束の間の甘い時間、そして運命の日
ロジェリオの経過は悪くなく、傷も回復傾向にあるという。ただ、抜糸が済むまでは入院を継続した方がいいとのことで、あと一週間ほどは入院している予定だ。エリシアは、ほとんど毎日病院に通い、ロジェリオのそばで過ごしていた。
エリシアのことを心配するロジェリオは、父親の説得に成功したらしい。
怪我のせいで結婚式の準備が滞っているため、このままでは結婚式自体も延期になるかもしれない。これ以上離れ離れで過ごすのは耐えられないと訴えたようだ。ロジェリオがエリシアと会う時間を捻出するために睡眠時間を削っていたことは彼の両親も心配していたので、式の準備と公爵夫人から花嫁教育を受けるという名目で、結婚式より前にエリシアが移り住む許可が下りたのだ。もちろん結婚式の時は一旦自宅へ戻り、そこから馬車に乗って嫁ぐことが条件だ。
ロジェリオの退院と同時に、エリシアはアルベルダ公爵家へ行くことになる。そうなれば、さすがのザカリアスもあきらめざるを得ないだろう。
あと少しの辛抱だと、エリシアは気の抜けない日々を耐えている。
「今日は、リオにいいものを持ってきたのよ」
「いいもの? なんだろう」
首をかしげるロジェリオに笑いかけて、エリシアは一冊の本を取り出した。それを見た瞬間、ロジェリオはぱあっと顔を輝かせる。
「『風のブランコ』……!」
「入院生活は、ベッドでじっとしている時間が多いでしょう? でも安静にしていてほしいから、読書を楽しんでもらえばいいと思ったの」
「ありがとう、シア。退屈な入院生活も、これでぐっと楽しくなるよ」
そう言ってロジェリオがエリシアを抱き寄せる。そのまま彼はエリシアの耳元に唇を近づけた。
「もちろん、シアの顔を見られるのが一番嬉しいけどね」
吐息が耳を掠めて、エリシアは思わず肩を震わせる。ロジェリオの腕はしっかりとエリシアの身体を捕まえていて、身動きができない。
「昨日つけた痕を見せて、シア。また上書きをしておかなくちゃならない」
「……っ」
かぷりと耳を食まれて、思わず声が漏れそうになる。そんなエリシアの反応を見て楽しそうに笑いながら、ロジェリオはそっと胸元に手を伸ばしてきた。
「ほら、よく見せて」
「でも、誰か来たら」
「大丈夫だ。シアが来ている時は、誰も入らないように言ってある。ね、シア」
「わ、分かったわ」
催促するように名前を呼ばれて、エリシアはゆっくりとドレスの胸元を引き下ろした。ふたつのふくらみが作る深い谷間の奥に、赤い華のような痕がある。それは、ロジェリオが毎日刻んでくれるエリシアへの愛の証。
「あぁ、やっぱり昨日より薄くなっている」
指先でそっと痕をなぞり、ロジェリオはにんまりと笑う。このあとのことを想像して、エリシアは鼓動が速くなるのを感じていた。
「愛してる、シア」
「……っ」
肌に柔らかな唇が当たったと思ったら、次の瞬間には強く吸い上げられる。腰のあたりがじんと疼くような甘い痛みに、エリシアは思わず小さな声を漏らしていた。
今世では経験がなくても、その先にあるもっと甘美な快楽をエリシアは知っている。だから、つい期待したくなってしまう。
だけど、ロジェリオの身体はすぐに離れていってしまった。思わず顔を見上げると、彼は困ったように笑った。
「シア、頼むからそんな顔をしないで」
「私、どんな顔をしてる……?」
「すごく色っぽくて、切ない顔だ。できることなら、このままシアを押し倒して、全てを奪いたくなるような顔」
「……っ」
心の内に欲望を抱えていることを見透かされたようで、頬が一瞬で熱くなる。エリシアはそれを隠すように、ロジェリオの胸に顔を埋めた。
「俺だって本当なら今すぐにシアが欲しいけれど、それと同じくらい大切にしたい気持ちもあるんだ。だから、今はこれだけ」
「え? ……っあ」
ロジェリオの指が、エリシアの髪をそっと除ける。そして露出した首筋に、あたたかいものが触れた。ちくりとした痛みを感じて、ちょうど耳の裏側あたりにも痕を刻まれたことが分かる。胸元よりも首筋の肌の方がもっと敏感で、エリシアの唇からは悩ましげな声がこぼれ落ちた。
それを聞いたロジェリオが笑ったのか、吐息が肌にかかる。
「ふ、可愛い声。もっと聞きたくなるな」
「っだめ……、首は……」
「可愛いな。――あぁ、だめだ。これ以上は俺が我慢できなくなる」
はぁっと大きな息を吐いて、ロジェリオは抱きしめていたエリシアを解放した。彼の顔も微かに赤くなっていて、それがなんだかとても嬉しい。
もちろんエリシアの顔も真っ赤になっているだろうけれど、彼がエリシアを求めていることが分かるから、すごく幸せだ。
お互いに目を合わせて、二人はくすくすと笑い合った。
◇
今日も病院へ行くために、エリシアは身支度をしていた。できるだけ毎日行くようにしているのだけど、昨日は大雨で家を出られなかったのだ。
