師時代の名残だった。彼女がなぜ追放されたのか。タルクは初めてその理由の一端に触れた気がした。これだけの精度の魔法を持つ人間を追放した宮廷は。よほど政治的に腐敗していたか。あるいは彼女を恐れたか。
外で剣戟の音が響いた。ギルベルトの剣が帝国軍の魔術師たちと斬り結んでいた。一対多の戦闘。普通なら不利。しかしギルベルトは小神殿の入り口を背にして戦っていた。一人ずつしか敵が踏み込めない地形を選んでいる。これは騎士団で叩き込まれた戦術だ。地形の利を最大限活用する。タルクは戦闘を直接見ていなかったが。剣の音のリズムから状況を察した。ギルベルトはまだ余裕がある。少なくとも今の段階では。
タルクは再び祭壇に集中した。
インサートに意識を込める。
建設者の技能を込める。
配管工の十七年の経験を込める。
光る管が応えた。
神殿全体が震えた。
ボッ。
空気が一度抜けた音がした。
神殿の天井から光が一斉に降り注いだ。光る管の流れが再び強化された。世界全体の流量がさらに上がるのが見えた。今回の起動量は前回の二倍だった。北方神殿との連携で効率が高まっている。
「起動完了」
タルクは立ち上がった。
「次の現場に行きます」
「了解」
ギルベルトの剣が外で振るわれていた。帝国軍の先遣隊との小競り合い。しかしギルベルトは冷静で。逃げ道を確保する戦い方をしていた。タルクとリエラとセシリアは外に出た。リエラの馬車に乗り込んだ。
「ギルベルトさん」
「先に行ってくれ。俺が殿を務める」
「ギルベルトさんも一緒に」
「俺は剣しか取り柄がない。ここで時間を稼ぐ。お前たちは次のインサートへ」
ギルベルトは振り返らずに剣を振るった。先遣隊の魔術師が一人。彼の剣に倒された。続けて二人目。三人目。
タルクは唇を噛んだ。
「リエラさん。馬車を出してください。ただし。一時間以内にギルベルトさんを回収しに戻ります」
「了解。ただし。一時間半は待てない」
「一時間で戻ります」
馬車は動き出した。タルクは後ろを振り返った。ギルベルトが小神殿の入り口で剣を構えて立っていた。彼の鎧が朝日に輝いていた。
次の現場は中部の祠だった。
馬車を全速で走らせ。リエラの魔法で速度をさらに上げ。半時間で到着した。中部の祠は森の中にあった。小さな石の塚のような構造。インサートは塚の中央にある。タルクは即座に起動した。今回は妨害がなかった。帝国軍はまだ中部までは展開していなかった。
「次。西部のもう一箇所」
馬車は再び動き出した。
タルクは時間を計算していた。一時間以内にギルベルトを回収する約束。これは絶対に守る。
西部のもう一箇所の祠も無事に起動した。
馬車は折り返した。最初の小神殿に向けて。再び全速で。
到着したとき。
ギルベルトは。
膝をついていた。
神殿の入り口で。
血だらけだったが。
生きていた。
タルクとセシリアが慌てて駆け寄った。セシリアは即座に治癒魔法を施した。ギルベルトの傷は深かったが致命傷ではなかった。
神殿の入り口の周囲には。倒れた帝国軍の兵士が散らばっていた。先遣隊は壊滅していた。一人で十数人を相手にして。ギルベルトは生き延びていた。これは並の騎士見習いの腕ではない。タルクは改めて彼の実力に驚いた。
ギルベルトの剣は折れていた。鎧の右半身は大きく裂けている。鎖帷子の輪が何箇所も切られて。中の革鎧も赤く染まっていた。それでも彼は立っていた。立とうとしていた。膝をついていたのは姿勢の問題だ。失血が多くなければまだ戦えそうな目つきをしていた。タルクはこの種の人間を前世でも知っていた。極限まで仕事を投げない職人。心臓発作で倒れる直前まで現場で配管を組んでいた老親方。あの目だ。役目を終えるまでは倒れない目。
「ギルベルトさん」
「タルク。インサートは。起動できたか」
「三つ追加で起動しました。残り八つ」
「上出来だ」
ギルベルトは笑った。痛みを堪える笑い。
タルクとリエラがギルベルトを馬車に運び込んだ。馬車は街道を北上した。次の目的地は中部のもう一箇所。
タルクは胸の中で計算していた。
残り八つのインサート。そのうち六つは帝国側。
帝国側に侵入してインサートを起動する作戦が必要だ。
最終決戦が近づいていた。
タルクの胸の中で。前世の親方の言葉が蘇った。
現場が締まる前は。最も危ない。
その通りだった。
今は最も危険な時期。
しかしここを乗り越えれば。世界は救われる。
タルクは深く息を吐いた。
馬車の窓から。光る管の大河が見えた。
以前より。明らかに。流量が増えていた。
世界が。少しずつ。回復し始めていた。
タルクは頬をきつく拭った。涙ではなかった。汗だった。早朝から走り通しで体は疲弊していた。十三歳の少年の体には酷な行軍だった。それでも止まれなかった。
馬車の中で目を閉じた。
脳裏に前世の現場が浮かんだ。締め切りに追われる工事。徹夜が続く改修工事。あの時の自分も。今の自分と同じくらい疲れていた。それでも仕事は終わるまで止まらない。配管工はそういうものだ。完成するまで現場を離れない。それが職人の務め。
今は世界規模の現場。
完成までに何箇月かかるかわからない。
しかし。
完成させる。
タルクの胸の中の決意は固まっていた。
ギルベルトを背負った馬車が。中部の街道を走っていった。




