第10話 帝国の影
王都に戻った翌朝。タルクは魔導院の最上階の会議室にいた。
長い楕円形の机を囲んで七人が座っていた。学長。ヴェルナー教授。教授職の数人。それから王宮から派遣された貴族らしき男。タルクの隣にギルベルトとセシリアとリエラが並んでいた。リエラは最初追い返されかけたが。タルクが「彼女がいないと俺は話さない」と言ったので渋々同席を許可された。
会議室は塔の最上階にあり。窓からは王都の屋根並みが一望できた。曇り空だった。雲が低く垂れ込めて。何時降ってもおかしくない空気だった。窓際の蝋燭の炎が時折揺らぎ。テーブルの上の羊皮紙に陰影を投げていた。
壁には王国の地図が掛けられていた。中央に王都。北東に魔導院の影響圏。南東に帝国との国境線。その国境線の周辺に。最近三年で帝国側の偵察拠点と思しき小印が複数並んでいた。タルクは入室した瞬間にその地図を目で追っていた。地理を頭に入れるのは現場の常識だった。地図を読まずに動く現場代理人を巧は信用しなかった。
空気は重く湿っていた。前夜の雨の名残が会議室の石壁に染み込んでいる。誰もが黙ったまま視線を交わしていた。タルクは胸の内で深呼吸を一つした。
「タルク君。オストハイムでの出来事を再度説明してくれ」
学長が言った。学長はヴェルナー教授より少し若い男性で。白いひげを蓄えている。鋭い目つきの紳士だった。
タルクは順を追って説明した。光る管の話。不正分岐の発見。応急処置。森の中の地下基地らしき構造物の存在。黒装束の襲撃者。
会議室の空気は重かった。
「これは事実か」
貴族の男が問うた。眉を寄せている。タルクの話を信じきれない様子だ。
「全部事実です。リエラさんもギルベルトさんもセシリアさんも。森の襲撃には立ち会ってます」
「私は襲撃を確認しました」
ギルベルトが背筋を伸ばして言った。
「黒装束の数は六人。全員が訓練された者で。一般の盗賊ではありません。彼らは魔導具を装備しており。組織的な装備支給が行われている可能性が高いと判断します」
「教会としても。タルクさんの能力は確認しました」
セシリアが続けた。
「彼が修理した塔は今も正常に稼動しています。市民への被害も最小限に抑えられました。教会はタルクさんの能力を本物と認定します」
貴族の男はしばらく沈黙した。それから学長を見た。学長は頷いた。
「帝国の影だ。これは」
学長は呟いた。
「フェルム帝国は近年。我が国境付近に複数の偵察拠点を設置していた。それは知っていた。しかし。古代の管路を盗用するとは想像していなかった」
「証拠は」
貴族の男が尋ねた。
「タルク君の見える管の話だけでは。王宮への報告には弱い。帝国を非難するには物的証拠が必要だ」
「証拠は地下基地に行けばあるはずです」
タルクは言った。
「不正分岐の。物理的な接続箇所。それは光る管の話とは別に。物体として存在します。掘り起こせば誰の目にも見える証拠になります」
貴族の男は頷いた。
「それは現実的な提案だ。学長。騎士団の精鋭を派遣して。地下基地を制圧し。証拠を確保しよう」
「即座に手配する」
「ただし」
ヴェルナー教授が口を挟んだ。
「敵がただの帝国の魔導工学者ならば良いが。私は別の懸念を持っている」
「何だ」
「シュヴァルツ卿だ」
その名前を聞いた瞬間。学長と貴族の男の顔が同時に強張った。タルクは怪訝に思って二人を見比べた。リエラがそっと耳打ちした。
「フェルム帝国の最高位魔導技師。最近頭角を現してる人物よ。派手な大魔法を得意とする。けど噂じゃ。手段を選ばないことで知られてる」
「そんな大物が」
「うん。タルク。あんた。たぶん。彼の標的にされてるかもしれない」
タルクは唇を引き結んだ。
「シュヴァルツ卿の本名は」
タルクは尋ねた。
「フェルム帝国貴族の名前だ。クルダ・シュヴァルツ。帝国の宮廷で急速に出世した人物」
学長が答えた。
クルダ。
タルクの心臓が一度跳ねた。
まさか。
これは偶然か。日本人の苗字「黒田」を異世界風に読み替えれば「クルダ」になる。発音が似すぎている。
いや。考えすぎだろう。タルクは自分を諫めた。世界が違う。前世の元上司がそのままこちらにいるはずがない。前世の桜井巧が転生したのだから。元上司も転生している可能性は確かにあるが。それでも同じ世界の同じ国に。同じような立場で。そんな都合のいい話はないはずだ。
