引き寄せられる運命
動揺のあまり一瞬硬直してしまったが、すぐにこの場から立ち去らねばと思う。彼にとってエリシアは初対面で、同じ本を好きだという共通点がなければ、親しくなることはないはずだ。
「あ、ありがとうございます。急ぐので……」
顔を見ないようにうつむいたまま早口でそう言おうとしたエリシアは、ロジェリオのジャケットの袖が濡れていることに気づく。よく見ると彼は左手にグラスを持っていて、エリシアを受け止めたせいで中身をこぼしてしまったのであろうことが分かった。
さすがに、自分のせいでジャケットを汚してしまったと知って、立ち去るわけにはいかない。エリシアは慌ててハンカチを取り出した。
「申し訳ありません、ジャケットを汚してしまいました」
「炭酸水ですから、問題ありませんよ。それより、あなたが濡れなくてよかった」
気遣うような優しい言葉をかけられて、胸が苦しくなる。顔を見ることはできなくてうつむいていると、ロジェリオが「おや」と何かに気づいたような声をあげた。
「その刺繍は、あなたが?」
「え……」
かつて出会った時と同じ質問を投げかけられて、エリシアは目を見開く。まるで時間が巻き戻ったかのようだ。
握りしめたハンカチにはかすみ草の刺繍が施されていて、よりによってどうしてこのハンカチを選んでしまったのかと自分のうかつさを嘆きたくなる。
「こ……れは」
自分で刺したものではないと言えば、ロジェリオはエリシアへの興味を失うかもしれない。そう思うのに、言葉は喉に貼りついたように出てこない。
黙ったままのエリシアを見て、ロジェリオは小さく笑った。その顔はいつもエリシアに向けられていたものと同じで、涙が出るほどに嬉しくなる。
「失礼、とても好きな花だったので、つい」
「そ……そうなんですね」
「あなたもその花が好きなのかなと、思って」
記憶の中と似たようなやりとりに、胸が詰まる。つんと鼻の奥が痛んで、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。瞬きで涙を堪え、泣きそうになっていることに気づかれないよう、エリシアは下を向く。その時、華やかな弦楽器の前奏が流れ始めた。聞き覚えのある旋律に、エリシアはぴくりと肩を震わせる。
それは、エリシアがロジェリオと初めて踊った曲だった。
出会った場所も時期も違うのに、どうしてこのタイミングでこの曲が流れてしまうのだろう。
失礼を承知で、このまま彼の手を振り切って逃げてしまおうかと考えていると、ロジェリオがエリシアにそっと手を差し出した。
「これも何かの縁だ。よければ、踊っていただけませんか?」
「……っ」
「ほら、踊っているうちに乾くと思うんです」
悪戯っぽい顔で、ロジェリオは自らのジャケットを軽く撫でる。エリシアのせいで濡れてしまったのだから、ここで誘いを断るわけにはいかないだろう。
「……えぇ、喜んで」
声が震えないよう気をつけて、エリシアはゆっくりと彼の手を取った。
曲に合わせてステップを踏みながら、お互いに自己紹介をする。ロジェリオが初めて女性をダンスに誘ったと周囲から注目を浴びていることもあり、エリシアは落ち着かない気持ちでいっぱいだ。それでも、かつて何度も一緒に踊ったので、何も言わなくてもタイミングが合う。
「すごく踊りやすい。不思議だな、エリシア嬢とは初めて踊った気がしない」
「リードがお上手だからだと思います」
「褒めてもらえて光栄だ。強引にダンスに誘ったから、嫌われてしまったかと少し心配だったんだ」
「……そんなことは、ありませんわ」
楽しげなロジェリオとは反対に、エリシアは言葉少なに対応する。また彼と踊れる日が来るなんて思ってもみなかったし、本当ならずっとこの手を握っていたい。だけど、これ以上ロジェリオと親しくなるわけにはいかないのだ。
