忍び寄る悪意
愛する人を再び失うかもしれないという恐怖で、まともに息ができない。喘ぐような呼吸を繰り返していると、ロジェリオの目蓋が小さく震えた。
「……っ、シア」
ほとんど吐息だけの声で名前を呼ばれて、エリシアはハッとする。握りしめていた手も、ぎゅっと握り返され、エリシアは息をのんだ。
「リオ」
「大丈夫……だ、俺は、ここにいる」
震える声で呼びかけると、ロジェリオはエリシアの手を自らの胸へと導く。手のひらに鼓動を感じて、思わず安堵の息が漏れた。
ロジェリオは身体を起こそうとするものの、あちこちが痛むのか小さく呻く。エリシアは慌てて彼の身体を押しとどめた。
「動かないで。頭から血が出ているの……」
「あぁ、窓ガラスの破片で切ったのかもしれない」
話しているうちに、声にも張りが戻ってくる。今すぐ命にかかわる状態ではないのだろうと、エリシアも少し肩の力を抜く。
その時、エリシアのそばに執事が近づいてきた。
「エリシアお嬢様、公爵令息の手当てを」
「触らないで!」
執事の手を、エリシアは勢いよく振り払う。あまりの激しさに、周囲の人々も驚いたように一瞬しんと静まり返った。エリシアは、慌てて理由を説明しようと口を開く。
「……っ、頭を打っているかもしれないし、額の傷は血がまだ止まっていないの。無理に動かすのはよくないわ」
「そう……ですね。失礼いたしました」
ザカリアスはうなずいてあっさりと引き下がった。だけど、その顔はロジェリオが無事であることを忌々しく思っているように見える。
絶対にロジェリオに触れさせてはならないと、エリシアはザカリアスに背を向けた。
自らのドレスが汚れるのにも構わず、エリシアは傷の手当てをしていく。細かい擦過傷はたくさんあるものの、大きな怪我は額だけのようだ。
やがて医者が到着し、ロジェリオと御者、そして少年の怪我の状態を診てくれた。その結果、重傷であるロジェリオだけが病院へ運ばれることになった。
エリシアを訪ねた帰りに事故に遭ったということで、責任を感じた父親が、ファリノス家の馬車でロジェリオを病院まで送り届けることを申し出る。ロジェリオも、その提案をありがたく受け入れてくれた。
「私も、一緒に行きます」
今のところ命に別状はないとのことだが、病院でもっと詳しく検査をしてからでないと心から安心できない。エリシアの言葉に、父親も同意してうなずいてくれた。
「あぁ、そうだな。ぜひそうしてくれ。ザカリアスは、アルベルダ公爵家へ連絡を。くれぐれも失礼のないようにな」
「かしこまりました」
一礼して、執事が去っていく。公爵家への連絡を任せることに少し不安はあるものの、さすがにファリノス家の名を背負って妙な真似はしないだろうと思うことにする。
馬車に乗り込んだエリシアは、ロジェリオには座席へ横になってもらうよう促す。彼は大丈夫だと言い張ったものの、父と二人で説得した。
ゆっくりと走り出した馬車に揺られながら、エリシアは馬車の床に膝をつき、ロジェリオの手を握りしめる。彼のぬくもりを感じていないと、不安でたまらないのだ。
「シア、俺は大丈夫だから。きみも座って……」
「だめよ。私には、傷口を押さえておく役目があるの。リオは、あまり身体を動かさずにじっとしていて。頭を打っている可能性もあるのよ」
きっぱりとした口調で言うと、ロジェリオは微かに苦笑を浮かべてうなずいた。そして彼は、そっとエリシアの手を握り返してくれる。
「ごめん、シア。心配をかけてしまった」
「謝るのは私の方だわ。だって、うちに来なければリオが事故に遭うことはなかったもの……」
「シアのせいじゃない。シアは、何も悪くないよ」
涙ぐむエリシアの頬に、ロジェリオは手を伸ばす。そのまま軽く引き寄せられて、まるで口づけをするかのように顔が近づいた。
急な密着にエリシアは戸惑うものの、ロジェリオの顔には甘さが一切ない。彼は、エリシアの耳元に唇を寄せた。
「……今なら車輪の音で会話がかき消されると思うから、伝えておく。この事故は、仕組まれたものだ」
「え……?」
思いがけない言葉に目を見開くが、ロジェリオは真剣な表情だ。
「俺は馬車ごと吹き飛ばされて動けなかったんだけど、目の前に折れた車軸があった。そこには衝撃で折れたものとは思えない、鋭利な刃物で傷つけられたような傷があった。馬車は定期的に整備をしているし、車軸に傷なんて入っていたら、絶対に気づくはずだ。そもそも、あの程度の衝撃で車軸が折れるなんて考えられない」
「それは……誰かが車軸にわざと傷をつけたということ……?」
声をひそめて、エリシアは問う。誰かといっても、そんなことをするのはザカリアスしか考えられない。
ロジェリオは、厳しい顔でうなずいた。
