新たなる力(1)
トレーニングルームに、規則正しいリズムが響いている。
「はっ! はぁッ! しっ! せいっ!」
我ながら、今のは渾身の右ストレートだった。
「へえ。ハルキ、見違えたじゃない。腰が入った、いいパンチだった」
ミサキは賞賛の言葉をかけながら、全力で打ちこんだはずの一撃を苦もなく躱す。
後ろに下がって避けるわけでもなく、大げさに体を振って軸を外すわけでもない。ほんのわずかの足のステップと最小限の体幹の動きだけなのに、まるでハルキの拳が自分からミサキを避けているように見える。それでいて、いや、それだからか、彼女の呼吸は一切乱れていない。
「しっ、しっ、はぁッ! ———だぁーっ!! 当たらないっ!」
まじめにやっている。やっているのだが、本当に一発も、かすりさえしない。
これでもう何度目になるだろうか。数える意味がなくなってしまうくらいには、この場所でミサキ相手にスパーリングの真似事をくり返してきた。それなのに、初回に不意を突いて一撃を見舞った(そして手ひどい反撃を受けた)ときを最後に、ハルキは一度だってミサキの体に触れられたことがない。
「そう腐らないの。確実に上達はしてるわよ? 今だって、そのあたりの悪ガキに絡まれたって勝て———ボコボコにされない程度には強くなってる。自信を持って」
「そこはお世辞でも勝てるって言ってくれていいと思うんだけどな?」
「おだてると調子に乗りそうなんだもの」
ミサキは柔和な笑みを浮かべると、タオルを取ってわずかに滲んだ汗を拭った。
対するハルキはその場に大の字になって寝転ぶと、天井を見上げた。
(疲れた。これだけ動いたんだから、それなりに疲れた……はず、なんだけどな……)
ほんの数秒前まで激しく乱れていたはずの呼吸はすでに整っており、指先までじんじんと感じられた心臓の拍動はどこかに行ってしまった。まるで、最初から運動なんてしていませんでしたと言わんばかりに、わずかな時間で平常運転に戻っている。
人間離れしつつある。その自覚がよみがえる。
暗闇から得体の知れないものが這い上がってくる恐怖———
「はい。ぬるくなってるけど」
ミサキが差し出したスポーツドリンクを寝転がったまま受け取って、起き上がって一口だけ飲んだ。
———美味い。いまのところ、五感に影響はない。安堵する。
「どうかした? 倒れ込むほど動いたとは思わなかったけど」
「いやぁ、ミサキにきれいに一発当てたときみたいにはいかないもんだなと思ってさ」
恐れをごまかすつもりで自嘲してみただけだったが、ミサキは驚いた顔をすると、両腕で胸元を隠しながらじとりとにらみ付けてきた。
「……ずいぶん必死に打ちこんでくると思ったら、そういう目的だったの?」
ミサキの態度と「そういう目的」の意味がわからず困惑したものの、胸元を隠す仕草から、ふと『ミサキにきれいに一発当てたとき』にどこに当てたのかを思い出して———
「待て! そういうつもりじゃないからな!? 一回目のアレもただの偶然で!」
たしかに初回、ズルをしてミサキの柔肌に触れた———ような気がするが、グローブ越しで感触はわずかしかわからなかったわけで———いや、正直に言えば若干そういう目的もあったりなかったりして気合いが入っていたのかもしれないが、いずれにせよ言葉が足りなかった。
慌てて弁明を、
「———なんて、冗談よ。はいはい、当てられるものならいくらでもどうぞ。ま、一年もやってれば一度くらいはまぐれ当たりするんじゃない?」
などと、いつもの調子に戻るミサキ。言わせておけばと思うものの、「では遠慮なく」と跳びかかったところで痛い目に遭うに決まっている。ライフル片手に生身でジャケットにケンカをふっかける方が、まだ勝算がある気がする。
「……なぁ、ミサキがそれだけ鍛えてるのって、やっぱり人体機能付与型ナノマシンを使うのに強くないといけないからなのか?」
かねてからの疑問だった。人体機能付与型ナノマシンの使い手をミサキとキョウヤの二人しか知らないが、ミサキはもとより、キョウヤも高い格闘センスを持っているように見えたからだ。
「今さら妙なことを聞くのね。んー、そうね。半分は正解で、半分は違う、かな。
生身で強い方が有利にはなるけれど、それだけでトータルの強さは決まらないし、場合によっては生身の強さが足枷になることもあると思う。
私も最近、考えが少し変わったんだけどね」
