騎士と戦士、そして姫(1)
ホノカ・リバース事件の翌朝。
ハルキは朝食後、自室に戻ろうと廊下を歩いていた。
ラボ側の共用部を利用できるようになったため、生活の不便さや退屈さはずいぶん解消された。かごの中の鳥には違いなかったが、それなりに快適である。
「ふー。食べた食べた」
朝食を取ったカフェはブッフェ形式で、ついうっかり食べ過ぎてしまった。
その満腹感から油断していた、と言うべきか。
「うおっと」
廊下の角を曲がったところで、反対から来た人影にぶつかりそうになった。
すんでの所で立ち止まり、相手の顔を見る。
四十を過ぎた痩身の男性。ハルキより少しだけ背が高く、眼光からは突き刺すような怜悧さが感じられる。仕立ての良さそうなスーツ姿で、おそらくはラボの職員であろう。
「すみません。うっかりしていました」
ハルキが平謝りするが、男はその様子をいぶかしげに見てから、ずしんと響く低い声で、こう言った。
「君は、藤原君が看ている患者だな?」
藤原君。それがリゼのことだと思い出すのに、わずかな時間を要した。
「はい、そうです」
ハルキの肯定を耳にした途端、男はいらだちを露わにする。
「やはりそうか。巻き込まれて大怪我をしたと聞いているが、元気そうじゃないか。
すぐにでも家に帰ったらどうだ?」
(えっ?)
まさか、だった。
咄嗟に反応することができずにいると、言葉はさらに続いた。
「子どもの遊び場ではないのでね。緊張感のない顔でウロチョロされると困るのだよ」
意味はわかる。真剣に研究に打ちこんでいる研究者から見ると、ハルキの存在はいかにも目障りかもしれないからだ。
それでも、初対面の相手に、ここまであしざまに言われる筋合いはないのではないか。
「……あの、そんなふうに言われる心当たりは俺にはないです」
精一杯の虚勢を張ったが、男の眼光は揺らぐことなくハルキを見据えている。
「ふむ? 聞いていないのか。まったく、研究以外は相変わらず無頓着だな」
男は、ハルキではない別の誰かに焦点を合わせて話しているように感じられる。
そのくせ、すぐに立ち去ろうとするわけでもなく、相変わらずハルキの前に立ちはだかっていた。
まるで、ハルキを値踏みするかのように。
「副所長、いかがなさいましたか?」
耳に馴染んだ柔らかい声。
いつの間にか、ハルキの後ろにアーニャが立っていた。
「……いいや? 何もないさ。それより、藤原君に伝言を頼まれてくれないか。
自分の上司くらい、ゲストには説明しておくべきだろう、とな」
「大変失礼いたしました。マスターへの伝言、たしかに承りました」
アーニャは深々と頭を下げて、副所長と呼ばれた男の言づてを受け止めていた。
「やれやれ。その人間らしさを君のマスターに分けてやりたいところだ」
言動に皮肉が見え隠れしていることはハルキでも理解できる。
(———嫌なヤツ)
男は立ち止まったまま、歩き出そうとしない。アーニャはハルキをかばうつもりなのか、隣に控えたままだ。
にらみ合っているわけではない。しかし、それに近い空気が流れている。
もし、ここでタイミングよく四人目の闖入者が現れなかったら、気まずい沈黙はもう少し長く続いていただろう。
「お、アーニャやん。それに副所長様か。なんかあったんか?」
突然割り込んできたのは、一目で記憶に強く残る人物だった。
目を引くピンクゴールドのショートボブ。男なのか女なのかまったく判別できない、中性的な顔立ちと体つき。おまけに、ひどい西側なまりだ。歳は二十代に見える。
「来栖君か。戻ったんだな。どうもしないさ。珍しい客人がいたのでご挨拶をね」
副所長はそう言うと一歩後ろに下がってから、きびすを返して廊下の奥に消えていった。
張り詰めていた糸がふわりと緩む。
「……はぁー。アーニャさん、あの人、どなた? リゼの上司って言ってた気がするけど」
アーニャはいつも通りにっこり微笑むと、正解を教えてくれた。
「西園寺了嗣博士。このラボの副所長です。指揮命令系統において、特別研究員であるマスターの直属上長にあたります」
続いて、来栖と呼ばれた人物が、頼まれてもいないのに補足する。
「肩書きはナンバーツーやけど、実質のボスはあいつやな。所長はお飾りやし」
彼が実質的な支配者であるなら、さきほどの尊大な態度も合点は行く。
ハルキは二人に向き直ると、頭を下げた。
「とにかく、ありがとう。助かりました」
来栖はひらひらと手を振って「気にすんな」と身振りで答えている。
アーニャはそんな来栖とハルキを見比べてから、何か思い出したとばかりに両手を打ち合わせて、言った。
「お二人は初対面ですよね。ハルキさん、ご紹介しますね。
こちら、来栖伊織さんです。出張で不在にしていましたが、警備課のメンバーで、技官を務めていらっしゃいます」
イオリは姿勢を崩したまま、右手でだらっとした敬礼のようなポーズを取った。
「よろしゅう、齋藤悠貴くん。共有資料でだいたいの事情は知っとるで。
リゼをかばって大怪我するとか、男前なやっちゃなー」
流れるような動作で握手を求められ、反射的に応じてしまう。
「せや。うちのことは下の名前で呼んでくれてええから。警備課の連中、お互いにそうしてるやろ? 『来栖』って、語感が堅すぎて性に合わんのや」
「はぁ。それならイオリさん、で。俺はハルキと呼んでもらえれば」
「よっしゃ。ほな、ハルキ、またな!」
イオリは、ハルキとアーニャに手を振りながら軽快な足取りで廊下を走っていった。
その姿を見送ってから、イオリの言葉に違和感があったのでアーニャに尋ねる。
「アーニャさん。イオリさんって、俺のこと、どこまで知ってるの?」
「ハルキさんがマスターの正体をご存じであることは共有されています。
ただ、容態については、マスターをかばって大怪我をして療養中という情報だけのはずです。グリーフ・ブレイカーについては伝えていないかと」
「そう。じゃあ、気をつけないといけないな」
アーニャは「はい。お願いしますね」と答えると一礼して去って行った。
ひとり、廊下に残されて、思う。
(いろんな人がいるんだなぁ……)




