愛しているのは、あなただけ
「エリシア……!」
部屋に飛び込んできたのは、ロジェリオだった。雨に濡れたらしく全身ずぶ濡れで、額の傷が開いたのか、包帯には血が滲んでいる。
息を荒げるその顔は、見たことがないほどに険しい。
「ど、どうしてここに」
身体を起こしたザカリアスは、狼狽したように視線をさまよわせる。まさか居場所を突き止められるとは思っていなかったようだ。
もちろんエリシアも、助けが来たのが信じられない気持ちでいっぱいだ。
「……リオ」
思わず名前を呼ぶと、ロジェリオは微かに表情を緩めた。だがまたすぐに厳しい顔になると、まっすぐにザカリアスに向かって駆けてくる。
体当たりをするようにぶつかられて、ザカリアスの身体はベッドから落ちて床に倒れた。ロジェリオはザカリアスをうつ伏せにすると、両腕を背中でまとめて掴み、体重をかけて押さえ込んだ。
そこに、騎士団の制服を着た男たちも部屋になだれ込んでくる。ザカリアスはあっという間に拘束され、身動きが取れなくなった。
部屋の隅には弟のヴィクトルの姿もあって、どうやら彼らが騎士団を呼んでくれたのであろうことが分かる。
エリシアを抱き起こそうとしたロジェリオは、右手首に繋がれた枷に気づいて表情を歪めた。
「なんてことを……」
震える声でつぶやいて、ロジェリオはエリシアをしっかりと抱きしめた。彼の身体は雨に濡れて冷えていたけれど、その腕に包まれているというだけでエリシアのこわばった身体はほぐれていくようだ。
「あいつに何をされた? シア。教えて」
真剣な顔で見つめる彼は、エリシアが乱暴されていないかどうかを心配しているのだろう。エリシアは、まだ微かに震える唇を噛みしめて、小さく首を横に振った。
「何も、されてないわ」
「本当に? どこにも触られてない?」
「頬を撫でられたけど、それだけ。服を脱がされそうにはなったけど、その前にリオが来てくれたから……」
「っ、本当に、ぎりぎりだったんだな」
最悪のことになっていたかもしれないと思うと、まだ身体の震えが止まらない。ロジェリオも同じように、震える息を吐いた。
エリシアを守るように腕に囲ったまま、ロジェリオは床に転がされたままのザカリアスを見下ろす。その視線は、見たことがないほどに冷たいものだった。
「枷の鍵はどこにある」
威圧するようなロジェリオの声には、逆らうことのできない厳しさを感じる。怯えた顔になったザカリアスが、慌てたようにポケットに視線を向けた。
それを受けて、騎士がザカリアスの服の中から枷の鍵を探し出す。枷を外してもらい、ようやく自由になった手をさすると、ロジェリオに再び抱きしめられた。
「もう、大丈夫だ。怖い思いをさせて、すまない」
「リオのせいじゃないわ」
「それでも、俺はきみを守ると約束したのに……」
抱きしめる腕も、耳元に感じる吐息も震えている。エリシアはロジェリオのぬくもりをもっと感じたくて、強く抱きついた。
どうやらロジェリオは、以前からザカリアスの動向を探るために密かに監視をつけていたらしい。その中でザカリアスがこの古びた別荘を手に入れていることを把握し、人の出入りを見張っていたという。
ザカリアスは本当にエリシアとここで暮らすつもりだったようで、食料や日用品の類も用意されていた。持ち込んだ荷物の中には、拘束具のほかエリシアを連れ去る時に使用した睡眠薬、そして発情効果のある薬まであった。さらに部屋の中には、エリシアの私物がいくつもあった。失くしたと思っていたアクセサリーや小物、それに古くなったからと処分したはずのハンカチや靴下もあって、ザカリアスのエリシアに対する執着心を感じておぞましい。
気分が悪くなって小さく呻いたエリシアの肩を、ロジェリオが抱いてくれる。隣では、弟のヴィクトルも心配そうな顔をしていた。
ヴィクトルは学園の講師との約束があったので早い時間に家を出たものの、途中で今日があの惨劇の日であることを思い出したらしい。
急いで家に戻ったが、エリシアはすでにザカリアスと出発したあとだった。
ロジェリオも同じ頃、ザカリアスが別荘へ誰かを連れ込んだようだという報告を受けており、病院を飛び出したところでヴィクトルと出会って一緒にここへ来たということのようだ。
学生のヴィクトルでは騎士団をすぐに出動させることはできなかったが、ロジェリオが騎士団に連絡を入れ、ここまで引き連れてきたそうだ。公爵令息の婚約者が攫われたとなれば、騎士団が動かないはずない。
以前にロジェリオが危惧していたように、今回はロジェリオを殺すことよりもエリシアを連れ出すことを優先したのだろう。エリシアの行動が前回と色々と違っていたことが、影響したのかもしれない。
