過去、弟と執事
夜会の日から一週間後、エリシアは朝からそわそわと身支度をしていた。
今日は、ロジェリオが訪ねてくる予定だ。もちろん、これまでにも彼を招いたことは何度もある。だけど、愛する人に会えるというだけで、エリシアは毎回浮かれてしまうのだ。
昨日の雨の名残で空は暗いけれど、そんな憂鬱も吹き飛んでしまうくらい、ロジェリオと過ごす時間を楽しみにしていた。
「ねぇ、ダナ。どちらのドレスがいいと思う?」
鏡の前で、エリシアはドレスを交互に身体へ当てては考え込む。最近買ったばかりの水色のドレスと、前からお気に入りの緑のドレス。悩みに悩んで二着まで絞ったものの、決めきれずにいるのだ。
ロジェリオと会う日には、毎回このやり取りを繰り返しているけれど、優しい侍女はいつだって一緒に考えてくれる。
「そうですねぇ。今日は、水色のドレスの方がいいかと」
「こっち?」
「えぇ。今日は曇り空で少し暗いでしょう。青空のようなドレスをお召しになった方が、気分も明るくなりそうです」
「確かにそうね。それじゃあ、こっちにするわ」
ダナの言葉にうなずいて、エリシアは水色のドレスを手に取った。たっぷりとしたチュールを使ったスカートが大きく広がった愛らしいデザインで、エリシアの瞳の色にもよく似ている。
ドレスに着替えて、エリシアは鏡の前でくるりと回る。すかさずダナが、可愛いと褒めてくれた。
「アクセサリーはどうしますか? ネックレスをこちらのパールにするなら、ピアスは……」
「あっ、ピアスは着けなくていいわ。この前の夜会で着けていたピアスを修理に出していたのを、ロジェリオが持ってきてくれるの。あとでそれを着けるつもりだから」
「かしこまりました。では、髪を結ってしまいましょう。今日は湿気が多いですから、髪はまとめた方がいいかもしれませんね」
そう言ってダナは、エリシアの髪を器用に編み込んでいく。低い位置でまとめた髪には、ドレスの色に合わせた青いリボンを飾ってもらい、エリシアは鏡をのぞき込んだ。
「素敵。ありがとう、ダナ」
「とっても可愛らしいですよ、エリシアお嬢様」
褒めてくれる侍女に再度礼を言って、エリシアは部屋を出た。ロジェリオと約束した時間は午後からだけど、厨房に顔を出してお茶菓子の確認をしておきたい。
廊下を歩いていると、そばの扉が開いて弟のヴィクトルが出てきた。目が合うと、彼は少し驚いたような顔をして足を止める。
「……姉さん、珍しいね」
「え、なぁに?」
ぼそりと口にした言葉の意味が分からず、エリシアは首をかしげた。ヴィクトルは、慌てたように口を開く。
「いや、あの……姉さんが髪を上げているのは、あまり見ないから」
「あぁ、そうね。今日は湿度が高いから、髪を下ろしていたら広がりそうでしょう。だから、ダナがまとめてくれたの。可愛いでしょう?」
「……そうだね」
小さくうなずいて、ヴィクトルはそのまま黙ってしまう。昔はエリシアのそばから離れないほど甘えん坊だったのにと懐かしいことを思い出すが、彼ももう十八歳だ。いつまでも小さくて可愛い弟なわけがないかと思い直す。
ヴィクトルは、正確にはエリシアの従弟だ。父親の弟の子で、彼が五歳の時に両親が事故で亡くなったため、エリシアの両親が引き取ったのだ。
親を亡くして呆然自失だったヴィクトルは、食事もほとんど喉を通らず、夜中に何度もうなされて泣いていた。エリシアは姉としてそんな彼の面倒を見てやり、食事を食べさせたり一緒に眠ったりした。
やがてヴィクトルは少しずつ笑顔を見せるようになり、エリシアの両親を父と母と呼び、エリシアのことを姉と慕ってくれるようになった。
ヴィクトルは幼い頃から聡明で、王立学園に通う今も成績は常に上位だという。そのためエリシアは、優秀な弟が家を継ぐのが当然だと思っているし、両親もそう考えている。弟が学校を卒業し、成人すれば正式な養子縁組をして、ファリノス家を継ぐことになるだろう。エリシアがロジェリオと婚約したこともあり、父は最近ヴィクトルに色々と領地経営についても教えているようだ。
幼い頃は『エリシアねえさま』と呼んでいつもあとをついて回っていたヴィクトルだったが、十三歳の時に王立学院へ入学した頃からは少し距離を感じるようになった。可愛い弟が離れていくことを寂しく思ったけれど、思春期というのはそういうものだと考えるようにしている。
