歪んだ執着心
真っ暗な闇の中で、エリシアは必死に走っていた。
あの男から――ザカリアスから逃げなければならない。だけど、どこへ行けばいいのか分からない。まるで泥の中にいるように足は重いし、どんなに走っても前に進んでいる気がしない。
うしろから、近づいてくる足音がする。捕まったらおしまいだ。
恐怖のあまり、呼吸がどんどん速くなる。いつの間にか足元は本当に泥に覆われていて、エリシアの足首に纏わりつく。
早く、早く逃げなければ――。
ハッとして目を開けたエリシアは、勢いよく体を起こした。見慣れない古びた部屋のベッドの上に、エリシアは寝かされていたようだ。窓の外は激しい雨が降っており、そこから見えるのは深い森。
じゃらりと重たい音がしたので手首に視線を落とせば、右手には枷が取りつけられたままだった。
「……っ!」
鎖はベッドの柱に繋がれていて、手首を引いてみても外すことはできない。それでもエリシアは、必死になって枷を外そうとする。動くたび、鎖がじゃりじゃりと耳障りな音を立てた。
その時、部屋のドアが開いた。顔を出したのはやはりザカリアスで、いつもの執事服姿ではなく、ラフな服装をしている。
「あぁ、起きたのか。おはよう、エリシア。気分はどうかな」
親しげに話しかけてくるのが信じられない。まるで、恋人の目覚めに気づいたかのようなザカリアスの言動が、気持ち悪くてたまらない。
彼は本当に、エリシアと愛し合っていると思い込んでいるのだと、背筋がぞっとした。
返事をすることなく、エリシアは逃げようとした。だが、手首の枷が動きを制限して、ベッドから下りることもできない。
それを見て、ザカリアスは楽しげに笑うとベッドに腰かけた。彼の重みでベッドがぎしりと軋む。
「どうして逃げるんだい、エリシア。ようやく二人きりになれたのに。笑ってよ」
「や……っ、来ないで」
必死に顔を背けるものの、ザカリアスが手を伸ばし、頬をなぞった。それだけで、吐き気を催すほどの嫌悪感を覚える。
「エリシアはまだ混乱しているだろうから、しばらく手はこのままにしておこうね。暴れて怪我をされたら困るからね。大丈夫、ここは安全だよ」
「嫌、離して……っ」
震えるエリシアに構うことなく、ザカリアスは機嫌よさそうに部屋の中を見回した。
「少し古いけど、いい部屋だろう? おれたちの新居だよ。ここでずっと一緒に暮らそうね」
まるで歌うような口調で、ここは没落した貴族が所有していた別荘だと教えられる。窓の外の景色から想像はしていたけれど、森の中にあるらしい。不便な場所のために放置されていたのを、ザカリアスが安く買い取っていたのだという。
「そ、そんなこと……できるはず、ないわ。ロジェリオも……お父様だって、私がいなくなって黙っているはずないもの」
懸命に声を振り絞れば、ザカリアスは楽しげに目を細めた。その顔はまるで、エリシアを慈しむようだ。
「あぁ、まだおれたちの仲を引き裂かれるんじゃないかって心配してるんだね。可愛いエリシア、怖がらなくて大丈夫だよ。ちゃんと準備はしてきたんだ。誰もおれたちを見つけ出すことはないよ」
「どういう……意味」
「おれたちの乗った馬車は、事故によって川に落ちてしまうんだ。天はおれたちの味方をしてくれているのか、昨日の雨で川は増水している。遺体は流されて、見つからないだろうね」
ザカリアスは、病院への道中に通る川のそばが『事故現場』だと笑う。確かにそこは少し道が狭く、川に落ちれば無事では済まないだろう。
乗っていた馬車をそこで川に落とし、近くに用意していた別の馬車に乗り換えてここまでやってきたらしい。人通りの少ない場所だから目撃者はないだろうし、壊れた馬車にはファリノス家の紋章が施されているから、エリシアは不幸な事故に遭ったと誰もが思うに違いない。
「どうせ捜索はすぐに終わる。それまでは、ここでおとなしくしていようね。少なくとも、あいつがエリシアを諦めるまでは油断できない」
