本当の敵(2)
今でも鮮明に思い出せる。
「撰修人種には関わるな」
恩師———先生が引退を決めて、最終講義の日に控え室で私につぶやいた言葉。
今回の引退は、表向きには「十分な功績を積んだので余生を楽しむために一線を引く」ものとして報道されている。
しかし、実際には真逆だ。
撰修人種の少女を教えている。
本来なら口外厳禁の機密事項を、先生は私にだけは酒の肴に気分良さそうに話していたものだ。
「六歳だというのに、私の研究室のポスドクたちよりも遥かに飲み込みがいい。一を聞いて百や千を知るんだ。まるでツェルマットの新雪にバケツでシュガーシロップをかけているみたいだ。いくら知識を浴びせてもキャンバスの果てが見えない」
スイスの冬の名所の新雪に例えるあたり、雪山へのストイックな登山を趣味にしている先生らしいが、まるで自分の孫を自慢するような言いっぷりには苦笑せざるを得なかった。溺愛しているのが透けて見える。
しかし、そのわずか二年後に先生は引退を決意した。
理由を尋ねると、震える声で先生はこう言った。
「……八歳だぞ。八歳の少女に、私が十数年かけて組み上げてきた仮説の穴を反論の余地もなく証明されたんだ。いや、それだけならまだ良かった。あの子は、私の誤りを訂正した上で、私が残りの人生をかけて取り組もうとしていた予想を、目の前で解いてしまった。
それも、わずか二ヶ月で———」
おぼつかない手できついアブサンを煽る先生の目は、自分自身の存在理由を見失った色をしていた。七十手前の大成した人間とは思えないほど弱々しい。
そして、引退から三ヶ月ほど経った冬のある日、私は先生の訃報を聞いた。
雪山で滑落して死亡。
ノーベル賞受賞者の死亡事故は一時的に紙面を賑わせたが、すぐに忘れ去られた。一切の事件性がなく、エンターテインメントにはなり得なかったからだ。晴天だったのに足を滑らせるなんて不運な事故だった。そんな総評で幕を閉じた。
しかし、世界中で私だけが直感した。
雪山で滑落? そんなはずはない。自殺だ。
ありありと想像できる。
美しい銀世界と真っ青な空を前にして、ふっと心が軽くなる。
そうして、一歩だけ、足を前に———
***
かすかな絶叫が聞こえた。
「ハルキ———!」
ガラスケージの中から、リゼの精一杯の悲鳴が小さく地下に反響していた。
「がっ……は……」
ぐしゃりとその場に倒れ伏すハルキ。
深々と腹部を貫かれて、その場に立っていられる人間などいるはずがない。
「残念だが、これで終わりだ。その傷ではまず助からない。
適切な治療を受ければ別だが。邪魔立てしないなら手当はしてやろう」
リョウジが億劫そうに呟くのを耳にしながら、ゆっくりと世界が自分から遠のいていくのを感じる。
(……ここまで……なのか……)
フェードアウトしていく視界。やがて目を開けているのか閉じているのかさえ区別できなくなって、リョウジとリゼの姿がどんどん小さくなっていく。
(まだ、まだだ……でも、力が入らない……)
心の奥で燃えたぎっていた灯火が、わずかずつ勢いをなくしていく。
このままでは、消えてしまう。
魂の炎が。決意の咆吼が。
『———諦めないで。あなたは、当機が守ります』
思考の海に浮かんだ言葉。恐ろしくも頼もしい、その声。
『胴体に致命的損傷を検知。緊急処置開始。全力稼働。
戦闘時のため、行動可能状態への復帰を最優先。生命維持に全リソースを投下。
痛覚遮断。強制止血……完了。損傷組織の代替処理を開始……継続。皮膚、真皮、皮下組織、血管の強制接合を開始……完了まで二分。暫定処置を並行実施。血液凝固完了。
———行動可能です。乖離指数、百九十八』
はっと我に返った。手足に力が入ることに気が付く。
「———ぐ、ぎぎぎがあああぁぁぁぁっ!」
歯を食いしばりながら、両腕で上体を起こして四つん這いになる。そのまま勢いをつけると、無謀にも立ち上がった。
盛大に膝が笑っているが、それでもたしかに二本の足でしっかりと立っている。
「死なない……。死ねない……。助けるって、約束したんだ……!」
腹をえぐり取られたハルキが地に伏して、立ち上がろうとして、そして立ち上がってくるまでの一部始終を、リョウジはじっと観察していた。
「……馬鹿な。たしかに胴体を貫いた。それなのに、なぜ立ち上がれる?」
ありえないことだ。腹部を派手に貫かれて身動きできる人間はいない。
それどころか———目の前の少年は、大穴が空いているはずの腹部から出血すらしていない。衣服はしっかりと破れているにもかかわらず、だ。
このわずか数秒で傷をふさいだことになる。
そんな神業のような回復手段は、実在していない———現時点では。
しかし、それを覆す可能性が、ひとつだけ。
「———アンブロシアか?