少し癖のあるふわふわとしたこげ茶の髪と深い青の瞳を持つヴィクトルは、姉の目から見ても結構整った容姿を持っている。自分は十八でロジェリオと出会ったので、エリシアはそろそろ弟に恋人や婚約者ができる日も近いのではないかと少しだけ楽しみに思っている。
もっとも、そんなことを言えばうっとうしそうな顔をされるのは分かっているから、口には出さないけれど。
「今日、誰か来るの?」
ぶっきらぼうに問われて、エリシアはうなずく。
「えぇ、昼からロジェリオが来るの」
「そう。邪魔したら悪いから、おれは外出していようかな」
「邪魔なんてこと、ないわ。私たちは庭の四阿でお茶をしようと思っているから、ヴィクトルは気にせず家で過ごしていて」
「うん、考えておく」
それだけ言って、ヴィクトルはくるりと踵を返すと自室に戻ってしまった。相変わらず愛想のない子だと内心でため息をつきつつも、今日は久しぶりにたくさん会話をしたような気がする。昔みたいに笑ってはくれないけれど、弟が家族のことを大切に思っているのは分かっている。学業がどんなに忙しくても食事は必ず家族一緒にとるし、父親とはよく話をしている。エリシアが結婚して家を出ても、ヴィクトルがいればファリノス伯爵家は安泰だなと思う。
階下に降りたエリシアは厨房に向かい、料理人とお茶菓子の打ち合わせをした。ロジェリオはあまり甘いものが得意ではないので、チーズを使ったクッキーなども用意してもらうことにして、ついでに自分の好物であるマカロンも作ってもらうようちゃっかりと頼んでおいた。
柑橘を使ったお気に入りの茶葉を準備してもらうよう依頼し、厨房を出たところでエリシアは名を呼ばれて足を止める。
「エリシアお嬢様、こちらにいらしたのですか。旦那様と奥様がそろそろ出発されるようですよ」
足早に近づいてきたのは、執事のザカリアスだった。まだ三十にもならない若さだが、有能な彼は父のお気に入りだ。数年前に前任の執事が老齢のために引退し、今ではザカリアスがファリノス家の全てを取り仕切っている。忙しいはずなのに、彼はエリシアをわざわざ探しに来てくれたようだ。
「まぁ、もうそんな時間? お見送りに行かなくちゃ」
両親は今日、観劇に行く予定なのだ。人気の演目のチケットがようやく取れたのだと、母が嬉しそうにしていた。
家族が外出をする時は、いつも見送ると決めている。きっと弟のヴィクトルも、やってくるはずだ。ザカリアスを伴って、エリシアは玄関ホールへと急ぐ。
「そういえば、お嬢様が髪を上げていらっしゃるのは珍しいですね」
歩きながらザカリアスが話しかけてくる。弟と同じことを言うのだなと、エリシアはおかしくなってくすくすと笑った。
「たまには雰囲気が変わっていいでしょう?」
「えぇ、とてもよくお似合いですよ。もちろん、いつもの髪形も可愛らしいですが」
褒められて、エリシアは照れくさい気持ちになりつつ小さく礼を言う。ヴィクトルという弟と同じように、年の近いザカリアスのことを、エリシアは兄のように慕っている。彼は使用人だし、当然血の繋がりはないけれど、昔は勉強を見てもらったり、話し相手になってもらったりしていた。
貴族の家に仕える者としてはかなり異例だが、彼は孤児院出身の平民だ。ヴィクトルと同じく王立学院に通っていたザカリアスは、学年トップの成績で特待生だったらしい。だが平民のくせに生意気だと同級生の妬みを買い、就職のかかった試験の日に暴力を受けて受験をすることができなかった。
未来を絶たれてぼろぼろになっていたザカリアスと偶然出会ったのがエリシアの父で、事情を聞いてファリノス家で働かないかと声をかけたのだ。
拾ってもらった恩を返すように、ザカリアスはまじめに働き、執事の地位にまで登りつめた。父親の信頼も厚く、いずれはヴィクトルと共にファリノス家を盛り立ててくれるだろう。
きっちりと髪を撫でつけたザカリアスは、伯爵家の執事に相応しい優雅さを身につけている。エリシアの友人も、若く有能な執事がかっこいいと密かに騒いでいるくらいなのだ。
「今日は、アルベルダ公爵令息がいらっしゃる予定でしたね」
「そうなの。お庭でお茶をするつもりよ」
「それで厨房にいらしたんですね。お嬢様の好きな、マカロンがあるといいですね」
「ふふ、すでに作ってもらうようお願いしたわ」
「さすがお嬢様」
悪戯っぽく笑ってみせると、ザカリアスも楽しげに目元を緩ませた。




