天岩戸の向こう側(2)
アーニャにとって、『最高位命令』は絶対遵守である。
準仮想現実のハルキの学校から帰った後、マスターであるリゼから新たな『最高位命令』を組み込まれた。
———ハルキをリゼに近づけさせるな。
その理由までは正確に把握していないし、知る必要もなかった。推測はできていたが。
今のアーニャは、ハルキがリゼに会おうとするならば、断固としてそれを否定し、諦めさせなければならないと判断する。はぐらかそうとするのではなく、心を折ろうとする。ハルキから見た彼女の態度の変化は、そうした優先順位の問題から生じていた。
(ハルキさんを、マスターに近づけてはならない)
したがって、日常業務をこなしている今も、ハルキの居場所を定期的にチェックし、彼がどこで何をしようとしているのかを予測し続けている。プライバシーの問題があるので何もかも把握できるわけではないにしろ、どこで誰に会ったかくらいは確認できる。
そうして五日を経過しても、ハルキには不審な動きはなかった。
このまま諦めてくれれば、彼は二度とリゼに会うこともなく、すべての問題が解決したあとで元の日常に帰って行くことになるだろう。彼がグリーフ・ブレイカー無しで生活できるようになるまでに多少の時間はかかるかもしれないが、リゼが尽力すればそれはいつか、必ず実現される。それまで、ひたすら待てばよい。
そう推論していた、六日目の夕方。
(———ハルキさん。あなたがそれほど愚かであるとは、私の推論エンジンでは看破できませんでした。残念です)
不足した備品を資材倉庫に取りに行こうと廊下を歩いていたアーニャは、きびすを返した。元来た道を戻っていく。姿勢は崩さずに、堂々と。
ハルキの居場所を確認したところ、なぜかリゼの近くにいる。十分前までは病室にいたはずだった。明らかに何らかの意志を持って移動している。
(とはいえ、このあとハルキさんがマスターに接触するには、セキュリティロックがかかった扉を開けなければなりません。そのロックはゲストパスでは決して開かないのに、無駄とわかっていても試さざるを得ないということでしょうか……。人間とは面倒な生き物です)
事実上、ハルキにはロックを越える方法がない。リゼと接触される可能性は皆無と言える。
それでも、リゼに近づこうとするのであれば、排除し、その意志を根本から挫かなければならない。それが『最高位命令』である限り。
わずかに急ぎ足になる。緊急ではないものの、排除するなら早い方が良い。
そこに、望まぬ客人が現れる。
「よぉ。アーニャ、そんなに急いでどこに行くんだ?」
アーニャの前に、大男が立ち塞がっていた。
「トマスさん。申し訳ありません。急ぎの用件がありますので失礼させていただきます」
小さく会釈をして脇を通り過ぎようとする。
「おっと。悪いけど、ここは通行止めだ」
行く手をトマスが遮る。鍛え上げた肉体は、狭い廊下において壁と呼ぶのに差し支えない。
「……確認しますが、トマスさんは私の移動を妨げる明確な意志をお持ちである、ということでよろしいですか? 仮にそうであれば、私はあなたを排除してでもこの先に向かわなければならなくなります」
アーニャの問いかけに、トマスはファイティングポーズをとって答えた。
「おう。僕の全身全霊をもってお前さんをここで足止めする。男と男の約束でな」
腕を構えて胸元に引いた、軍隊格闘技特有の構え。明確な交戦の意志。
「私を足止めしようとする真意は理解しかねますが、いずれにせよトマスさんおひとりで私を止めることは不可能です。再考を推奨します。ザンサスのモーションのオリジナルは私であることを、ご存じではありませんか?」
トマスは「痛いところを突かれた」という顔をしている。
「おう。思い知ってるぜ。なにしろ『コブちゃん』を使ったことがあるからなぁ。
ただ、僕がひとりで相手をするなんて言った覚えはないぜ?」
***
「がははははっ! ———いいぜ、燃えてきた。やってやるよ」
格納庫に、トマスの笑い声が反響する。
「たしかに、リゼに会うくらいは何とかなりそうな気がしてきたぜ」
トマスは膝を叩いて、ラボの見取り図の細部を確認するために立ち上がった。
ホロをなめるようにチェックしながら、侵入経路を探している。
「……やっぱり、リゼの部屋まで突撃するのは無理筋だろうな。都合が良さそうな排気口やらがあるわけでもなし、ロックが多すぎて強引に突破できるイメージも湧かない。
リゼがセキュリティレベルの低いエリアにいるタイミングを狙うしかないな」
トマスの指が、中央棟の一階の一角を指さしていた。
会議室エリアと記載されている。セキュリティレベルは中央棟の中では一番低い。
「ここはミーティング用のブースが集まってるエリアだ。外から来た人間ともここで打ち合わせする関係上、セキュリティレベルが他よりは低く設定されてる。狙うなら、ここだな。
昔、リゼが会議はあんまり好きじゃないってボヤいてたんだが、逆に言えば何かしら会議はあるってことだろ? 付けいる隙はあるんじゃねえか」
たしかに、リゼの部屋よりは数段簡単そうだ。ゲストパスで入れるロビーから、二重扉のセキュリティロックをひとつ隔てているだけだ。
あとはロックをどうにか通り抜ける方法と、リゼが会議室エリアにいる時間帯を把握する方法が必要だ。それと同時に、誰かがアーニャを押さえ込まなければならない。
トマスとハルキが何か方法はないかと思索を巡らせ始めた、そのとき。
「———なんの悪巧みをしているの?」
高いところから声が聞こえて、慌ててトマスがホロを消す。
見上げると、いつの間にかザンサスの肩口にミサキが座っていた。
すとんすとん、と二歩でザンサスから飛び降りると、そのまま打ち合わせ卓までやってくる。
「なんだか面白そうな話をしているようだったから、悪いけどこっそり聞いてたの」
「いったいどの辺りから聞いてたんだ……?」
恐る恐る確認する。
「ま、だいたい最初からね。とりあえず、ホノカに報告しないとね」
トマスが慌て始める。
「待て待て待て! まだ何もやってねーし! 考えてるだけだし! 計画だけで実行に及んでないから無罪だって! ミサキ、マジでやめてくれ! ……やめてね?」
ミサキはそんなトマスを見て、くすくすと笑っている。
彼女から、意外な答えが返ってきた。
「バカね。告げ口なんてしないわよ。冗談、冗談。
アーニャの足止めが必要なんでしょ。私も協力するわよ?
ハルキにはこの間の戦闘で助けられたし、私はそこまで薄情じゃない。さすがに人体機能付与型ナノマシンは使えないけどね」
「マジかよ!」
想定外の展開に、トマスが指をパチンと鳴らしてミサキを歓迎する。
「いいねぇ! それでこそ切り込み隊長! 僕とミサキでアーニャの足止めはさすがに何とかなるだろ!」
トマスはノリノリになっているが、逆に心配になることもあった。
どうしても確認しておかなければならない。
「なぁ、ミサキ。本当にいいのか? もしかしたら命令違反でクビとか、そういうことにならないか……? その、子ども達にも」
彼女の『実家』の子ども達にも迷惑がかかるのではないか、と続けようとしたところで、ミサキの人差し指に唇をそっと押さえられてしまい、話せなくなった。
「そうね。もしそうなったら、ハルキが責任取って。……冗談よ?」
そう言うと、ミサキはハルキの隣の席に軽やかに座った。




