過去、幸せなひととき
数か月後の二十歳の誕生日に結婚式を控えるエリシアは、婚約者のロジェリオと共に友人の主催する夜会へ参加していた。
エリシアの纏うドレスは、ロジェリオの瞳の色である深い緑色。アクセサリーを金色で統一したのは、彼の髪色を意識してのことだ。
政略結婚が主流の貴族社会では珍しく、エリシアとロジェリオはお互いに愛し合って婚約を交わした。
淡い金の髪に深い緑の瞳が印象的なロジェリオは、まるで恋愛物語の主役を張れそうなほどに整った顔立ちだ。由緒ある公爵家の嫡男であり、王城で文官として働く彼は、次期宰相候補の筆頭と名高い。
対するエリシアは、中堅伯爵家の令嬢だ。ロジェリオほど目を惹く容姿ではないものの、蜂蜜色の髪と明るい水色の瞳を持ち、可愛らしいと言われることが多い。
見た目も地位も完璧なロジェリオは、昔から数多くの女性に言い寄られていたが、彼はエリシア以外の女性には興味がないと言い切っている。そしてその言葉通り、いつもエリシアだけに甘く愛を囁いてくれる。
貴族同士とはいえお互いの爵位には少しばかり差があるけれど、エリシア自身はロジェリオの地位を目当てに近づいたわけではない。二人は同じ本が好きで、それをきっかけに親しくなったのだ。今日、エリシアが身に着けているピアスも、二人が好きな本に出てくる花がモチーフになっている。
二人は数曲を続けて踊ったあと、熱気にあふれた会場を出て庭へ向かった。人々の笑いさざめく声が微かに届くものの、庭は静かだ。ベンチに腰かけて、エリシアはひんやりとした夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「あぁ、ようやく二人きりになれた」
隣に座ったロジェリオは、しっかりとエリシアの腰を抱きながら小さくため息をつく。そして、エリシアの顔をのぞき込んだ。
「今夜もエリシアはすごく綺麗だけど……。ドレスの胸元が、少し開きすぎじゃないかな」
「そうかしら?」
首をかしげて、エリシアは自らのドレスを見下ろす。多少デコルテを見せるデザインだが、それほど露出が多いわけではない。とはいえエリシアは華奢な身体つきに反して豊満な胸を持つ。確かにぴったりと身体に沿うデザインは、エリシアのバストラインを強調していた。
ロジェリオは不満そうに鼻を鳴らすと顔をしかめた。
「踊っている最中、あちこちからエリシアに視線が向けられていたよ。着飾ったきみはいつも以上に美しいから、見惚れる気持ちは理解できるけどね」
エリシアを抱き寄せながら、ロジェリオは指先でドレスと肌の境目をつうっと撫でた。思いがけない触れ合いに思わず声を漏らしそうになったエリシアは、慌てて唇を噛みしめる。それを見て、ロジェリオは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「きみの肌を目にしていいのは俺だけだ。先週、ここにもっとしっかりと痕を残しておくべきだったな。そうすれば、こんなにも肌を見せるドレスは選ばなかっただろう?」
ドレスの胸元に少し指を忍び込ませ、ロジェリオは胸の谷間をそっとなぞる。まるで、先日彼に抱かれた時のことを思い出せと言っているようだ。最近は、将来を約束した者同士であれば親密な触れ合いをすることも多い。そのため、エリシアはすでに何度もロジェリオに抱かれている。先週の甘く熱い時間が脳裏をよぎり、身体が熱くなるのが分かった。
うつむくエリシアの耳元に、ロジェリオはそっと唇を寄せる。
「あとで休憩室に行こうか、シア。今夜はドレスで隠れる部分に、たっぷりと痕をつけさせて」
吐息まじりに囁かれた言葉に、ますます体温が上がった。二人きりで甘い時間を過ごす時だけ、ロジェリオはエリシアのことを『シア』と呼ぶ。二人だけの秘密の愛称で、彼にそう呼ばれることが大好きだ。だけど親密な行為を匂わされると、どうしても照れてしまう。
動揺を隠すように視線を逸らし、横髪を指先にくるくると巻きつけていると、ロジェリオがくすりと楽しそうに笑った。
「エリシアの可愛い癖が、出てるよ」
「あ……」
指摘されて、エリシアは頬を赤らめる。照れると指先で髪をいじる癖があるのだ。なるべく気をつけるようにしていても、ロジェリオといるといつだってドキドキしてしまって、無意識のうちに癖が出る。
「いつも、この指にキスをしたくなるんだ」
そう言って、ロジェリオはエリシアの手を取ると指先にそっと唇を押し当てた。じっと見つめる緑の瞳の奥には、熱情が宿っている。ゆっくりと手を引かれ、顔が近づいてきたので、エリシアはそっと目を閉じた。
啄むような口づけは、徐々にお互いの舌を絡める濃厚なキスに変わっていく。ここが外だということも忘れて、エリシアは甘い触れ合いに溺れていた。
「ん……っ、ロジェ……リオ」
「うん、もっと名前を呼んで、シア」
「ふ、……ぁ、リオ……っ」
