プロローグ 悪夢
「――っ!」
自らの叫び声と共に、エリシアは飛び起きた。
全身にすごい汗をかいていて、まるで全力疾走をしたかのように息も荒い。
涙がぼろぼろと頬を伝い、シーツへ落ちていく。
そこが見慣れた自室のベッドの上であることを確認して、エリシアはハッと周囲を見回した。
どうしてここにいるのだろう。エリシアは、庭の四阿にいたはずなのに。
ベッドの薄い天蓋越しに見える窓からは、明るい日差しが降り注いでいる。そのことにも、エリシアは強烈な違和感を抱く。さっきまで、雨が降っていたはずだ。
空は青く晴れ渡っているのに、エリシアの耳の奥には激しい雨音が残っている。同時に、最愛の人の最期の様子が頭の中に浮かび、エリシアは低く呻いて頭を抱えた。
「ロジェリオ……」
絞り出すように、エリシアは婚約者の名をつぶやく。
エリシアの目の前で、ロジェリオは死んだ。紅茶に毒を盛られて。
唇からあふれた血も、苦しげに歪んだ顔も、覚えている。光を失ったうつろな瞳も、急速に失われていく体温も。
まだ、冷たくなった彼の手の感触が残っている。どんなに名前を呼んでも、握り返してくれることのなくなった大きな手。
その時、ふと左手に違和感を覚えて視線を落とす。そこにあるべき指輪がないことに気づいて、エリシアは息をのんだ。
左手の薬指に着けていた指輪は、婚約の証としてロジェリオから贈られた宝物だった。彼の瞳の色によく似たエメラルドをあしらったもので、就寝時にも外したことはなかった。指輪がないことが、愛する人の喪失を更に強調する。
「どうして……私は、生きているの」
掠れた声で、エリシアはつぶやく。その拍子に、また涙が頬を伝って落ちた。
エリシアも、確かに死んだはずだ。ロジェリオの後を追うために、ナイフのように尖ったカップの破片を思い切り胸に突き刺したことを覚えている。
焼けつくような痛みも、息ができない苦しさも、口の中に感じた血の味だってまだ残っているような気がする。
それなのに、どうしてここにいるのだろう。そして、ロジェリオを殺したあの男は、どこへ行ったのか。
家族同然の存在として接していた相手は、いつからかエリシアに歪んだ執着心を抱いていた。異性として見たこともなかったのに、あの男はエリシアと愛し合っていると思い込み、邪魔なロジェリオを排除すると言って彼の紅茶に毒を盛ったのだ。
これで一緒に幸せになれるねと笑顔を向けられたことを思い出して、背筋がぞっと寒くなる。恐ろしくて、気持ち悪くて、身体の震えが止まらない。
あの男から逃れるため、エリシアは自ら命を絶ったはずだ。
――でも、あれは……誰?
エリシアを連れて行こうとした手を振り払ったことは覚えているのに、顔が思い出せない。そこだけ靄がかかったようになって、分からない。
目の前で最愛の人を失ったショックと悲しみ、そして手を下した相手が信頼していた人物だったという衝撃のせいで、記憶が混乱しているのかもしれない。
思い出そうとするだけで吐き気に襲われて、エリシアは口元を覆って低く呻いた。
エリシアに近しい存在で、あの場にいた可能性のある人物は、二人。執事のザカリアスか弟のヴィクトル――そのどちらかだ。
どちらの顔を思い浮かべても、よく分からない。だが、胸の奥がざわざわとして今にも吐きそうになる。
その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。外から呼びかける声は、侍女のダナのものだ。
「おはようございます、お嬢様。今日もいいお天気ですよ」
そんな声と共に、馴染みの侍女がベッドのカーテンを開ける。エリシアの顔を見た瞬間、ダナは心配そうに眉を寄せた。ハンカチを差し出されて、まだ涙が止まっていないことに気づく。
「どうなさったんですか、お嬢様。何か悪い夢でも?」
「夢……」
ぼんやりと、エリシアは侍女の言葉を繰り返した。
あれが悪い夢だったなら、どれほどいいことか。だが、エリシアの手のひらには、まだロジェリオの手を握りしめた時の感覚が残っている。そして自らの血の、生温い感触も。
エリシアの涙を拭いながら、ダナは優しく背中をさすってくれた。
「お顔の色もあまりよくありませんね。来月のお誕生日に向けて、今日はドレスの採寸を予定しておりましたが、キャンセルいたしましょうか?」
「誕生日……? ドレス?」
思わず問い返すと、ダナは何を言っているのだと不思議そうな顔をしつつうなずいた。
「えぇ。十九歳のお祝いに、旦那様がドレスを新調してくださると、お嬢様も喜んでいたでしょう」
「十九……?」
エリシアは、侍女の言葉を呆然と繰り返す。ついさっきまで、エリシアは二十歳の誕生日を数か月後に控えていたはずだ。ロジェリオとの結婚式は、エリシアの二十歳の誕生日に執り行う予定だったのだから。
「……エリシアお嬢様? やはり体調が優れませんか?」
黙りこくるエリシアを見て、ダナは心配そうな顔になる。エリシアは急いで笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、少し寝ぼけていたみたい。もう平気だわ。目元を冷やしたいから、濡れタオルを持ってきてくれるかしら」
ごまかすようにそう返事をすると、ダナはすぐに準備しますと言って部屋を出て行った。
一人きりになったベッドの上で、エリシアは何もはまっていない左手の薬指をじっと見つめる。そして、寝衣のボタンを外して胸元を確認した。
肌には、うっすら傷跡が残っている。それは、破片を突き立てた場所だ。指先でなぞると、微かに肌が盛り上がっているのが分かった。こんな場所を傷つけた記憶は、ない。ついさっき、自ら命を断とうとした時以外には。
「この傷があるということは……あれは、夢じゃないわ」
確信をもって、エリシアはつぶやく。
どうしてこうなったのかは分からないが、エリシアは未来の記憶を持ったまま、およそ一年の時をさかのぼったらしい。
来月に十九の誕生日を迎えるということは、まだロジェリオと出会っていない。エリシアが彼と出会ったのは、十九歳の誕生日の直後に開かれた夜会だったから。
――もしかして、ロジェリオの死を回避するために、私は時を戻ったのかしら。
心の中でつぶやけば、それが真実のような気がしてくる。
エリシアと出会わなければ、ロジェリオが殺されることはない。
だって彼は、エリシアと婚約をしたことで命を奪われてしまったのだから。
エリシアは胸元の傷にそっと手を当てた。あの時死んだはずの自分がこうして生きているのは、きっとロジェリオを守るためだ。
最愛の人を死なせないために、エリシアは彼と交わることのない人生を選ぶことになる。だけど、ロジェリオが生きていてくれたらそれでいい。
――私が、あなたを守るから。
そう決意して、エリシアは硬く拳を握りしめた。
手の中に残る、ロジェリオのぬくもりを閉じ込めるように。