ロジェリオのことを口にするザカリアスの目は、暗く翳っている。青ざめた頬は、苛立ちか怒りのためか、ぴくぴくと震えていた。
「公爵家なんて身分をちらつかせて、おれからエリシアを奪ったんだ……。あんな男と婚約させられて、きっと怖かっただろう。あいつから逃げるためには、こうするしかなかった。だけど、エリシアが死んだことにしておけば、さすがのあいつだって諦めるに違いない。ここで、おれと一緒に新しい人生を始めよう」
晴れやかな笑みを浮かべて、ザカリアスはエリシアの手を握る。親指の腹で手の甲を撫でられて、肌が粟立つほどの嫌悪感を覚えたエリシアは、思わずその手を跳ね除けた。
「触らないで……っ」
振り払われた手を見つめたザカリアスは、ゆっくりと口角を上げる。そして、熱に浮かされたような目でエリシアを見つめた。
「可哀想に、エリシア。まだ、あの男を愛していると思い込まされたままなんだね。本当は、おれのことを愛しているはずなのに。あいつはエリシアを洗脳したんだよ。許せないよね」
「違う、私はロジェリオのことが好き……! あなたのことなんて、なんとも思ってない!」
「あいつは、よっぽど強く暗示をかけたんだな。心を操ってまでエリシアを手に入れたって、なんの意味もないのに。エリシアの心がおれに向けられていることは、ちゃあんと分かっているからね。少しずつ洗脳を解いていこうね」
エリシアの言葉は、ザカリアスに届いていないようだ。彼は憐れむような視線でエリシアを見つめるばかりで、エリシアがロジェリオのことを愛しているのは真実ではないと考えているようだ。
「洗脳なんてされてないわ……! お願い、これを外して。家に帰して!」
「ここにあいつはいないから、怖がって嘘をつかなくてもいいんだよ。エリシアはいつもおれのことを見つめてくれていたし、笑いかけてくれただろう? あれは、愛しているっていうサインだよね」
曇りのない笑顔でエリシアを見つめるザカリアスは、心からそう思い込んでいるのだろう。それが恐ろしくてたまらなくて、エリシアは何度も首を横に振った。
「違う……そんなこと……っ!」
「あの男から花束が届いた時、エリシアはすごく嫌そうな顔をしていたじゃないか。おれに、二人だけの秘密にしてってお願いしてくれただろう。おれが嫉妬してると思ったのかな? 可愛いね」
「違う……違う……っ」
ザカリアスがそう言うのを聞いて、エリシアは否定の言葉を繰り返す。
ロジェリオから花束が届いたのは、まだ婚約を回避しようと必死になっていた頃だ。確かにあの時、エリシアはザカリアスに花束のことを秘密にしてほしいと頼んだ。それを、そんな風に受け取るなんて、思ってもみなかった。
自分の行動がザカリアスの勘違いを加速させていたのだと今更気づいて、エリシアは唇を噛む。
「旦那様だって、おれとエリシアの仲を認めてくれていた。おれたちは結婚して、ファリノス家を継ぐ予定だったのに。――あいつのせいで、台無しになった」
「え……」
ザカリアスの言葉がますます理解できなくて、エリシアは混乱のまま目を見開く。ロジェリオとの婚約を喜んでくれていた父が、エリシアとザカリアスを結婚させようと考えるはずがない。
困惑して何も言えないエリシアの前で、ザカリアスは機嫌よさそうに口を開く。
「去年だったかな、旦那様に声をかけられたんだ。これからもファリノス家を支えてくれって。それって、おれがファリノス家を継ぐという意味だろう? だからおれは、エリシアの夫として家を守るんだって心に誓ったんだよ」
「違う、それは違うわ……! お父様はヴィクトルに家を継がせるつもりで……っ」
エリシアは激しくかぶりを振る。ザカリアスに父が声をかけていたのは、エリシアもその場にいたから覚えている。
父はザカリアスに、これからも執事としてよろしく頼むと伝えたに過ぎない。いずれこの家を継ぐヴィクトルを支えてやってほしいと、そういう意味だった。それを、どうしてこんな勘違いをしてしまったのか。