「恐らく、本当ならもっと先で事故を起こすつもりだったんだろう。出発したばかりでまだゆっくり走らせていたから、これくらいの怪我で済んだんだ。もっとスピードを出していた時なら、どうなっていたことか。それに、人通りの多い場所で馬車が横転していたら、怪我人はもっと増えたと思う」
あの少年の飛び出しは、むしろ幸運だったのかもしれないと、ロジェリオはため息をついた。
「だけど証拠はないから、全て憶測にすぎない。馬車を急停車させたことで、車軸に思わぬ力がかかった可能性だって捨てきれないから」
ロジェリオはそう言うけれど、エリシアはザカリアスが仕組んだことに違いないと思う。
誰よりも先に事故の様子を見に行っていたことや、怪我人を運び込むことを躊躇するような言動。そういえばあの時、ザカリアスは小さく舌打ちをしていたような気がする。
御者とやりとりをしていたメイドが、怪我人は二人だと聞いていると言っていたのは、もしかしたらザカリアスがロジェリオの存在を隠そうとしたのではないだろうか。
いよいよザカリアスがロジェリオを狙って動き始めたのだと、恐ろしくなる。
エリシアは、再びこみ上げてきた涙を拭って、震える息を吐いた。
「……やっぱり、私たちは一緒にいてはいけないのかもしれないわ」
「シア」
「だって、またあなたを傷つけてしまった……。次は命を落とすかもしれないのよ? そんなの、私は耐えられない……」
堪えきれず涙がこぼれ落ち、エリシアはしゃくりあげる。ロジェリオと一緒にいたいという気持ちは確かにあるのに、一緒にいることで彼の命を危険に晒すのではないかという恐怖がどうしても払拭できない。
身体を震わせて涙を流すエリシアの手を、ロジェリオはぎゅっと握りしめた。
「俺は、あの執事がシアへの想いを暴走させていることの方が恐ろしいよ。あいつの目的は、俺を殺すことではない。シアを手に入れることなんだよ。もう、いつ強硬な手段に出てもおかしくない」
何もされていないかと心配そうに聞かれて、エリシアは思わず言葉に詰まる。先日、ザカリアスがブレンドしたというお茶を飲んだあと、急激な眠気に襲われたことを思い出したのだ。動けなくなったエリシアのすぐそばに、ザカリアスはいた。あれは、まるでエリシアが倒れるのを予見していたかのようだった。
「シア、もしかして何かあったのか」
深刻そうな表情を浮かべるロジェリオに、確証はないけれどと前置きをして、エリシアは紅茶のことを話した。ロジェリオの顔は、みるみるうちに険しくなる。
「どうして、すぐに教えてくれなかったんだ」
「だって、証拠がないもの。念のため、茶葉も調べてもらったのよ。だけど、特に不審な点はないって言われたわ。倒れたのは疲労のせいだろうって」
「シアが神経をすり減らしていることは、もちろん分かってるけど……。それでも、怪しすぎるだろう」
ロジェリオは焦燥感を滲ませて唇を噛む。
「やっぱり、一刻も早く家を出るべきだ。あいつはきっと、シアを手に入れるためになりふり構わないはずだ。何か手立てを考えなければ」
そう言うものの、実際には難しいことを彼も分かっているのだろう。お互いに何も言えななくなり、馬車の中に、重たい沈黙が落ちる。エリシアはロジェリオの傷口を押さえながら、これからどうすればいいのだろうと考え込んでいた。
病院に到着し、あらためて精密検査を受けた結果、頭の傷以外には大きな問題がないことが分かった。とはいえガラスで切った頭の傷は十数針も縫わねばならないほどで、傷が完全に塞がるまでは入院して安静にすることとなった。
公爵家令息であるロジェリオは、当然のように最上階の特別個室へ案内される。王族が入院する際にも使用される病室なので、警備もしっかりしている。
それでも、エリシアの不安は消えない。
「たとえ私の使いだと言われても、ザカリアスは絶対に通さないで。差し入れの食べ物にも気をつけてね」
「あぁ、分かっている。俺のことよりも、シアの方が心配だよ。俺が動けないことは、あいつにとって都合がいいはずだ。シアに何かあったら……。そうだ、シアも過労を理由に入院したらどうだろう。家にいるよりも安心じゃないかな」
ロジェリオは真剣な顔でそんなことを言ってくるけれど、さすがにそれは現実的でないだろう。
「確かに前よりやつれてはいるけれど、入院するほどじゃないもの。個人的な理由で病室を埋めるのは、よくないわ」
「でも、エリシアの身の安全を考えたら……」
まだ納得のいかない様子でロジェリオが腕を組む。
「それに、もしも私が入院したら、ザカリアスは必ず見舞いと称してやってくるに違いないわ。病室だと逃げ場がないし、そっちの方が怖いもの」
「確かに、それはあるな。でもどうすればいいんだ……。何かシアを守る方法はないのか」
ロジェリオが頭を抱えていると、病室のドアが小さくノックされた。外から看護師の声で、エリシアの弟が来ていると告げられる。