しかし。
心の隅に。違和感が残った。
タルクは机の下で左手を顔の側に持っていきそうになった。慌てて止めた。三十五歳の桜井巧の癖。考え事をすると顎を撫でる癖。十三歳の少年がやれば不自然に映る。タルクは膝の上で拳を握り直した。
脳の中で記憶が蘇る。前世の現場での黒田の声。「お前ら配管屋なんてのは下請けの下請けだ。指示待ちが基本だろ」「俺がいないと現場は回らねえ」「数字が合わないのは作業員のせい」。その全ての言葉が。今この異世界の宮廷で別の言語で繰り返されていたとしたら。タルクは想像した。容易に想像できた。それが黒田という男だった。場所を変え時代を変えても変わらない種類の人間。ある種の人間は本質を変えない。それは前世の三十五年でタルクが学んだ哲学だった。
「タルク君」
学長がタルクを見た。
「君の調査に騎士団を同行させる。地下基地の調査と。シュヴァルツ卿の動向の確認。両方の任務を並行する。ギルベルトを含む五名の騎士をつける。セシリア嬢の同行も依頼する」
「お願いします」
タルクは深く頭を下げた。
「ただし。一つ確認したい」
学長が続けた。
「君は十三歳だ。これから先の任務は危険を伴う。それを承知しているか」
「承知してます」
「では。なぜ受ける」
タルクはしばらく沈黙した。
答えはあった。それは前世の桜井巧が三十五年で築いた感覚だった。誰かの困りごとを目の当たりにして。自分にしか直せないとわかってしまったら。直すしかない。それが配管工の業だった。直せるなら直す。直せないなら手立てを探す。原則的にはそれだけ。理屈は二の次。
「困ってる人を放っておけないんで」
タルクは答えた。
「単純な理由だな」
「現場ってそんなもんですよ。難しい理屈つけるのは事務所の人で。現場の人間は。直すべきものを直すだけです」
タルクの言葉に学長は微笑んだ。
「現場という言葉を君はよく使うな。辺境の村でそういう言い方を聞いたことはない」
「俺の口癖です」
タルクは慌てて言い添えた。学長は深追いしなかった。
「ではタルク君。明日朝に出発しよう」
「了解」
会議は終わった。タルクとリエラが退室しようとしたとき。ヴェルナー教授が後ろから声をかけてきた。
「タルク君。少しいいか」
ヴェルナー教授はタルクを廊下の隅に呼んだ。声を低めて言った。
「シュヴァルツ卿のことだが。もう少し詳しく話しておきたい」
「お願いします」
「彼は急速に出世した男だ。十年前にはまったく無名だった。それが今やフェルム帝国の宮廷で随一の地位を占めている。何があってそんな出世をしたか。よくわからない」
「経歴は」
「これも妙だ。十年以上前の経歴がほぼ存在しない。ある日突然帝国の宮廷魔導工学院に入学し。短期間で頭角を現した。出身地も家系も不明。本人は『辺境の貧しい村の出身』と言っているが。裏付けがない」
「どこからともなく現れた」
「その通り」
タルクは顎を撫でた。三十五歳の桜井巧の癖だった。
十年前にいきなり出現した男。
経歴がない。
短期間で異常な出世。
それは。
前世から転生した人間の典型例だ。
タルクは唇を引き結んだ。あくまで状況証拠だ。それでも可能性として無視できない。
「先生。もし。シュヴァルツ卿が。俺と同じく。別の世界から来た人間だったら」
タルクは小声で言った。ヴェルナー教授は驚いた顔をした。
「タルク君。それは。君は」
「俺の能力。先生は。〈原初の建設者〉の血筋とは思ってないでしょう」
「思っていない」
「ですよね」
タルクは小さく笑った。
「ある日突然。光る管が見えるようになった。それまでは普通の村の少年だった。普通の村の孤児に。突然そんな能力が降ってくる理由があるとしたら。一つしかない」
「君は」
「前世というか。別の世界の。ある種の知識と経験を持って。この世界に来たんです。十三歳の少年の体に。中身は別のものが入ってる」
ヴェルナー教授は深く息を吐いた。手で目を覆った。
「タルク君。それは。私の研究の核心に触れる話だ」
「先生」
「〈原初の建設者〉は別世界から呼ばれた者たちだという伝承。それと君の状況は完全に一致する。古代の建設者と君は。同じ系統の存在だ」