ロジェリオはエリシアをヴィクトルに託すと、拘束されたザカリアスのそばにゆっくりと歩いていった。何も言葉を発していないのに、ロジェリオからはひりひりとした怒りの空気を感じる。それはザカリアスも分かったようで、逃げるように身体を縮め、視線をさまよわせた。
「おまえは、自分が何をしたか分かっているのか」
微かに震えた低い声には、隠しきれないほどの怒りが滲んでいた。ザカリアスは目を合わせたくないようで、視線を床に落としたままだ。
「誘拐、監禁、暴行未遂。どれも決して許されるものではない」
「だ、だってエリシアはおれのことを愛してるって……だから、だからおれは……」
「愛してないって、何度も言ってるでしょう。勝手な勘違いはやめて」
ロジェリオが来てくれたことで気持ちが落ち着いたせいか、エリシアも冷静な声でザカリアスに伝えることができた。それでもザカリアスは、信じられないといった表情だ。
「でも、だって……エリシアは、おれを見て笑ってくれた。それは、おれのことが好きだからだろう! 愛してるって、そう言ってると思ったんだ!」
「直接、エリシアの口から聞いたことがあるのか? おまえのことを愛していると?」
ロジェリオに問われて、ザカリアスは視線を泳がせる。当然エリシアは、そんなことを言うはずがない。
「っ直接は言われてないけど、だけど」
「全ては、都合のいい勝手な妄想だ。エリシアはおまえのことを愛してなんかいない」
きっぱりと言い切ったロジェリオを、ザカリアスは憎々しげに見上げる。ぶるぶる唇を震わせながら、ロジェリオにぶつける言葉を探しているようだ。
「っ、あんたがエリシアの気持ちを勝手に語るな……! あんたは馬車の事故で死ぬはずだったのに、なんで生きてるんだ……っ!」
「やはり、あの事故はおまえが仕組んだことだったのか」
平坦な声で尋ねるロジェリオに対して、ザカリアスは吹っ切れたようにうなずいた。
「あぁ、そうだよ。本当なら、あんな近くで事故を起こすはずなかったのに……。あんたさえいなければ、エリシアはおれのものになった……! 愛しあうおれたちを、あんたが引き裂いたんだ!」
激高して叫ぶザカリアスを見て、エリシアは思わず前に踏み出した。
「あなただって、私の気持ちを勝手に決めつけてるじゃない。何度でも言うわ。私が愛しているのは、ロジェリオだけ。誰に何を言われようと、これだけは絶対に変わらないわ」
「嘘だ、おれたちは愛しあっていたはずだ……! そうだろう、エリシア……っ」
縋るような眼差しを向けてくるザカリアスを見て、エリシアは目を合わせないまま横を向く。ロジェリオが背中に庇うようにエリシアを抱き寄せてくれた。
「おまえは、エリシアの名を軽々しく呼び捨てにできる立場ではない。――連れて行ってくれ。もう顔も見たくない」
吐き捨てるようにロジェリオが言い、騎士にザカリアスを連行するよう命じる。騎士に腕を掴まれて引きずられるようにしながら、ザカリアスはまだエリシアの名前を呼び続けていた。それを聞かせないようにと、ロジェリオがエリシアの耳を塞ぐ。
抵抗するように身体をよじり、ザカリアスは唾を飛ばしてエリシアに呼びかけ続ける。一切反応してはならないと無表情を貫くエリシアを見て、ザカリアスもようやく現実を受け止めたのだろうか。顔から表情が抜け落ち、憔悴した様子になる。
「……そんな。エリシアと幸せになれないなら、おれは生きていたって意味がないじゃないか。こんなの、死んだほうがましだ……」
ぽつりとつぶやいたザカリアスは、突然大声を上げると騎士の腕を振り払った。そして、よろめきながら窓へと一直線に向かう。窓の景色から察するに、ここは二階以上だ。窓から外に逃げられるわけがない。
それを見たヴィクトルが、ハッと息をのんだ。
「止めて! そいつは身を投げて死のうとしている!」
鋭い叫び声に、騎士がすぐさまザカリアスに追いすがる。窓へたどり着く前に捕らえられたザカリアスは、再び床に引き倒された。
「絶対に、命を絶たせないで。ちゃんと罪を償わせないと。……決して『戻らせる』わけにはいかないんだ」
小さな声でつけ加えた言葉の意味は、きっとエリシアとヴィクトルにしか分からないだろう。だけど、ザカリアスが命を絶って死に戻るようなことがあれば、再び恐ろしい未来が訪れるかもしれない。
騎士がザカリアスの口に布を噛ませ、厳重に拘束する。ザカリアスは唸りながら、往生際悪くエリシアに訴えかけているが、ロジェリオが隠すように腕の中に囲ってくれた。
悲鳴のような唸り声を残してザカリアスが連行されていき、その声が完全に聞こえなくなるまで、ロジェリオはエリシアをしっかりと抱きしめていた。