呼吸すら奪うような熱く激しいキスを受け止めながら、エリシアは懸命にロジェリオの名を呼ぶ。ロジェリオはエリシアに名前を呼ばれるのが好きで、甘い触れ合いの最中に舌足らずにエリシアが呼ぶ『リオ』という愛称をとりわけ気に入っている。彼が『シア』と呼ぶのと同じように、エリシアが『リオ』と呼ぶのも親密な時間を過ごしている時だけだ。
エリシアの返事を聞いたロジェリオは嬉しそうに微笑み、指輪をはめてくれた。彼の髪色のような淡い金の枠に、瞳と同じ色をしたエメラルドが輝いている。エリシアのほっそりとした指に、指輪は驚くほどぴったりと馴染んだ。
嬉しくて、幸せで、エリシアは指輪のはまった左手を何度もかざして確認する。庭園灯の淡い光を受けて、エメラルドがきらりと輝いた。
喜びの気持ちを伝えるために、エリシアはロジェリオの胸の中に飛び込んだ。しっかりと抱き止めてくれるぬくもりにも幸せを感じながら、エリシアは彼の顔を見上げる。
「ありがとう、ロジェリオ。すごく嬉しい。あの本に出てくるシーン、そのままだわ」
「婚約の証として指輪を贈ると決めた時、絶対にこうしようと思ったんだ」
「きっと私、一生忘れないわ。あなたの瞳の色みたいなエメラルドも、本当に素敵」
「常に自分の色を身に着けていてほしいという、俺の我儘だけどね」
「我儘なんてことはないわ。ロジェリオといつも一緒にいるみたいで、嬉しいもの」
「エリシアには、いつも俺のことを思い出していてほしいから」
「それなら、私もロジェリオに何か贈らなくちゃ。あなたにも、私のことをいつも考えていてもらいたいのよ」
何を贈るのがいいだろうかと考え込むエリシアの耳元に、ロジェリオがそっと唇を寄せた。
「俺は、いつだってエリシアのことを考えているよ。だけど、きみの美しい空色の瞳を思わせる何かを身に着けられたら、すごく素敵だな」
「カフスボタンか、ラペルピンがいいかしら。ピアスもいいわね。とびきりのものを贈るから、待っていて」
「うん、楽しみにしてる」
囁いたロジェリオが、そっとエリシアの頬に手を触れる。そのまま上を向くよう促され、エリシアは微笑んで目を閉じた。
再び重ねられた唇は、うっとりするほど甘い。お互いの想いを伝え合うように何度も口づけを交わし、二人は固く抱き合った。
ロジェリオの胸に頬を寄せていると、彼の鼓動が感じ取れる。いつもより少し速いのは、さっきのキスの名残だろうか。
その時風向きが変わったのか、会場の音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディーに、二人は思わず顔を見合わせて笑う。
「この曲、懐かしいわね」
「あぁ、エリシアと初めて踊った曲だ」
スッと姿勢を正したロジェリオは、エリシアにまっすぐ手を差し出した。
「俺と踊っていただけませんか?」
「えぇ、もちろん」
初めて出会った時と同じように誘われて、エリシアは笑顔で彼の手を取った。
誰もいない庭園で、二人はゆっくりと踊り始める。動くたび視界に入る指輪が嬉しくて、エリシアはくすくすと笑った。
「すごく楽しいし、すごく幸せ」
「うん、俺も」
「ずっとこの幸せが続くといいな」
「シアがそばにいてくれたら、俺は世界一幸せだよ」
「ふふ、私もリオと一緒にいられることが何よりの幸せよ」
曲が終わるのと同時に、二人はまた口づけを交わした。くるくると回ったことで少し乱れた髪を整えるように、ロジェリオがエリシアの頭を撫でる。その際に指が引っかかったのか、右耳からピアスがはずれて地面に落ちた。高い音を立てて地面で弾んだピアスに、ロジェリオが慌てて手を伸ばす。
「あ……ごめん」
ピアスを拾い上げたロジェリオは、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「飾りが取れかかっている。今、落としたせいかな」
「落としたくらいでは、そうならないわ。お気に入りだから使用頻度が高いせいで、金具が緩んでいたんじゃないかしら」
ロジェリオの手の中にあるピアスを、エリシアものぞき込む。かすみ草をモチーフにした金色のピアスは、彼が言うように花の一部が取れかかっていた。
二人の出会いのきっかけとなった花で、お互いに好きな本の中で印象的に使われている花でもある。エリシアがそのシーンを好きだと言ったことから、ロジェリオが贈ってくれたのだ。彼からもらったプレゼントはたくさんあるけれど、このピアスは最初の贈り物で、エリシアもとりわけ大切にしていた。
「購入した店に、修理ができないか問い合わせてみるよ。一旦預からせてもらっても構わないかな?」
「えぇ、ありがとう」
ロジェリオはピアスをハンカチで包むと、そっと胸のポケットへとしまい込んだ。そして、エリシアの腰を抱き寄せる。
「風が出てきたし、中に戻ろうか。そろそろ、キスだけじゃ我慢できなくなってきた」
「まぁ、ロジェリオったら」
耳に息を吹き込むように囁かれて、エリシアは熱を持った身体を自覚しつつ笑う。
視線を絡ませ小さく笑い合って、二人はゆっくりと庭を後にした。