しかし、アンブロシアはまだ試験製造すらされていない……どういうことだ」
それは、リョウジが消去法で導くことができる、唯一の選択肢だった。
「アンブロシア……? グリーフ・ブレイカーのことか?」
ハルキにとっては未知の単語だったが、グリーフ・ブレイカー自身の言葉でその意味を知る。
『アンブロシアは、当機の開発プロジェクト名です。グリーフ・ブレイカーは、藤原利世が当機を自家製造する際に独自に名付けた、ブランチネームおよび個体名です』
古武術零式といいグリーフ・ブレイカーといい、リゼのネーミングセンスに疑問を抱きながらも得心する。
吐き捨てるようにリョウジに告げる。
「まだ試験製造すらされてない、って言ったな。リゼが自分で勝手に作ったって教えてくれたよ。あんた、リゼに信用されてなかったんじゃないか?」
ここまで来れば隠し通せるものでもない。しかし、これでグリーフ・ブレイカーを投与されていることに気付かれていない、という小さなアドバンテージを失ってしまった。
「……そうか。プライベートラボの貧弱な設備でそれを作り上げたのか……。
藤原君には相変わらず驚かされる。理論上、大規模なプラントがなければ製造できないはずだったんだがな。それどころか、君を見る限り本来の設計スペックを遥かに超えている。それほどの再生能力は仕様にはなかった。斥力場自由制御機構を使いこなしているのもアンブロシアの効用か? 何にせよ、あきれるばかりだ」
リョウジは嘆息すると、両腕を左右に広げて大きく振りかぶった。
「———だが、簡単には倒れないというなら、倒れるだけの力をぶつけるまでだ」
そうして勢いよく両手を前に突き出す。
槍が、空に生えた。———無数に。
ただの一本でさえ防御しきれなかった矛が、ハルキの視界を埋め尽くさんばかりの勢いで生産されていく。
リゼがへたり込んでいるのが見えた。斥力場は彼女には見えていないだろうに、それでもリョウジが本気になったことを察したのだろう。
ハルキが死んでしまう。そう思っているに違いない。
「———倒れないさ。絶対に」
臆する気持ちに蓋をして、決意を口にする。
そうだ。これまでだってそうしてきた。
前に進め。止まるな。
イメージが力を生み出すというなら。
敗北のイメージの悉くを塗りつぶせばいい。
この体は、リゼが造り上げた無敵の鎧に守られている。
死を乗り越える力。ヒトの範疇を逸脱した生存本能と再生能力。
いかなる攻撃を受けようとも、この命が尽きることは決してない。
これまでも、そしてこれからも。
「力を貸せェェェェェェ! グリーフブレイカァァァァァァァァァッ!」
『了解。クロックリミッター解除。
grief breaker rampage、
———オーバードライブ』
膨大な斥力場が励起され、暴風が巻き起こる。
片腕を軽く振るうだけでジャケットさえも粉砕できるだろう。
足を踏み出せば、音速にさえ届くに違いない。
初めて扱うはずの絶大なる力。それなのに、まるで手足のように馴染んだ。
訓練など受けていないただの学生が、不思議と『魔法』を使いこなそうとしている。
(……ようやくわかった。俺は、ただ人間から離れていっているんじゃない。
生き残るために、この身体は変化を———進化をしているんだ)
この身体は、斥力場自由制御機構という異物さえも飲み込んで、生き延びようとしている。
ゆえに、見えている。
飛来するすべての槍の弾道が。
どこに体を投げ出せば避けられるのか。あるいは最小のダメージで済むのか。
残念ながら、あの痩躯の研究者を打ち倒す未来は見えない。
しかし、生き残るために何をすればいいのかだけは、はっきりと知覚できる———
「うおおおおおおぁぁぁぁっ!」
槍が発射される前にスタートを切る。それが最善。そうしなければ死ぬ。
「———来るか!」
己の腹を貫いた槍を無数に並べられて、それでもなお突っ込んでくるハルキに気圧されて、リョウジが一瞬だけ怯む。
しかし次の瞬間には、不可視の槍の雨がハルキに向かって降り注いだ。
(数えるのも———馬鹿らしいな!)
