10ゴルドの囮と、真夜中の残業代
深夜零時。裂け海運河。
王都と前線を隔てる巨大な水堀は今、昼間のように白々と照らし出されていた。
「照明魔法弾、絶やすな! 運河の死角をすべて潰せ!」
東方帝国軍・3万の主力が、仮設舟橋を使って続々と王都側へと渡っていく。
だが、情報将校ザイードの厳命により、彼らは前進しながらも「背後(運河)」への異様なまでの警戒を解いていなかった。
上空には数百の照明魔法が滞空し、水面を舐めるように監視の光が走る。ネズミ一匹、泳いで渡ることすら不可能な鉄壁の防陣。
「……さすがは敵の天才だ。見事な警戒網だな」
運河の対岸。岩陰に身を潜めたレオナが、舌打ちを漏らした。
彼女の後方には、息を殺した第7機甲魔導師団。そして、軍用トラックに山積みにされた巨大な「魔導合金製・仮設橋梁モジュール」と、ヘルメットを被った数百人の民間工兵ギルド員たちが控えている。
『将軍さんよぉ! あんな真昼間みたいな光の中で工事なんてできねえぞ!』
「うむ……工兵ギルドの親方の言う通りだ。ユージン、どうする? このままじゃ橋を架ける前に蜂の巣だぞ」
レオナが通信魔導器越しに問いかけると、王都の執務室から、紙をめくる静かな音が返ってきた。
『ザイードは優秀だ。だが、現場の「恐怖」まではコントロールできないらしい』
「恐怖?」
『俺の《解析簿記》には、敵の「怯えのコスト」がはっきりと可視化されている』
王都のデスクで、俺は帳簿に浮かび上がる真っ赤な数字を読み上げた。
【帝国軍・夜間照明および対空警戒:維持コスト 毎分10樽(大容量軍用規格)】
【残存魔晶燃料:推定『残り18分』で枯渇】
「毎分10樽。王都の中流貴族が一生遊んで暮らせる金額を、たった60秒で夜空に燃やしているんだ。なぜなら、一度でも背後に侵入されれば3万の補給線が完全に死ぬと、現場の将校ほど骨身に染みて理解しているからだ」
それは怯えというより、合理的な恐怖によるパニックだった。
『……なるほど。なら、敵の燃料が切れるまでこのまま待てばいいんだな?』
「いや。あと18分も待っていたら、夜が明けて架橋工事が間に合わなくなる。待つんじゃない。敵の財布の底を、俺たちから無理やり叩き抜く。レオナ、昨日渡した『アレ』を使え」
『あっははは! 了解だ! 悪党の考えそうなことだ!』
数分後。
運河を警戒していた帝国軍の対空レーダーが、突如としてけたたましい警報を鳴らした。
「て、敵襲! 対岸から無数の飛翔体が接近! 機影、およそ300!」
「なんだと!? 撃ち落とせ! ザイード殿の命令は無視しろ、ここで通せば全軍が死ぬぞ! 対空魔導砲、全門斉射ァ!!」
夜空を切り裂く数千の光条。
迎撃の魔法弾が飛翔体を次々と捉え、上空でド派手な爆発が連鎖する。
「よし、落としたぞ!」
「……ま、待て! 落ちてきた残骸を確認しろ! これは……ただの『木の板と花火』だぞ!?」
帝国兵が拾い上げたのは、廃材の木組みに「廃棄寸前の魔力炉の残滓」を塗りたくり、対空レーダーに強制的に『機甲の魔力反応』を誤認させるよう偽装した、粗末な凧だった。
***
「——10ゴルドの廃材に、1万ゴルドの対空魔法を全弾撃ち込ませたか」
王都の執務室で、俺は《解析簿記》の数字が急転直下で「ゼロ」に叩き落とされるのを確認し、口角を上げた。
「これにて、帝国軍の財布は完全に『空』だ」
その言葉と同時。
運河を真昼のように照らしていた無数の照明魔法が、魔力枯渇によって一斉にフッと落ちた。
帝国の怒号が遠のき、虫の音だけが響く完全な暗闇と静けさ。
この瞬間、戦場の支配権が俺たちに移った。
『ユージン! 敵の光が消えたぞ!』
「今だ。工兵を走らせろ」
俺が命じると、通信機越しに怒声と重機の轟音が爆発した。
『親方ァ! 敵の目ん玉が潰れたぞ!』
『おうッ! 監査官殿から「深夜残業代3倍」の確約は取ってある! 死んだら労災で遺族年金上乗せだ、書類はきっちり向こうに書かせるぞ! 死ぬ気で魔導合金を叩き込めェ!!』
治水工事のプロフェッショナルたちが、杭打ち不要の浮体モジュールを激流に次々と叩き込み、両岸から魔導アンカーで一発固定していく。
カネと生活がかかった、ドカタたちの欲望と執念の怒号。これこそが、国を動かす本当の「兵站」の音だ。
「情報将校殿! 対空陣地の燃料が枯渇! さらに運河から正体不明の重機音が……!」
「……完全に、現場の『恐怖』を逆手に取られたか」
対岸の帝国司令部。
暗闇の中で、ザイードはギリッと奥歯を噛み締めた。
だが、天才はただ絶望する男ではない。即座に通信機を掴み、怒声を飛ばす。
「照明弾はもういい! 暗闇の『音』で座標を割り出せ! 対岸の架橋地点へ重砲撃を集中し、橋脚ごと叩き潰せ!」
敵の決死の妨害砲撃が迫る中、泥と汗と数字にまみれた夜間架橋は最高潮を迎えていた。
――2時間後。
『ユージン!』
レオナの弾んだ声と共に、魔導機甲の重いキャタピラが「硬い金属」を踏み締める音が響いた。
『世界で一番高価な橋、渡り切ったぞ! 王国軍第7師団、これより敵の背後(帝国側)へ侵入する!』
「よくやった」
俺は広域戦況図の、帝国軍3万の「後ろ」に、赤いピンを突き刺した。
これで敵は完全に袋のネズミだ。
「さあレオナ、仕上げの仕事だ。明日の朝、帝国の豚共に『朝食』を食わせるな。ヤツらの全食料と水が置かれている野戦集積所を、跡形もなく焼き払え」