「……ヴィクトルが?」
顔を見合わせたあと、エリシアは入室しても構わないと意思表示をするために小さくうなずいた。
看護師に案内されて入ってきたのはやはり弟のヴィクトルで、何故彼がここに来るのかと不思議な気持ちになる。
ヴィクトルは心配そうに顔をこわばらせていたものの、エリシアとロジェリオの姿を見るとホッとしたような表情になった。
「どうしたの、ヴィクトル」
「ロジェリオさんが事故に遭って入院したと父さんから聞いたから……。ザカリアスは家にいたから大丈夫だとは思ったけど、姉さんのことが心配で」
明確に言葉にはしなかったものの、彼もかつてロジェリオが亡くなってエリシアがあとを追った時のことを思い出したのだろう。
「私は大丈夫。ロジェリオも、幸いなことに頭の怪我以外はそこまで酷いものではなかったから」
エリシアの言葉を聞いてヴィクトルは安心したのか、深いため息をつく。そして、ロジェリオに向き直った。
「姉さんのことは、おれが守るので。だから安心してください」
「えっ……」
突然の宣言にロジェリオは戸惑いの表情を浮かべる。エリシアは慌てて、彼も死に戻っていることを説明した。あの日のことを思い出しているのか、ヴィクトルは神妙な表情だ。説明を聞いたロジェリオは、顔を覆って深い息を吐いた。
「そうだったのか……。きっときみも、恐ろしい思いをしただろう」
「おれが戻ったのは、姉さんを守るためだと思っています。今度こそ、姉さんは幸せにならなくちゃいけない。――あなたと、一緒に」
小さな声ながらもはっきりと告げられて、ロジェリオは噛みしめるように何度もうなずいた。
「あぁ、ありがとう」
「家にいる間は、おれが姉さんを守ります。だけど姉さんは、なるべく早く家を出るべきです。公爵家の籍に入ってしまえば、さすがにあいつも手出しはできないはずだから……」
「そうだな。やっぱり、なんとか結婚を早められるよう、父を説得するよ」
ロジェリオは固い決意を滲ませて、強くうなずいた。
しばらく談笑しているうちに、ヴィクトルは随分とロジェリオに懐いたようだ。ロジェリオも弟の通う学園の出身なので、知っている講師の名前や講義の内容などで盛り上がっている。いつもは淡々としていてあまり表情を変えない弟が、幼い頃のような楽しげな笑みを浮かべるのを見て、エリシアもなんだか嬉しい気持ちになっていた。
「じゃあ、そろそろおれは、外で待っているね」
「あら、一緒にいればいいのに」
立ち上がったヴィクトルを引き留めようとしたエリシアの言葉に、弟は苦笑する。
「いつまでも二人の邪魔をするほど野暮じゃないよ。帰る時は、声をかけて。一緒に帰ろう」
そう言って、弟はあっという間に病室を出て行ってしまった。
ヴィクトルと入れ替わるようにして、ファリノス家からの連絡を受けた公爵夫人も駆けつけた。エリシアはあらためて、事故の経緯を説明する。証拠はないものの、自分の家の使用人がロジェリオを傷つけたかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。もちろん、口にすることはできないけれど。
公爵夫人は、ロジェリオの顔を見て重篤な状態ではないと分かると、ホッとしたように表情を緩めた。
「事故に遭ったと聞いたから驚いたけど、それくらいの怪我で済んでよかったわね。ロジェリオは、いい機会だからゆっくりと休みなさい。少しは睡眠不足が解消するに違いないわ」
「あぁ。それと、飛び出した少年をあまり責めないでやって」
「分かっているわ。あなたの怪我も大したことはないし、大事にする気はないわよ」
そう言って、公爵夫人は微笑む。公爵家の馬車と事故を起こしてしまったと少年は震え上がっていたから、穏便な対応にきっとホッとするだろう。
「それじゃあ、わたくしはもう帰るわね。エリシアさん、付き添ってくれてありがとう。落ち着いたらまた、お茶をしましょうね」
「はい、ぜひ」
エリシアが頭を下げると、公爵夫人はあっという間に病室を出て行った。もしかしたら、ヴィクトルと同じように気を遣ってくれたのかもしれない。
二人きりになり、エリシアはあらためてロジェリオと見つめあう。お互い無意識のうちに手を取りあっていた。
「本当に、気をつけて。俺がそばにいられないことが歯痒くてたまらないけど……」
「ヴィクトルも協力してくれるから、大丈夫よ。リオは、とにかく療養に努めて。全身の打ち身だって、あるんだから」
「うん。万全の体調じゃないと、いざという時にシアを守れないからな。ちゃんと安静にしておくよ」
約束すると言って小指を差し出され、エリシアは自分の指を絡める。そのままお互いの顔を近づけて、そっと触れるだけの口づけを交わした。




