しだれ桜と涙ふたつ(7)
花火から帰ってきて、時刻は午後十一時過ぎ。
ハルキはシャワーを浴びて、病棟のロビーのソファで涼んでいた。
手を握ったり開いたりしてみると、リゼの手のひらの感触がうっすら残っている。
(喜んでくれたみたいで、良かった……)
そのまま花火の余韻に浸っていると、珍客がやってきた。
「おつかれー!」
パーカー姿のホノカだ。
髪の毛は頭の上でお団子にまとめている。風呂上がりというわけではないようで、まだメイクは落としていない。部屋着なのだろう。スーツを着ている姿しか見たことがないので、新鮮に映る。
「リっちゃん、楽しんでたー?」
「はい。楽しんでくれたと思います」
何物にも代えがたい笑顔を思い出し、自信を持って答えられた。
「そっかー。それはよかったー。じゃ、ハルくんはー? 楽しんだー?」
言いながら、ホノカはハルキの隣に遠慮無くどっかりと腰を下ろす。
「ほら、ハルくんも外出って滅多にないからさー。楽しかったならいいんだけどー」
「そりゃ、もちろん。花火も特等席で見られたし、おもしろかったですよ?」
素直に答えたつもりだったが、ホノカはなぜか納得していないようで、眉間にしわを寄せてじっと観察しながら、何かを値踏みしている。
いったいどうしたのかと不審に思ったところで、ぽつりと、ホノカが呟いた。
「……ハルくん、ずっと無理してるよね?」
「はい?」
不意打ちだった。そんな質問が来るとは思っていなくて、返答に詰まる。
無理。
無理は、していた。
「……突然、何です? 無理なんてしてませんよ?」
想いとは裏腹の言葉が勝手に出て行く。
「やだなぁ。ホノカさん、どうしてそんなこと聞くんですか」
ホノカと目が合う。柔らかい眼差しを向けられている。
その瞳が、心の柔らかいところに触れてくるような気がして。
「…………大丈夫ですよ。ほんと、大丈夫、なので……」
言葉が、出なくなった。目をそらして、中空を見つめる。
胸の奥底から、ぽこぽこと小さな音を立てて、ずっとしまい込んでいたものが湧き上がってくる。息を止めて、ぐっと押さえる。
それを知ってか知らずか、ホノカがぽつぽつと言葉をつなげていく。
「ハルくん。ここに来てから、ちゃんと泣いた?」
———泣いていない。一度だって。
「人間じゃなくなっていくなんて言われて、不安じゃないわけないよね。
辛かったら、泣いていいんだよ?」
———泣かないと、決めている。
「リっちゃんに気を遣って、ずっと我慢してるでしょう? 知ってるんだぞ?」
すらりと伸びた細い指に、頭を撫でられる。
驚いて振り向くと、ホノカはにっこりと微笑んでいた。
胸が、苦しくなる。
冷たくて、きりきりしたものが喉元にせり上がってくる。
「リっちゃんもサキちゃんも、真面目だもんね。ハルくんが泣いたら、自分たちのことを余計に責めるって思ったのかな。周りをしっかり見ていて、えらいね」
歯を食いしばる。
ぐらぐらとあふれ出しそうになる感情を無理やりに押さえつける。
「ここには、わたしと、ハルくんしかいないよ。
———お姉さんでよければ、胸を貸すぞ?」
ゆっくりと、抱き寄せられた。
「あ———」
温かなものが、するりと頬を伝う感覚があった。
一雫の涙が、知らぬ間にこぼれ落ちていた。
肩から力が抜けていく。
「……あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ———!」
嗚咽が、叫びが、痛みが、あふれた。
ホノカの温かさが、堰き止めていたすべてを引きずり出していた。
「うん。泣きなさい。そんなに大きなものを、独りで抱え込んだら、だめだよ。
わたしも、リっちゃんも、サキちゃんも、トマちゃんも、イオちゃんも、きっとアーちゃんだって、一緒に背負ってあげられるから。頼って。ね?」
抱き留められたまま、背中をさすられて、何度も優しい言葉をかけられる。
———どれくらいの時間そうしていたのか、よくわからない。
「……もう、大丈夫、です」
浮かび上がってくるものが無くなって、声も枯れ果てた頃、ホノカに問いかけられた。
「本当のこと、知らないままの方が良かったって、思う?」
もし、人ではなくなりつつあると知らないままだったら。やっぱり不安ではあっただろうけれど、きっと今よりは気楽に過ごしていただろう。
「……少しだけ、思ったことはあります。でも、今は後悔していません。
だって、あのときリゼを捕まえて話していなかったら、リゼのこともずっとわからないままだっただろうから。
俺なんかより、リゼの方が、よっぽど辛い目に遭ってます」
リゼの孤独を、少しだけ知った。彼女が孤独をひどく恐れていることも。
どうすれば、贖うことができるだろう。救うことができるだろう。
わからないけれど、せめて、彼女には涙を見せたくない。
「だから、泣かない?」
「はい。もう泣きません。ありがとうございました」
「そっか」
ホノカはそっと体を離して、ソファから立ち上がる。
「でもね、折れそうになったら、折れる前に、言ってね?」
「……はい。そうします」
その答えに満足したのか、ホノカはくるりと回れ右して歩き始めた。
「それじゃ、おやすみー。またねー」
その背中を見送って、無数の涙の跡を指で拭う。
「こんなに泣いたの、何年ぶりだろう……」
独り言は、夜の静けさに溶けて、消えた。