「うん、ヴィクトルも多分エリシアを狙っていたからね。姉弟が結ばれるはずないのに、気持ち悪いやつだよ。あんまり邪魔をするようなら、排除しようかと思ってたくらい」
あっさりとヴィクトルをも傷つけるような発言をするザカリアスを見て、エリシアの肌は粟立った。
「おれたちの仲は秘密だったけど、エリシアがいつも愛してるって笑いかけてくれたから、嬉しかったよ。早くおれたちが愛しあっていると皆に知らせたくてたまらなかった。だから、結婚式の日取りをいつにしようか、旦那様に相談しようと思っていたんだ。なのに……」
ありもしないことをぺらぺらと語りながら、ザカリアスはため息をつく。一度目を閉じたあと、顔を上げた彼の目は、再び暗く翳っていた。
「あいつが、エリシアに目をつけたんだ。公爵家には逆らえないからって、旦那様もエリシアを差し出すことしかできなかった……。エリシアだって、好きでもない相手を愛しているふりをするのは、苦痛だっただろう?」
「そんなわけ……ないじゃない……」
エリシアは必死に否定するものの、ザカリアスの耳には届いていないようだ。
「可哀想なエリシア。いつもおれに、助けてって視線を送っていたよね。だから、連れ出すことにしたんだ。本当は馬車の事故であいつを殺せたらよかったんだけど、残念なことに大した怪我もせず、まだ生きてるし。悪運だけは強いんだね、あの男」
その発言に、エリシアは思わず息をのんだ。やはりロジェリオの事故は、ザカリアスが仕組んだことだったのか。
「あの事故は、あなたが企てたのね……?」
「あぁ、そうだよ。本当はもっと大きな事故になって、あいつは死ぬはずだった。そうしたらエリシアは自由になれたのに。だけどあのガキが飛び出しなんてするから、おれの計画は丸潰れだよ」
「酷い……なんてことをするの。あなたのせいでロジェリオだけじゃなく、御者だって怪我をしたのよ!」
怒りのあまり震える声でそう言うものの、ザカリアスはそれになんの問題があるのかとでも言いたげな表情だ。
「あいつがエリシアをおれから奪わなければ、おれだって事故なんて仕組まなかったさ。だから、全部あいつが悪いんだ。でも、ようやくエリシアを取り戻すことができたからもういいんだ。あとは、エリシアが自分の心に素直になればいいだけだよ」
そう言って、ザカリアスはエリシアの顔をのぞき込んできた。吐息がかかるほどの近さが、不快でたまらない。
「嫌……! 私は、ザカリアスのことなんて好きじゃない。愛してないわ! 私が愛しているのはロジェリオだけなの!」
「はぁ、困ったな。やっぱり先にあいつのことを殺しておくべきだったかな。あいつが死ねば、エリシアの洗脳も解けるだろう。少し危険な橋を渡ることになるかもしれないけど、殺しに行ってこようか」
恐ろしいことをなんでもないことのように口にするザカリアスが、怖くてたまらない。かつてザカリアスはロジェリオを毒殺したのだから、彼は人を殺すことを躊躇いはしないだろう。
震えながら、エリシアは首を振った。
「いや……、やめて……」
「それならエリシアは、おれを愛していたことをちゃんと思い出さなきゃならない」
ひやりとした声で言って、ザカリアスはエリシアの頬を撫でた。生ぬるい体温が、気持ち悪くてたまらない。
「いつもみたいに笑ってよ、エリシア。おれを愛してるって、そう言って?」
催促するように、ザカリアスの指がエリシアの唇をなぞる。恐ろしくて、不快で、瞳からは涙があふれて頬を伝っていった。
だけど、このままザカリアスの妄想につきあっているわけにもいかない。
何度も震える息を吐きながらも、エリシアは決意を込めてザカリアスを見上げた。
「……っ嫌。私はあなたを愛していない。私が愛しているのは、ロジェリオただ一人よ。あなたはファリノス家の執事。私にとっては、使用人でしかないわ。家を継ぐのはヴィクトルだし、あなたとの結婚なんてありえない。その親しげな口調もやめて。すごく……不快だわ」
一気にそう言うと、エリシアは深い息を吐いた。内心では恐ろしくてたまらないものの、懸命に背筋を伸ばして姿勢を保つ。
