惨劇
「え……」
信じられない発言にエリシアは目を見開くが、男は満面の笑みを浮かべたままだ。それが、どうしようもなく気持ち悪い。
「邪魔なそいつを、ようやく排除することができた。本当に、ここまで長かったよ」
ロジェリオが亡くなり、未だ涙を流し続けるエリシアを前にして、目の前の男だけが上機嫌だ。よく知っているはずのその顔が、別人のように思える。
男は笑顔を浮かべ、うずくまるエリシアに手を差し出した。
「さぁおいで、エリシア。ここを出て、二人だけで暮らそう。誰も追ってこないように対策はしてあるから、安心して」
「や……嫌……」
歌うような男の言葉の意味も分からないし、差し出された手を取る気にもならない。
彼はエリシアの名を呼び捨てにしたことなど、なかったのに。まるで恋人を呼ぶようなその声が、いつもと違う口調が、ぞっとするほど不快だ。
首を横に振るエリシアを見て、男は小さく肩をすくめた。
「大丈夫、もう怖くないよ。そいつは死んだ。エリシアは自由になれたんだよ」
「どういうこと……」
意味が分からず呆然とつぶやくエリシアに、男はにこやかに笑う。そして、恐ろしいことを口にした。
「カップに毒を仕込んでおいたんだ。即効性だとは聞いていたけど、こんなにすぐに死ぬとは思わなかったな。もっと苦しめばよかったのに」
薄く笑って、男は動かないロジェリオを見下ろす。その視線は、凍りつきそうなほどに冷たい。
「どう、して……どうして、あなたがそんなこと……」
ロジェリオの手を握りしめたまま、エリシアは震える声で尋ねた。エリシアの知る彼は、こんなことをする人ではなかった。人を殺めて笑っていられるような人ではなかったはずだ。
なのに、男はにっこりと笑うとエリシアを見つめた。その表情は優しいけれど、どこか熱っぽい視線が気持ち悪い。
「可哀想に、混乱しているんだね。大丈夫、すぐに全部忘れさせてあげる。愛してるって言ってくれただろう、エリシア。だからその想いに応えなくちゃと思ったんだ」
「何を言っているの……。そんなこと……言ったことないわ。あなたのことをそんな目で見たことなんて……一度だってない」
男が口にしたありえない内容に、エリシアは激しくかぶりを振る。確かにこの男は、エリシアにとって大切な人だった。だが、異性として見たことは一度もない。
いつから、この男はエリシアをそんな目でみていたのだろうか。
名前を呼び捨てにされることも、熱を帯びた視線も、この状況で笑みを浮かべるその顔も、全てが気持ち悪くて仕方がない。
背筋が寒くなり、エリシアは胃の中身が逆流してきそうなほどの吐き気に襲われた。
エリシアの否定にも、男は動じる様子を見せない。少し困ったように眉尻を下げ、微笑むだけだ。
「秘密の関係だったから、仕方ないよね。だけどエリシアはいつも熱っぽい視線を送ってくれていたじゃないか。あれは愛してるって意味だろう?」
「そんなこと……してない……」
「恥ずかしがらなくてもいいよ、ちゃんと分かってるから。周囲を欺くため、仕方なくこいつと婚約をしたんだよね。だから、愛するエリシアを救い出してあげなくちゃと思ったんだ。ようやく自由を手に入れたんだ。笑ってよ、エリシア」
男に顔をのぞき込まれ、近づいた距離が不快でたまらない。頬を掠めた生温い吐息に、肌が粟立つ。
「さぁ、一緒に行こう。愛するエリシアのために、新居を用意したんだ。二人きりになれる場所だよ。こいつのことなんて、全部忘れさせてあげる」
「や、やめて……」
エリシアを愛しているなどと言っているが、こんな一方的な想いなんて受け入れられるはずがない。
うずくまるエリシアを立たせようと、男が腕を引く。激しく振り払ったものの、再び強く掴まれた。
「言うことを聞かないなら、お仕置きをしなくちゃならなくなるよ、エリシア。偽りの婚約だったとはいえ、こいつに身体を許したことは、怒っているんだからね」
冷たく吐き捨てて、男はロジェリオを顎で示す。
「結婚までは清らかな身体でいると思っていたから、それまでに助けてあげるつもりだったのに、こいつはエリシアを辱めた……! それを知った時に、決心したんだよ。好きでもない男に蹂躙されるエリシアを、一刻も早く救い出してあげなきゃって」
男の信じがたい発言に、エリシアは懸命にかぶりを振る。
「違う……っ! 私は、ロジェリオを愛してる……!」
「二度とその名を口にしないで、エリシア。不快だ」
「痛……っ」
必死に叫んだ瞬間、男はエリシアの腕を捻り上げた。あまりの痛みに、一瞬息ができなくなる。小さく呻いたエリシアの顔をのぞき込み、男はにいっと笑った。
「あとでじっくりと抱いてあげる。そいつのことなんて忘れてしまうくらいに」
「嫌、誰か……っ!」
ねっとりとした口調が気持ち悪くて、肌が粟立つ。
なんとか助けを呼ぼうとするものの、捻られたままの腕が痛くて声を張ることができない。このまま男の言いなりにはなりたくないと、エリシアは抵抗の意思を示すように身体を丸めて重心を低くした。立ち上がったら、きっとこのままどこかに連れて行かれてしまう。
強く腕を引く手に必死で抵抗していると、足元でじゃりっと耳障りな音がした。
思わず視線を向ければ、膝でティーカップの破片を踏みつけていた。ドレスの布越しであっても、ちくちくとした痛みを感じる。
「さぁおいで、エリシア」
「嫌だって……言ってるでしょう」
エリシアは素早く視線を巡らせ、散らばった破片の中から大きくて鋭いものを選んで掴み取った。それを見て、男はすぅっと目を細める。
「反抗的なのはよくないなぁ。エリシアは優しいから、他人を傷つけることなんてできないだろう」
「……これは、あなたを傷つけるためのものじゃないわ」
手に取った破片を見つめ、エリシアは尖った方を自分へと向けて握り直す。それに気づいた男が、小さく息をのむのが分かった。
「まさか、エリシア……っ」
「私は、あなたのものになんてならない。私が愛しているのは、ロジェリオただ一人よ」
「待て、エリシア! やめろ……!」
男が叫びながら手を伸ばしてくるが、それより先にエリシアは自らの左胸に破片を突き立てた。
燃えるような痛みと息苦しさに襲われて、目の前が急激に暗くなる。どくどくとあふれ出る血液だけがやけに鮮やかで、生温い感触と共に肌を赤く染め上げていくのが分かった。
「嘘だ、そんな……! エリシア!」
「……っ」
破片を奪われることがないように、エリシアは更に胸の奥へと破片を押し込んだ。傷口が焼けるように痛み、息ができない。口から血があふれ、歪な呼吸音が響く。だけど死ぬことは全く怖いと思わなかった。この男の手から逃れられるならそれでいい。
よろめいて倒れ込んだエリシアのすぐそばには、ロジェリオの身体がある。震える手で彼の手を掴み、エリシアは微かに笑みを浮かべた。
今なら、先に逝ったロジェリオに追いつけるかもしれない。彼のもとへ行けるのなら、この痛みだって平気だ。
「愛して……る、……リオ」
すぐに追いつくから、どうか待っていて。
そんな願いを込めて、エリシアは目を閉じた。
身体に力が入らず、男の声も遠ざかっていく。
真っ暗な闇に包まれて、どこまでも深い場所へ落ちていく感覚。
たどり着いた底にきっとロジェリオがいると信じて、エリシアは暗闇に身を任せた。




