這い寄る宵闇(7)
「———ぶはぁっ! 戻った!」
跳ね起きる。
(……痛みは、ないか)
記憶の中の激しい痛みは、現実に戻ると消えていた。安堵する。
隣で寝ていたはずのイオリは、すでに起き上がっていて、何事かぶつぶつとつぶやいている。
「社会秩序ならびに地球環境が脅かされる……不可逆……やっぱりグリーフ・ブレイカーがロックの原因か……」
真剣に考え込んでいるようなので、しばらくそっとしておく。
一方のハルキの気持ちは、幾分か晴れやかになっていた。
リゼが、本当にただ助けたいとだけ願ってグリーフ・ブレイカーを使ったことが確認できたからだ。
(あんなに真剣に俺のことを助けようとしてくれてたんだな)
何をされたのかわからないままなので不安が消えたわけではなかったが、リゼを疑うような真似はしたくない。そう思い直した。
ただ、それでも、アーニャが呟いていた言葉が気にかかった。
社会秩序ならびに地球環境が脅かされる。結果は不可逆———
でも、それが何を指すのかはわからない。
「あかん。やっぱ、これ以上は推論だけじゃ詰めきれへん。うち、別にナノマシンの専門ではないしなぁ。むしろド素人や。大学の講義もサボっとったし」
イオリもさじを投げていた。
「ハルキも聞いたやろ? 『社会秩序ならびに地球環境が脅かされる』って、いくら最新型っちゅーても、医療用ナノマシンに言うような話か?」
「そうは、思えないです。怪我の治りが異常に早いのと関係があるのか……?」
イオリは頷いている。
「……ハルキ。ここまで首を突っ込んだからには、あんたにも言うておくわ。
うちがなんで『おかしい』と疑い始めたのかっちゅー話や。明らかにこれがヤバいネタって断言できる証拠があるねん」
イオリは「話すけど、ええか?」と表情で尋ねている。
首を縦に振った。
「うちな、ラボの監視映像と、アーニャの記憶のバックアップをこっそりのぞき見したんや」
言いながら、イオリは自分の端末からホロを展開した。
「これはそのときに、うちが怪しいと思う記録データのプロパティだけ抜いてきたもんや。
この二つのファイル、日付とか、情報欄をよく見てみ」
ファイルの日付は、二つとも公園の事件から後。このラボに担ぎ込まれてからだ。
一つ目は、担ぎ込まれた直後の、アーニャの記憶。さきほど記憶からサルベージした蘇生作業中の出来事のようだ。おそらくグリーフ・ブレイカーを使った前後だろう。
二つ目は、それから一ヶ月ほど経過した、どこかの監視カメラの記録。
「……これは、グリーフ・ブレイカーが起動して、俺が血を吐いたとき、か……?」
正確な日時をはっきりとは思い出せないし、そのときはまだ端末を持っていなかったから明確な記録もない。それでも思い当たるフシがあった。
あの日、アーニャに手当てを受けながら、隣の準備室から聞こえてきたトマスとミサキの怒号。
「なにをやったのかわかってんのか、お前!」
「トマス! リゼが怯えているでしょう! 落ち着いて!」
「落ち着け? 落ち着けって、この状況で? ここで座禅でも組めばいいのか?!」
「それで落ち着くっていうならそうしなさい。軽口に付き合うつもりはない!」
イオリを見る。
「これ、処置室の隣の部屋のカメラじゃないですか?」
「ビンゴ。やっぱり、ハルキにも何か心当たりがあるんやな?」
いま思えば、たしかにトマスの様子がおかしかった。他に助ける方法がなくやむを得ず試験用のナノマシンを瀕死の人間に打っただけで、彼がそこまで激高するだろうか。
———そうは思えない。
もう一度、ホロに映し出された二つのファイルの情報欄に目を向ける。
よく見れば、そこには『おかしなこと』が書かれていた。
「暗号化ロックされていて、機密指定レベル九……? ロックしたのはリゼ?」
二つのファイルは、リゼによって開封できないように設定されている。
(たしか、ミサキが使っている人体機能付与型ナノマシンの機密指定レベルが、七だった……それよりも高い……)
背筋を冷たいものがつたっていく。
「せや。機密指定レベル九。
社会秩序・地球環境への甚大かつ不可逆な影響が見込まれるもの。そう定義されとった。アーニャが記憶の中でグリーフ・ブレイカーを使う前に言うてた警告メッセージと、ほとんど同じやろ。
最初、うちにはこの暗号化ロックが具体的に何を隠そうとしとるかわからんかったけど、もう間違いないで。このファイル、二つともグリーフ・ブレイカー絡みや」
「グリーフ・ブレイカーに、機密指定レベル九に該当する秘密がある……?」
「そうとしか思えへんやろ。要するに『世界がどうにかなってしまうかもしれへん』ような何かが、あんたの体の中にあるんちゃうか」
