天岩戸の向こう側(6)
中央棟の二階。入り組んだ廊下の奥。
トマスと作戦会議をしたとき「ここに侵入するのは無理」と結論づけた、リゼの部屋。
リゼに連れられて中に入ると、まるで病棟の医務室のような設えになっていた。
少し大きめのデスクと、まるで入院患者が使いそうな鉄パイプでできたベッドに、その脇に置かれた冷蔵庫。お湯を沸かすポットも置いてある。あるものと言えばそれくらいだ。
ただ、ひとつだけ異質なものがあった。ベッドの上に、大きな熊の人形が座っている。小さな子どもくらいの大きさの、抱き枕にちょうど良さそうなものだ。
「そこ、座って」
リゼが指さしたのは、ベッドの縁だった。椅子はリゼがいま座っている一脚しかないらしい。遠慮がちにベッドの端の方に座る。
「ハルキ。自分の記憶、どこまで見た?」
唐突なリゼの質問に一瞬面食らうが、もう慣れている。意図は理解できた。
リゼの質問の意図は、『ハルキとリゼの命は等価』という、扉越しに交わした言葉の確認だ。彼女がその言葉を口にしたのは、きっとグリーフ・ブレイカーを投与する直前の、あのときだけだったのだろう。それで、どうして知っているのかと問われたのだ。
「イオリさんの協力で記憶に潜行して、グリーフ・ブレイカーを打たれたときのことを思い出した。『等価』ってのは、それで知ったんだよ。
まず、お礼を言わせてくれないか。詳しいことはわからなかったけど、リゼは、何かとんでもないリスクを抱えてまで、俺を助けてくれたんだよな。ありがとう」
リゼは首をぶんぶん振って否定している。
「最初に助けられたの、リゼ。ハルキ助けるの、当然」
「そうかもしれないけど、でも、やっぱりちゃんとお礼を言っておきたかったんだよ。友だち、なんだからさ」
友だち、という言葉を強調して伝えると、リゼは照れたのかうつむいてしまった。
「でもさ。だからこそ、本当のことを知りたいんだ。
機密指定レベル九の何かが俺の体の中にあるんだろ? きっと、俺の怪我がすぐに治ったこととも関係があるんだよな? ナノマシンだと思ってたアンプルが生理食塩水だったのも、そうなんだろ?」
リゼはうつむいたまま、黙っている。
「ひとりで抱え込まないでくれ。目の下のクマも、グリーフ・ブレイカー絡みなんじゃないのか? 力にはなれないかもしれないけど、俺の体のことでもあるんだから、せめて、一緒に悩ませてくれないか」
伝えたいことは、これだけだった。
もし、これでも何も話さないとリゼが決めてしまっていたら、それ以上は問いただすのを止めようと思っていた。リゼの覚悟は、それほどのものに思えていたから。
ぽたり、ぽたり。
水滴がチェアの座面に落ちる音がして、はっとする。
「……泣いてるのか」
彼女の肩は小さく震えていて、まるで怒られて泣き出すのを必死に堪えている幼子に見える。
「ごめん、なさい。ごめん、なさい。ハルキ、ごめんなさい」
泣いている理由はわからないけれど、彼女が本気で、心から後悔していることだけは伝わってくる。
顔を上げたリゼの目は充血していて、頬にはいくつも涙が流れた跡があった。
「ハルキ、日常に返したかった。これ以上、巻き込んで、辛い目、遭わせたくなかった。リゼ、会わない方がいい。そう考えた」
涙声で、しゃくりあげながら、ひとつひとつ説明していくリゼ。
「もし、ハルキ、本当のことを知って、そのこと、わかったら、記憶、消される、かも、しれない。機密指定レベル九、その可能性、否定できない。ハルキ、壊れる。それは、絶対、嫌。だから、その部分、話さなかった」
機密指定レベル九は、人格を破壊するリスクが問題にならないほど、危険な情報ということになる。
「ハルキ、真相、知らないままでも、リゼ、治療できる、はず、だった。治ったら、おうち、帰して、おしまい。そのつもり、だった」
「……だった?」
ピピピピピピッ。
そのとき、部屋に来客を告げる通知音が鳴った。
自動的にホロモニタが立ち上がって、廊下にいる来客の様子を映し出す。
「ホノカさんに、ミサキと、トマス? アーニャさんもいる……?」
ミサキとトマスがアーニャを押さえ込んで時間を稼ぐと言っていたので、てっきりすでにアーニャを捕縛しているか、まだ戦闘中か、どちらからだと考えていた。
仲良く一緒に連れ立ってくるパターンは想定外だ。
