天岩戸の向こう側(10)
「やれやれ。ふがいないな。二杯ずつでノックアウトか」
リョウジがバーテンダーに頼んで薄手のブランケットをホノカの肩に掛けている。さりげなく気遣っているのが少し意外だったが、よくよく見ると、彼の左の薬指には銀色のリングが鈍く光っていた。
(え、既婚者だったのか。いったいどんな人が奥さんなんだ……?)
失礼な感想だとは思ったが、紳士的な行動には納得がいった。
席に戻ると、彼はテーブルの上に残ったウイスキーソーダ割りを飲むのを再開する。どうやら最初に飲んでいたのも、ハイボールだったようだ。
酒が入って饒舌になっているのか、トマスもホノカも寝入っているのに、リョウジはぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「この店をラボ内に招致したのは私でね。職場の近くに馴染みの店があった方がいいだろう?」
「はぁ」
そう言われても、働いたことがないので、その良さがいまひとつわからない。
「面倒な年寄りと一緒になったな、と言う気持ちが露骨に顔に出ているぞ。まぁ、私も君くらいの年のころには同じことを思っていたが……」
(あっ! 言われてみると、たしかにこのおっさんとサシだ!?)
年の頃、四十台半ばかそれ以上の、しかも酔っ払った偏屈そうな男とサシで会話するのは厳しいものがある。
「このところ年寄りどもの世話に手を焼いていてね。今日は私が年寄りを演じてみるとしよう。年の離れた相手と話すこともそうないのでね。……あらかじめ答えておくが、藤原君はカウント外だ」
挙げ句の果てに、面倒くさい年寄りをやるぞ、と宣言される。
リョウジはバーテンに声をかけると、何か飲み物を頼んでいる。小さく「アイスティー」と聞こえたので、ハルキの分だろう。
「さて。そうは言っても君と話せそうな話題となると限られるか。
———そうだな。撰修人種についてどう思う?」
突然ハードな質問をふっかけられて、オレンジジュースを飲もうとしていた手が止まる。
リョウジの目はいたって真剣で、若者だからといっていい加減な問答をしようという雰囲気には見えない。真面目に答えるべきだ。
「……このラボに来るまで、ほとんど意識していませんでした。でも、今はリゼを見ていて、やり場のない怒りのようなものを感じます」
リョウジにとって満足のいく回答だったようだ。眉間に親指をあてて内容を吟味している。
「意識していなかった、か。長年の思想教育が実を結んでいるな。怒りを感じるというのは、どうしてだ?」
問われるまでもない。
「リゼは、もっと自由に生きられた方が幸せだろうと思うからです。彼女がここに閉じ込められているように思えて……。
どうして、手編みが、リゼみたいな子が存在するんでしょうか」
その質問に、リョウジは即座にホロを展開して中等部の教科書の一節を開いた。暗記でもしているのか、検索を使ったようには見えなかった。
「この通り、教科書には『撰修人種は数々の社会的問題を解決するため、各国が協力して生み出した科学の申し子』と書いてあるだろう?」
それは知っている。リゼと出会って、改めて教科書を読み返したから。
「知りたいのは、リゼたちがいる『理由』ではなくて、生まれた『経緯』です。調べてみても、何が本当なのかよくわからなくて」
「……どうやら興味がありそうだな。いいだろう。特別講義だ。と言っても私の専門ではないが。聞くかね?」
頷いて、先を促す。
「これは、あくまでひとつの学説に過ぎないという点は最初に断っておく。私も証拠を見たことはないし、アカデミアでも主張はまとまっていない。
君も知る通り、汎用高度人工知能の暴走が原因で世界経済と地球環境が破壊されつくしたのは、もう百年以上も前の話になるが……人類は、荒れ果てた世界を再び軌道に乗せるために長い時間を要した」
ここまでは、一般常識の範囲だ。
「そんな、世界中が地獄の底にあった時代、『どこかの国』が、起死回生の手段として撰修人種を生み出した。人工知能に頼れないなら身代わりとして超人を生み出そうという、子どもじみた、それでいて現実的な発想だ」
さきほどの教科書の内容とあまりにもかけ離れているので、さすがに質問せざるを得ない。