そんな馬鹿げた話があるものかと思うものの、本当はグリーフ・ブレイカーがどういうものなのか把握しているわけでもない。否定する材料もなかった。
イオリがわしわしと自分の頭を掻きむしっている。
「うーん、ええとこまで来た気がするんやけど、手詰まりやなぁ。あとはアーニャの記憶ブロックをハックすればわかるかもしらんけど、それをやったらバレる危険性が———」
そこに前触れ無く、第三者の声が割り込んでくる。
「———そんなことをされなくても、すでに居場所は把握していますよ。イオリさん」
積み上がった機材の上から、メイド服を着たアンドロイドがこちらを見下ろしている。
いつの間にそこに上ったのか、二人ともまったく気付いていなかった。
「っ! アーニャ!?」
イオリが逃げ出そうとしたときには、アーニャはもうイオリのすぐ隣に飛び降りていた。ほとんど音もなく着地して、流れるような動きでイオリの腕を絡め取って拘束してしまう。
「あだだだだだだだだだだ!? ちょ、痛い! 痛いって! 折れるーっ!」
「いいえ。人間の腕はこの程度で折れたりはしません。機械化されている腕ですと強制切除して逃亡される可能性がありますので、生身の右腕を捕縛しています。ご容赦ください」
そのままイオリは床に跪いた状態で押さえ込まれる。あっという間だった。
「クソッタレ! このっ! 造った人間の言うことは聞かんかい!」
「たしかに、イオリさんは最初に私を組み立てた方です。しかし現在のマスターは藤原利世様、ただおひとりです。あなたの命令に従う理由はありません」
アーニャの声には一切の優しさがない。それどころか、声色はいつもと同じなのに威圧感や恐怖を強く感じる。
その顔も、いつものように笑ってはいなかった。
「それよりも、無用な詮索を停止していただけませんか。
監視カメラと記憶バックアップをのぞき見ていたところまでは看過していましたが、それ以上となると、私に与えられた『最高位命令』に抵触してしまいます。
マスターより殺傷する許可はいただいておりませんが、絶対に殺傷するなとも言われておりません。どうか、引き際は誤らないようにお願いいたします」
イオリの抵抗がピタリと止まる。
「……わかった。もう、うちからは何もせえへん。それでええんやろ」
それから数秒の間があった。
「———はい。お騒がせいたしました。それでは、私はこれで失礼いたします。
ハルキさん。くれぐれも道を誤らぬように———」
いつも通りの笑顔に戻ったアーニャは、それだけ言い残して立ち去った。
気まずい静寂が格納庫に漂う。
「……あー。すまんかったな、ハルキ。この話はこれでおしまいや。部屋に帰り」
イオリは、ばつが悪そうに床にあぐらをかいて座っている。
「いえ。イオリさんのせいではないです。気にしないで下さい。
これは、俺の問題だから」
やるべきことは、もう決まっている。
***
ラボの一階にある大きな角部屋。何かあっても、すぐに逃げ出せる位置。
執務室として設えられた伝統的で重厚な内装は、ここが研究施設であることを忘れさせる。
重く響く声で、男が話している。
「えぇ、順調ですよ。いえ、厳密には対計画で遅延はありますが、問題はないでしょう。想定の範囲内です」
部屋の最奥には巨大なデスクがあり、その上にホロが浮かんでいた。壮年の男女の顔がいくつか映っている。
男は椅子に腰掛けて、ホロの向こう側にいる相手と会話をしていた。
「試作機の完成はもう少し先でしょう。もちろん、まだ生体に投与できる段階にはありません。試されたいというなら、止めはしませんが。
……急がせますとも。ただ、試作機ができても、次は培養人体を使った試行錯誤のフェーズに入ります。こればかりは、いくら撰修人種がいるからといって桁違いに加速できるものではありません。設備にも限りがありますので」
沈黙が流れる。
「定期報告は以上です。ご質問は? ……ないようでしたら、これで失礼」
ホロが消えた。途端に、男はだらりと椅子にもたれかかった。
「やれやれ。年寄りどもの厚かましさは何とかならないものかね」
そんなため息が悪いものを呼び込んだのか、再び音声通話の呼び出し音が鳴る。
男は舌打ちをしながら通話に出た。
「……君か。……ああ。こちらに問題は無い。計画通りだ。
それより、君の猟犬がずいぶん勝手に暴れてくれたそうじゃないか。大事の前の小事と言うだろう? 首輪はしっかり付けておいたらどうだ。
……ふん。そちらの都合に私は関知しない。これは対等な取引。相互に契約を履行する義務がある。そうだろう?」
通話は、そこで切れた。