今朝は雨は止んでいるものの、空は曇っている。暗い空を見ると気持ちが落ち込みそうなので、エリシアはあえて青空のような明るい水色のドレスを選んだ。
「姉さんは、今日も病院へ行くの?」
朝食の席で、ヴィクトルが話しかけてきた。エリシアは、食事の手を止めてうなずく。
「えぇ。昨日は雨で行けなかったから、今日は絶対に行きたいの」
「そう。雨で足元が悪いだろうから、気をつけて。ロジェリオさんにもよろしく伝えておいて」
「ありがとう。ヴィクトルは、いつもより早く出るのね」
「うん。ちょっと、講師と約束をしていて。――あぁ、ザカリアス。おれのジャケットはどこかな」
紅茶を飲み干して立ち上がったヴィクトルは、執事を連れて食堂を出て行く。それを黙って見送り、きっとエリシアのそばから離してくれたのだろうと心の中で感謝した。
食事を続けていると、今度は父親がエリシアを呼んだ。
「実は、御者のミゲルが体調を崩してな。どうやら厩舎の者たちの間で質の悪い胃腸風邪が流行っているらしい。だから今日は、代わりにザカリアスが病院まで送ってくれるそうだ」
「え……」
思いがけない話に、エリシアの胸がどきりと痛いほどの音を立てた。馬車と御者台という空間の隔たりはあるものの、ほとんど二人きりという状況は絶対に嫌だ。
ロジェリオに会えないのは残念だけど、今日は見舞いに行くのを諦めようかと考えていると、父親が口を開いた。
「わたしも今日は城へ行く用事があるから、一緒に乗って行こうと思ってるんだ。病院は城の手前にあるから、エリシアは先に降りるといい。帰りには、また迎えに行ってあげるから」
「そうなんですね。お父様と一緒にお出かけできるのは嬉しいです。ぜひ」
エリシアはホッとして笑顔を浮かべた。父親が一緒なら、ザカリアスだって不審な動きをすることはないだろう。
食事を終えて自室で再度身支度を整えたエリシアは、父親と約束した時間に馬車へと向かった。馬車の前では執事のザカリアスが待っていて、エリシアの姿を認めると嬉しそうな笑みを浮かべる。目を合わせたくなくて、エリシアはうつむきがちに足を進めた。
「お待ちしておりました、エリシアお嬢様。さぁ、どうぞお乗りください」
差し出してくれる手を断って、エリシアは自分で馬車へ乗り込む。父はまだ来ていないようだ。
「お父様は、まだかしら」
沈黙が嫌で思わずぽつりとつぶやくと、ザカリアスはにんまりとした笑みを浮かべた。その目の奥に熱っぽさを感じたような気がして、背筋がぞくりとする。
「おや、お嬢様はご存じなかったですか? 旦那様は、来られませんよ」
「え……?」
「来客のご予定があるのを、うっかり失念しておられたようです。ですから今日は、お嬢様だけで行くようにと仰せでした」
そう言いながら、ザカリアスは何故か馬車の中に入ってきた。逃げようとするものの、そう広くない馬車の中に逃げ場などなく、エリシアは隅で身体を縮めることしかできない。
「そ、それなら私も行くのをやめるわ……。お天気も、あまりよくないし……」
「せっかく一緒に出かけられるのですから、そんなことを言わないでくださいよ、お嬢様」
にこにこと笑いながら、ザカリアスが更に近づいてくる。思わず振り払うように腕を前に出したら、右の手首を掴まれた。なまぬるい感触にぞっとしたのも束の間、かちりという音がして手首をひんやりとしたものが滑っていく。
「……っ!」
エリシアの手首には銀の枷が取りつけられ、その先は馬車の窓枠に繋がっていた。必死に腕を引っ張るものの、鎖ががちゃがちゃと耳障りな音を立てるばかりで、手は自由にならない。
引き攣った悲鳴をあげようとしたエリシアの口は、ザカリアスの手で塞がれた。恐怖のあまりまともに息が吸えず、掠れた悲鳴のような声だけが漏れる。
「しーっ。淑女たるもの、あまり大きな声を出してはいけませんよ」
「嫌……っ! 誰か……」
懸命に振り絞った声は、今にも消え入りそうなほどに頼りない。荒い呼吸だけが、馬車の中に響いた。
にっこりと目を細めたザカリアスは、胸元から小さな瓶を取り出した。そして蓋を開けるとエリシアの口元に持ってくる。
「大丈夫、何も怖いことはない。これは、エリシアを自由にするためなんだから。さぁ、これを吸って」
「ぃ……や……っ」
近づけられた小瓶からは、つんと鼻をつくような刺激臭がする。吸い込んではならないと思うのに、いつまでも息を止めていることはできない。
なるべく息を吸わないようにしてみても、徐々に目の前の景色がぐらぐらと揺れ、頭がぼうっとしてくる。
目を開けていられなくて、目蓋が勝手に閉じてしまう。完全に目を閉じてしまう直前、ドレスの水色がやけに鮮やかに目に映った。その瞬間、エリシアは思い出した。
今日は、あの惨劇のあった日だ。あの日も、前日に大雨が降っていた。
エリシアがこのドレスを選んでしまったのは、やはり運命は避けられないからなのだろうか。
「……リ、……オ……」
愛する人の名をつぶやきながら、エリシアは堪えきれずに意識を手放した。