「各国で力を合わせて生み出したんじゃ、ないんですか?」
リョウジが勢いよく酒をあおる。
「そんなわけがあるものか。当時の倫理観から言って、先進国でヒトゲノムを改変して新人類を生み出そうなんて公言しようものなら、政権転覆必至だったはずだ。間違いなく、最初はどこかの独断によるものだ。人権意識や倫理観が希薄だった国だろう。地理的には、アフリカか中央アジアのどこかだろうと推測されている。
教科書の記載は『新人類の運用ルールを各国で力を合わせて制定して、それ以後に誕生した新人類を撰修人種と呼ぶようにした』という詭弁だ」
たしかに、その解釈なら教科書の記載も嘘にはならない。一方で、都合の悪い事実を隠そうとする意図が見える。
「新人類を生み出した国は、結果として加速度的に復興した……はずだ。そして、他国からその理由を追及され、ついに禁忌の人造人間を生み出したことを自白した。
国連からすぐにやめるように通達されたが、あろうことか、その国は各国に製造技術を裏ルートで開示した。どうしても彼らには新人類が必要だったんだろう。やめない代わりに、使いたければ他国も好きに使えばいい、という交渉カードを切ったわけだ。
そうして、いくつかの国が秘密裏に製造を試みた。あとは麻薬のようなものだ。気が付けば、禁忌だったものが各国の屋台骨になり、民衆はそれを知らされないまま復興の恩恵にあやかっていった」
「そんな、非道な……」
足元がぐらぐらする感覚に襲われる。
この社会の地盤を支えているものがどれほど危ういものなのか、計り知れない。
「人類が引き返せないところまで来て、彼らの存在がようやく公表されたのがおよそ六十年前だ。とんでもない騒ぎになったようだが……私が子どもの頃にはまだくすぶっていたな。
断っておくが、私は若返りや延命の措置は取っていない。今年で四十七だ。そう昔の話でもないだろう?」
ちょうどその頃、バーテンダーの手で、テーブルに新しい飲み物が置かれた。リョウジが頼んでいたものだ。アイスティーに見えるが、今は口をつける気にならない。
「……教科書や公の場所に今の話がほとんど出てこないのって、やっぱり、隠蔽ですか」
「人民を統制するための必要悪、というものだ。おかげで君は『気にしなくても快適に生きてこられた』んだろう?」
そう言われてしまうと、二の句を告げない。
「はたして、撰修人種は本当に人類だと言えるだろうか? これもよくある謎かけだがね。愚問だ。彼らは間違いなく人類だよ。
なぜなら、撰修人種が『人類の限界』を規定するからだ。あらかじめ人類の定義が厳密に定まっているわけではない。逆だ。撰修人種が生み出されるたびに『人類』の定義が広がる。
彼らがいかに人間離れしていようとも、人間だと認めなかったら薄氷の上にある私たちの倫理観が水底に没してしまうからな。愉快なパラドックスだとは思わないか?」
不敵な笑みを浮かべるリョウジ。ふいに不快感を覚える。
「リゼの力を利用している立場で、その言い方はないんじゃないですか」
ハルキが拳を握りしめている様子が見えたのか、リョウジはわずかに姿勢を正した。
「たしかにその通りだ。お詫びしよう。ただ、これはある種の藤原君へのひがみみたいなものだ。容赦してもらえるとありがたい」
「ひがみ?」
意味が飲み込めない。誰が誰にひがむようなことがあるのか。
「知っているか? はるか昔はノーベル賞が研究者にとって最高権威だったそうだ。今では凡人の学芸会などと世間に揶揄されているがね。
今も立派な貢献をしている受賞者は多いが、すべて藤原君たちの影に隠れてしまう。そして、撰修人種はノーベル賞なぞ眼中にない。私たちにとっては未だに高嶺の花なのだがな」
はっとする。
西園寺了嗣はこのラボの副所長で、初対面のときアーニャが『博士』と言っていた。つまり、彼もまた研究者である。その上、四十台半ばで要職に就くと言うことは、間違っても凡庸な人間ではないと伺い知れる。
(そうか。この人は、俺たちの側にいる『天才』なんだ……)
撰修人種よりも、自然発生する天才の方がまだしも出会う確率が高い。これは、まさにそんな出会いだった。