リゼは涙を拭う仕草も見せず、解錠を指示した。部屋のドアが自動で開く。
いの一番にホノカが踏み込んでくる。
「さてー。ここが違法アンドロイドを製造していた悪の組織のボスの部屋ねー。
はい、リっちゃん確保ー。もう、だめじゃない。あんな物騒な武器をアーちゃんに積んだりしちゃー。めっ」
ホノカは部屋に入るなり、リゼの頭をわしゃわしゃとなで回した。撫でる手は止めないまま、懐からハンカチを取り出して、リゼの頬についた幾筋もの涙の跡を丁寧に拭う。
「でも、これで話す覚悟ができたのかなー? ほんと、頑固さんなんだからー」
きょとんとしているリゼの額を軽くデコピンして、ホノカはにっこり笑った。
「…………うん」
一度だけ力強く頷いたリゼの瞳には、もう迷いは見えなくなっていた。
リゼは部屋の入り口に立っているアーニャに向かって、ひとつだけ指示を出す。
「アーちゃん。齋藤悠貴に対する間接的精神汚染設定、無効化」
アーニャは小さく会釈してから、リゼの隣に侍る。
「無効化いたしました。
ハルキさん。これまでの非礼をお詫びいたします。当機は、音声、仕草、その他すべての制御可能な項目を活用して、ハルキさんの思考と意志決定に積極的に介入し、誘導していました。すべて機密保持のためですが、大変申し訳ありませんでした」
さりげなく、とんでもないネタばらしを受けたように思う。
「もしかして、アーニャさんに話しかけられたり笑顔を向けられたりすると安心する感じがしたのって……」
「はい。ヒトは、特定の周波数や音程の声に強い安心感を覚えるなど、いくつかの特徴があります。それらを利用していました。当機の場合、特に男性の思考様式に強く介入する能力があります」
男性に対する精神的特効能力。何もかも上手くはぐらかされ続けるわけだ。
『せやから、薄気味悪いアンドロイドっちゅーたやろー! そいつ、うちの手を離れてからどんどん魔改造されとるんやもん。ホンマ勘弁やわ』
突然、ホノカのチョーカー型の端末からイオリの声が聞こえてきた。どうやらホノカたちが入室したタイミングで、通信をつないだようだ。
「ぶわはははは! そりゃラボの男どもがメロメロになるわけだなぁ。ハルキしかり」
トマスは大笑いしている。一方、その隣にいるミサキは、トマスとハルキを『便所の壁を這っている足がいっぱいある名状しがたい虫』を見るような目で見ていた。彼女が何を考えているのか何となくわかったが、やぶ蛇なので放置しておく。
リゼは深呼吸して腹を括ったようだ。
「ハルキのからだ、どうなってるか、説明する」
彼女が右手で宙を払うと、ホロモニタがいくつか立ち上がってくる。
「機密指定レベル九の理由、ふたつある。ひとつ、テクノロジー。もうひとつ、目的」
ホロのひとつが何かの映像を表示している。
「ひとつめ。グリちゃん、二週間たっても、一ヶ月たっても、効果、切れない。新陳代謝の影響で壊れるの、他のナノマシンと、一緒。でも、世代交代する。だから、効果、永続する」
ホロには、『ナノマシンがナノマシンを生み出している』ように見える映像が再生されていた。
「世代交代? ナノマシンが、ナノマシンを作っているように見えるけど……これが、どうかしたのか?」
アーニャがこほんと小さく咳をして会話に入ってくる。
「補足します。グリーフ・ブレイカーは、自分自身を複製する機能を有しており、そのため二週間ごとに再投与する必要は一切ありません。原則、効果は永続します。
グリーフ・ブレイカーは、世界初の自己複製機能を搭載したナノマシンです」
「セルフレプリケーター……? それだけ?」
言っている意味はわかったが、それがどういう意味を持つのかが理解しきれなくて固まってしまう。
機密指定レベル九の危険な情報だと思って身構えていたので、拍子抜けする。
いまひとつ話が伝わっていないことを察知したミサキが、追加のフォローを入れる。
「ハルキ。よく考えて。目に見えない小さなナノマシンが、ナノマシンをどんどん生み出しているのよ。あなたの体の中で、あなたの知らない間に。
———もし、その増殖が止められなくなったら、どうなる?」
「どうなるって……」
ナノマシンは、目に見えない。ある意味で、役に立つウイルスのようなものだ。
それが、無限に増えていくとする。がん細胞みたいに。
そうなったら、最終的には———




