ホテル代10万ゴルドの捕虜生活
「……本日の配水、完了しました。一人当たり厳密に1.2リットル。一滴の狂いもありません」
裂け海運河の東岸。灼熱の太陽が照りつける砂漠のど真ん中で、帝国軍の情報将校ザイードは、副官からの報告を聞いて重いため息をついた。
「暴動は起きていないな?」
「はい。炎天下における生存限界すれすれです。武器を握って反乱を起こす気力は完全に奪い、だが決して死なせない。……悪魔のように正確な配水水準です。兵たちは皆、給水車の前で、ただ生気のない目で順番を待っています」
ザイードは天幕の隙間から、自軍の陣地を見渡した。
3万の精鋭は、もはや軍隊ではなかった。王国軍の圧倒的な魔導砲火に囲まれ、ただ配給される水をすするだけの家畜の群れだ。
「……恐ろしい男だ、あの監査官は」
ザイードは乾いた唇を舐めた。
普通の指揮官なら、3万の敵を前にすれば力で制圧するか全滅させるかを選ぶ。だが、あのユージンという男は「命を担保にして大国を脅す」という、常軌を逸した盤面を冷徹に回しているのだ。
「し、しかし将校殿! いつまでもこんな状況が続くわけがありません! 王国の魔導炉は止まるはずでは? あの重機甲も、背後の橋も、もう動かないはずでは……!」
「……そうだな。我々の存在自体が『大国を介入させるための罠』だ。我々はここに居座るだけで、王国の首を絞めているはずなのだ」
ザイードは自分に言い聞かせるように呟き、王都へ繋がる魔導通信機のスイッチを入れた。
王国側が干上がり、悲鳴を上げる頃合いだ。そろそろ、有利な条件で停戦を引き出せるはず——。
『やあ、ザイード。砂漠の居心地はどうだ?』
だが、通信の向こうから聞こえてきたのは、微塵の焦りもない、氷のように平坦な声だった。
「強がりはよせ、王国の監査官。貴様らの物流は商業連合のルールに止められたはずだ。インフラが崩壊する前に、我々を解放し——」
『ああ、連合の件か。もう片付いた。部品は通した。外の介入も終わりだ。……お前たちを生かしておく理由も、もう整理できた』
「——は?」
ザイードの思考が、一瞬完全に停止した。
超大国の経済封鎖を、たった数日で打ち破っただと?
『外のギャラリー(大国)は退場した。さて、ずっと待たせて悪かったな。お前たちとの精算を始めようか』
「……馬鹿な。嘘だ、そんなことが」
『信じないならそれでもいい。俺はお前たちを力で排除するつもりはない。ただ、そろそろ「滞在費」を払ってもらおうと思ってな』
通信機から、チリチリと紙が転送されてくる音が響く。
ザイードの天幕にある受信機から、一枚の分厚い書類が吐き出された。
「……なんだ、これは」
『請求書だよ。お前たちが今テントを張っているその場所は、我が国の臨時演習地だ。他国の軍隊が許可なく居座っている以上、当然「ホテル代」は頂く』
【御請求書】
・臨時演習地・不法占拠に伴う遅延損害金(1日あたり)
・帝国軍3万名分の飲料水および配水監督事務費
・砂漠環境保全費および王国軍の拘束補償費
—————————————
合計:金 100,000 ゴルド(※日額)
支払期限:即時
宛名:東方帝国 遠征軍司令部 殿
「い、いちんち、十万ゴルドだと……!? 将校殿、これでは遠征軍の特別予算が数日で完全にパンクします!」
副官が悲鳴を上げる。一日滞在するだけで、前線の補給計画が根底から崩壊する天文学的な負債だ。
「……この金額は異常だ。遠征予算の想定を完全に超えている。こんな法外な請求、本国が飲むはずがない……」
『別にサインしなくてもいいぞ。……すでに「本国」へ、この借金の催告書を送付済みだ』
「——なっ!?」
『帝国国債の暴落リスクと、1日10万ゴルドの負債。これを見た帝国の政治家たちが、敗戦の責任を誰に押し付けると思う?』
その瞬間、ザイードの背筋に氷のような悪寒が走った。
帝国本国の上層部は、己の利権と保身しか頭にないタカ派の老人ばかりだ。彼らは元から、穏健派であるザイードたちを煙たがっていた。遠征失敗の責任を押しつける口実を待っていた彼らが、この「天文学的な請求書」を見たなら——。
ピーーーーッ!!
ユージンとの通信が切れた直後、今度は帝国本国からの『最高機密・緊急回線』が狂ったように鳴り響いた。
ザイードが震える手で受話器を取ると、本国の軍務大臣のヒステリックな声が鼓膜を打った。
『ザイード! 貴様、何という莫大な借金を背負い込んだのだ!! 帝国政府は当該債務を一切承認しない!』
「閣下! これは王国の罠です! 彼らは法外な請求で我々を——」
『言い訳はいい! この遠征は貴様の派閥の責任だ! 貴様に特命全権を委任する。賠償も降伏条件も、すべて現地で貴様の独断として処理しろ! この借金を絶対に帝都へ持ち帰るな!!』
ブツンッ。
一方的に通信が切られた。
本国は前線の3万を守るためではなく、借金から法的に逃れるため、ザイードの遠征軍を完全に「切り離した(損切りした)」のだ。
「……もう終わりです。我々はもう兵ではない……」
副官が絶望に泣き崩れる。
「ただの担保資産だ。あの男の帳簿の中で、永久に飼われるしか……」
「いや。まだだ」
ザイードの瞳に、再び鋭い知性の光が宿った。
彼は机の上に投げ出された「1日10万ゴルドの請求書」をじっと見つめ、ゆっくりと、不敵に口角を上げた。
「この日額10万の負債は高い。だが、使い方次第では、本国でふんぞり返っている政敵(タカ派)の首を買える」
「え……?」
「前線3万の価値は消えた。なら、『東部港湾の使用権』と『魔晶鉱山の採掘権』……タカ派の連中が握る利権の価値に組み替えるまでだ。負債を資産へ変えるのが、私の最後の仕事だ」
ザイードは天幕を出て、王国軍の陣地へと向かって歩き出した。
ただの負け犬として終わるつもりはない。敗北すらも値札に変え、帝国の未来を売り捌くために。
「さあ、最後の清算の始まりだ。帳簿の悪魔殿」