「……もう少しわかりやすくなりませんか、ミサキ先生」
出来の悪い生徒を前に、ミサキは「しかたないわね」と居住まいを正して解説を始める。
「いい? 人体機能付与型ナノマシン———というより、斥力場自由制御機構の力を使うには、イメージがとても大切なの。
たとえば、ハルキはこの建物の壁を殴って破壊する具体的なイメージを持てる?」
「……うーん、できる気もするし、できない気もする。バァーンととんでもなく強い力をぶつけたら壊れるんだろうけど、具体的なイメージって言われると……。そもそも、何がどうなったら具体的にイメージできている、と言っていいのかがわからないぞ」
「ま、普通はそんなもんよね。でも、それだと斥力場自由制御機構の力を強く引き出すことはできない。どれくらいの大きさの力を、どんなカタチで発動するのか。そのイメージが正確でないと、上手くコントロールできないのよ。
ハルキには想像するのが難しくても、私はこの壁を『抜く』イメージを何通りも思いつく。はっきりとね。
でも、私だって最初からそうだったわけじゃない。
斥力場を自分の手足の延長として捉えられるくらいに慣熟して、ようやく意のままに操ることができるようになるの。でも、そのためには自分の手足自体を上手く扱えないと話にならないでしょう? だから、自分自身を鍛えることは適応者として重要な要素になる」
「なるほど? 自分のからだの動きに発動したい力のイメージを重ねて使う感じなのか」
たとえば、ケンカ慣れしていないと「どれくらいの力で殴ったら相手がどんな風になるか」は想像がつかないし、「どれくらい力を入れたら人体を破壊できるか」も詳しいイメージが湧かないだろう。「ものすごく強い力」というぼんやりしたイメージでは不足していて、発動したい力の大きさとカタチ———力のカタチという言葉が上手く飲み込めないが、ともかくそれらをはっきり知覚する必要があるようだ。
手足の延長と言うなら、たしかに自分自身を鍛えておかないと上手く扱えそうにない。納得できる理論だ。
「———そんな風に理解していたんだけどね。どうも、それだけじゃないみたい」
思わずずっこける。せっかくもっともらしい理屈を理解できたつもりになったのに。
「思い出したくないでしょうけど、思い出して。ハルキを連れ去ったあの少年、どんな風に戦ってた?」
「どんな風って……とにかくすばしっこくて、目にも留まらない速さで、それこそ重力を無視して四方八方を跳び回るみたいに———うん? 待てよ。空中を蹴って移動してたよな?」
「あら、思ったより察しがいいのね。おかしいと思わない?」
ミサキの言うように、「鍛え上げた手足の延長として具体的なイメージを持つことで斥力場を操る」のだとしたら、どうにもおかしい。
「いくら身体を鍛えたところで、人間は何もない空中で跳んだりできないだろ。
空中でジャンプできるって人間が確信するのは……かなり難しくないか?」
「難しいでしょうし、私には無理でしょうね。手足の延長として斥力場を捉えてしまっているから、空中で跳躍するために必要な力のかけ方が想像できない。
でも、彼は違った。空を駆けた。
私は教練で斥力場自由制御機構の使い方を学んだけれど、きっと彼は異なる理論体系……ううん、理屈ではないナニカで斥力場をコントロールしているんでしょう。
だから、最近ちょっと考えを改めたの。
鍛えておくに越したことはないけど、そんな理屈に———常識に縛られていたら、本当に大切なことを見失うってね」
そう言ってミサキは笑った。理由はよくわからないが、つっかえていたものが吹っ切れたような快活な笑顔だった。
「これで疑問は晴れた?」
「おう。なんとなくわかった気にはなったよ。サンキュー、ミサキ先生」
「もう。赤点の生徒はグラウンド三十周です」
ミサキに肩を小突かれて、二人で笑い合う。
夕暮れ時。
諦めの悪い夏の日差しが食い下がり、室内に差し込む。
ミサキが正拳を振るうと、長く伸びた彼女の影もそれを真似する。
彼女自身の訓練が終わるまで、ぼんやりとその光景を眺めていた。
見られていることを嫌がる風でもなく、ミサキはごく自然にルーチンをこなす。
揺れるポニーテール。汗に濡れた肌。真剣な眼差し。
これは、数日前の記憶。
戦場に放り込まれるなんて、誰も想像していなかったときの出来事。
平和で、穏やかで、かけがえのなかった時間。