「で。シュヴァルツ卿も」
「同じ可能性がある」
ヴェルナー教授は頷いた。
「シュヴァルツ卿が同じ系統の転生者ならば。なぜ彼は魔力盗用などしている」
「先生」
タルクはヴェルナー教授の目を見つめた。
「俺は前世で殺されました。元上司に。安全違反を強要されて。脚立から落ちて死にました。元上司の名前は黒田優介。クロダ・ユウスケ」
ヴェルナー教授は息を呑んだ。
「クルダ・シュヴァルツ」
「同じ人間かもしれません」
タルクは静かに言った。
「あくまで仮説です。証拠はないです」
「しかし。この時期に。同じ転生者がこの規模で動いていることが偶然と片付けるには」
「無理がある」
「そうだ」
ヴェルナー教授は呟いた。
二人は廊下に立ち尽くしていた。
窓の外で曇天が広がっていた。塔の七階の窓から見える王都は灰色に沈んでいた。ヴェルナー教授の白髭が窓辺の鈍い光に照らされていた。
タルクは静かに目を閉じた。
脳裏に黒田の顔が浮かんだ。
眉の濃い四十男。安全靴は新品。スーツの上にヘルメット。下から脚立を見上げる目。「桜井ぃ。何モタモタしてんだ」と吠える声。あの声が異世界にも届いている可能性を。タルクは初めて真剣に考えた。
もし黒田が本当にシュヴァルツ卿として転生していたとしたら。
彼は前世の自分の在り方を悔いただろうか。改めただろうか。
いや。タルクは即座に否定した。前世で何度も見た男だ。あいつはああいう男のままここでも生きている。むしろ転生したことで「やり直しが効く」と勘違いし。さらに増長している可能性すらある。日本では中堅企業の現場代理人止まりだったあの男が。異世界の帝国宮廷の最高位魔導技師にまで登り詰めたのなら。それは黒田にとって理想の人生だろう。
虚栄心の固まりだったあの男にとって。
現場を知らずに地位だけで人を動かせるあの男にとって。
異世界というのは。願ったり叶ったりの環境かもしれない。
「タルク君。これは個人的な怨恨かもしれない」
「先生」
「もし君の前世の元上司が。本当にシュヴァルツ卿になっていれば。彼は君が転生して同じ世界に来たことを知る可能性がある。そして君を再び狙う」
「狙ってくれて構いません」
タルクの声は穏やかだった。
「俺。彼に会ったら。ちゃんと言うべきことがあるんで」
「何だ」
ヴェルナー教授が尋ねた。
タルクの眼差しが一瞬。三十五歳の桜井巧のものに戻った。
「お前が殺した俺は。今も配管工をやってる。お前が稼ぐ虚構の地位なんかより。地味な現場の方が世界に役に立つ。それを教えてやらないといけないんで」
タルクは小さく笑った。
ヴェルナー教授は言葉を失った。
しばらくの沈黙の後。
ヴェルナー教授は震える指でタルクの肩に触れた。
「タルク君。君は十三歳の少年ではないな」
「すみません」
「謝らなくていい。むしろ感謝している。君のような人間がこの世界に来てくれた幸運に。私は感謝している」
「俺もです」
「君も」
「先生に出会えたのも。リエラさんに出会えたのも。ギルベルトさんとセシリアさんに出会えたのも。前世では絶対に経験できなかった。あっちの俺は孤独で。誰にも認められない人間でした。死ぬ間際まで誰一人として俺の名前を呼ばなかった。新人の見習いの兄ちゃんが泣いてくれただけで。それも俺の名前は知らなかった」
タルクの声は静かだった。怒りも悲しみもなかった。事実を述べているだけの口調。十七年の現場で培った冷静さがそうさせていた。
「だからこの世界では。俺は仲間と一緒にやります。それで足りる」
ヴェルナー教授は深く頷いた。
「明日の出発。気をつけて行きなさい」
「はい」
タルクは廊下を歩き出した。
窓の外で雨が降り始めていた。最初は霧のように細かく。次第に粒が大きくなっていった。塔の窓ガラスを叩く雨音が会議室の方向に広がっていった。タルクは雨音を聞きながら胸の中で支度を始めていた。
明日からは。本当の現場だ。
地下基地の制圧。証拠の確保。そして。
いつか必ずやってくる。
黒田との。再会。
タルクは廊下の角で立ち止まった。
左手で顎を撫でた。三十五歳の桜井巧の癖だった。今度は止めなかった。十三歳の少年の手で同じ動作をしても。胸の中の桜井巧の魂は十七年の重みを保っていた。
雨音が塔の壁を伝って降りていった。