斥力場を足場にして、空を走る。キョウヤがそうしていたように。
斥力場を盾にして、刃を逸らす。ミサキがそうしていたように。
正面から押しつぶそうと、側面から貫こうと、背面から回り込もうとするリョウジの猛攻を、すんでの所で躱し、逸らし、叩き折り、弾き、踏みつけて前に進む。
リョウジも攻撃の手を休めない。距離を詰めようとするハルキを押し返そうと、四方八方から、あるいは上方から、下方から、翼手を走らせる。
獲物を見つけた何十、何百もの大蛇が同時に襲いかかってくる。その牙は鋭く、ひとつでも突き刺されば動きが止まり、蜂の巣にされるのは免れない。
「くそっ! 数が———さばき切れない!」
空中でバックステップを踏んで、迎撃できなかった槍を躱す。
リョウジが両手で虚空を上下左右に撫でるたび、槍の雨が弾道を変えてハルキを追いかけてくる。時に緩慢に。時に俊敏に。フェイントを交えながら、しかし確実な害意をまとって。
空間に飽和した槍が雪崩のように襲ってくる限り、リョウジに肉薄する手段がない。
まさに攻撃は最大の防御という格言を体現している。
(なにか、なにか手は———!?)
ハルキの焦りに呼応するようにグリーフ・ブレイカーが静かに叫ぶ。
『———解析完了。西園寺の槍はこちらの斥力場の固有波長変動に追従することで力場に干渉し貫通力を高めています。
暫定対応策を実装中……完了。固有波長変動を一時的に欺瞞します』
「もっと、わかる、ように、言えぇぇぇっ!」
曲芸師のように飛び跳ねながら文句を伝えると、相棒が心強く答える。
『数秒であれば、斥力場で槍を受け止められます』
「最初から、そう言ってくれ!」
即座にハルキは体を切り返した。リョウジの左側面に向かって曲線を描きながら突っ込んでいく。上下に槍を回避しながら、しかし今度は一方的に距離を詰めていく。
近づけば近づくほど攻撃の密度は高まる。
だからこそ近づけずにいたのだ。しかしその事実を差し置いて、ハルキは突進する。
その好機をリョウジが逃すはずがない。
「愚かな」
とでも言いたげな表情を浮かべて、リョウジが自らの両手を中空でバチンと合わせた。
———来る。
獲物を一飲みにしてしまう、巨大な龍の顎。
無数の槍が、ハルキを挟み、囲んでその口を閉じようとしている。
ハルキはその中に飲み込まれ———その直前に、全力で正面に加速した。
「いっけえええええええええええ!」
「———なっ?!」
さしものリョウジも、反応が遅れた。
最大密度の攻撃を繰り出した瞬間、そのど真ん中を目がけてわざわざ敵が飛び込んできたのだ。
ハルキは龍に丸呑みにされ、無数の槍が四方八方から斥力場を突き刺す。
それでもハルキは歩みを止めない。
ほんの数秒なら耐えられる。グリーフ・ブレイカーのその言葉を信じて。
(活路は———正面にしかない!)
ハルキにも勝算があった。いや、『見えて』いた。生き残るための唯一の筋道が。
そこは、唯一、リョウジの攻撃の密度がわずかに『薄い』。
(俺みたいに跳んだり跳ねたりする相手を遠くから狙うのは、姿がしっかり見えていないと難しい。だけど、視線の真正面に大量の力場を展開すると、知覚した力場が邪魔で相手を———俺の姿を認識しづらくなる。
だから———)
「どうしたって真正面は、わずかに攻撃が薄くなる———そうだろォォォッ!」
腰だめから右の拳をまっすぐに突き出して、力任せに力場をたたきつける。
そして龍の喉を———食い破る。
「信じ、られんッ!」
リョウジの表情が驚愕に歪む。
天と地ほどの実力差を覆し、たった一筋の活路を———それも「まっすぐ死地に飛び込む」というおよそ考えられない方法で———切り開いて、ハルキがリョウジに肉薄する。
「ぶっ飛べえええええええええええええええええッ!」
「ぐっ!?」
ハルキが斥力場をまとったまま突っ込んでくるのを、リョウジは咄嗟に盾を展開して受け止める。
両者の斥力場が、衝突する。
「やはり、出力がさらに上がっている! 君は———!」
「まだだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ハルキは、自分の体を斥力場で後ろから押し込む。内臓と骨格が悲鳴を上げるが、構わない。中身が潰れてしまってもいい。
リョウジの守りをたった一度貫くことができるなら、この体を生け贄に捧げる。
「うおおおおおおおおおっ?!」
叫び声とともに、リョウジがさらに槍を展開する。
五本の槍がハルキの斥力場に突き刺さる。
『防御限界———三』
カウントダウンが始まった。ゼロになれば槍に貫かれる。
「いけえええええええっ!!!!!」
渾身の力を込める。噛みしめた奥歯が砕ける。
しかし、それでも。
『二、一———ゼロ』
ハルキは、届かなかった。