曲が終わると、次は自分と踊ってほしいとあちこちから令嬢が近づいてきた。これで自分の役目は終了だろうとその場を離れようとしたのに、ロジェリオはまだエリシアの手を握ったままだ。そして、こそりと耳元に顔を寄せられる。
「申し訳ないが、この場を離れるのに力を貸してもらえないか」
「え?」
エリシアの戸惑いをよそに、ロジェリオは周囲に聞かせるように声を張った。
「エリシア嬢、顔色がよくないな。体調が悪いなら、ダンスの途中でも教えてくれればよかったのに。涼しい場所で、少し休もう」
「え、えぇ」
きっと彼は、集まってくる令嬢の輪から逃げ出したいのだろう。エリシアも、これ以上この場にとどまって注目を浴びるのは避けたかったので、ロジェリオの手に従って会場を出ることにした。
さすがに追いかけてくる人はなく、二人は庭のベンチに腰を下ろした。記憶の中にある出会った場所とは違うけれど、似たような状況にエリシアの鼓動は速くなる一方だ。
「ありがとう、おかげで会場を抜け出すことができた」
そう言ってロジェリオは小さく息を吐く。エリシアと踊ったのだから次は自分と、といった様子で近づいてきた女性たちの数はかなりのものだった。もしもあのまま囲まれてしまったら、断るだけでも大変な労力だっただろう。
「いえ、私もあの場に長くとどまるつもりはありませんでしたから。ジャケットは乾いたでしょうか?」
「あぁ、まだ少し湿っているけど……問題ない」
「本当に、申し訳ありませんでした」
あらためてエリシアは、深々と頭を下げる。出会いを避けるつもりだったのに、こうして一緒にいることが信じられない。だけど、またロジェリオの命を奪われるような事態は、絶対に避けなければいけない。
「では、私はこれで」
「待って、エリシア嬢」
立ち上がって歩き出そうとしたエリシアの腕を、ロジェリオが掴む。決して強い力ではないけれど、指先のぬくもりを感じてしまって動けなくなる。エリシアよりも少し体温の高い彼の手は、いつだってあたたかかった。大きなその手に、包み込むように手を握ってもらうことが大好きだったことを思い出して、胸が詰まる。
「は、離してください」
「すまない。でも、きみともう少し話していたい。……だめだろうか」
「今夜は疲れてしまって……。もう帰るところだったのです。ですから、申し訳ありません」
ロジェリオの顔を見ないようにうつむいたまま、エリシアは平坦な声で断る。離れていった手のぬくもりを、恋しいと思ってしまう自分が嫌になる。
あの時ぶつからなければ、そしてハンカチが違うものだったなら、こんなことにはなっていなかったはずなのに。唇を噛みしめたエリシアの耳に、微かなため息が聞こえた。
「そうか……。それなら残念だけど、仕方ない」
顔を上げれば、ロジェリオはどこか切なそうな顔でエリシアを見つめていた。そんな顔をさせてしまったことに、胸の奥が罪悪感で疼く。
だがロジェリオは、気を取り直したように笑みを浮かべた。
「では、また日をあらためて会うことはできないだろうか」
「え……」
「きみのことをもっと知りたいんだ、エリシア嬢。そして俺のことも、もっと知ってほしい」
かつてと同じような言葉をかけられて、エリシアは言葉に詰まる。ロジェリオは、照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「突然こんなことを言われて驚くかもしれないが、一緒にいてこれほどまでに心地のいい人は初めてで……。きみと踊ったダンスも楽しくて、もっと一緒にいたいと思ったんだ。もしかしたらこれが、一目惚れ――」
「や、やめてください!」
エリシアは、彼の言葉を思わず鋭くさえぎってしまった。驚いたように目を丸くするロジェリオの前で、エリシアは再び頭を下げる。
「もう……会うことはありません。申し訳ありません、失礼します」
それだけ言って、エリシアは走るようにその場を後にした。