かつては、親しい兄のようにも思っていた。異性としての愛情を抱いたことはなかったけれど、心から信頼していたはずだった。
こんなことがなければ、ずっといい関係でいられただろうにと思うと胸が苦しくなるが、そんな未来はもうどこにもない。
しばらく黙っていたザカリアスは、やがて呆れたようなため息をついた。それは酷く投げやりに聞こえて、エリシアはびくりと身体をこわばらせる。
「本当に頑固だね、エリシアは。もしかしたら、身体から分からせた方がいいのかな? うん、どうせ結婚するんだから、今抱いても問題ないか」
「いや……っ」
思わず逃げようと身体をよじるものの、手首の拘束がエリシアの動きを封じる。ザカリアスはエリシアの肩を掴むと、ベッドに押しつけた。倒れたエリシアの上に、のしかかるようにして覆いかぶさってくる。自由になっていた左手も押さえつけられ、両脚で胴を挟むように固定されて、ほとんど動くことができない。
「ずっとそばで見てきたんだ。エリシアは、本当に美しく育った。どんなに触りたいと思っていたことか」
ザカリアスの視線は胸のふくらみに注がれていて、それが気持ち悪くてたまらない。
「眠っているエリシアに少しずつ色々なことを教えていくのも楽しいかなと思ってたんだけど、やっぱり人目があると難しいね。確かあの時も、ヴィクトルに邪魔されたんだ。あいつもエリシアを狙っていたから、やっぱりここから出るのは危険だよね」
その言葉を聞いて、エリシアの脳裏にザカリアスが用意した茶葉を使ったという紅茶のことがよぎる。やはりあの紅茶には、何かが仕込まれていたのだろう。あの時ヴィクトルが来てくれなかったら、何をされていたか分からない。
「嫌っ……やめて、触らないで……!」
腕を突っ張り、足をばたつかせて抵抗を試みるものの、身体は全然自由にならない。細身に見えるザカリアスだが、やはり男女の力の差を見せつけられたようで、怖くなる。
「おれたちは、夫婦になるんだ。夫の言うことは聞くものだよ、エリシア」
暴れるエリシアを軽々と押さえつけながら、ザカリアスが顔を近づけてくる。口づけられるのが嫌で、エリシアは必死に顔を背けて目を閉じた。
その時、ザカリアスが小さく息をのんで忌々しげに唸るのが聞こえた。何があったのだと恐る恐る目を開けると、彼は顔を怒りで真っ赤にして、ぶるぶると震えていた。
「……っ、なんて、ことだ……。夫以外の男に、身体を許すなんて。エリシアは、そんなにふしだらな女だったのか……!」
ザカリアスの視線はエリシアの首筋に向けられていて、彼の怒りの理由が先日ロジェリオにつけられた痕であることが分かる。エリシアが横を向いたことで、耳の裏の痕が見えたのだろう。
「あいつに抱かれたのか!? おれを愛してるって言ったくせに、あいつに身体を許したのか!」
「っ違う……! 私はリオが好……っ」
エリシアは逃げるように身体を縮めながら、悲鳴をあげる。今世ではまだ抱かれていないけれど、エリシアがそうしたいと望む相手はロジェリオしかいない。
だがザカリアスは突然怒りの表情を引っ込めると、にっこりと笑ってエリシアを見下ろした。笑顔なのに目の奥はちっとも笑っていなくて、熱っぽい色をしているのが恐ろしい。
「……まぁいい。おれは、優しいから許してあげる。この先エリシアはおれだけのものになるんだから、純潔かどうかは、大した問題ではない。あいつのことなんて全部忘れるくらい、たくさん抱いてあげようね」
「嫌……」
「早く、おれを愛していたことを思い出して、エリシア。おれに抱かれたら、思い出すかな」
笑いながら、ザカリアスがエリシアのドレスに手を伸ばす。ドレスの上からでも胸元に指が触れるだけで、おぞましくて全身が震えた。
「っいや、やめてぇっ……!」
悲鳴をあげた瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。




