紅茶と悪夢
父親に釘を刺された手前、ヴィクトルと過ごす時間は減らさざるを得ない。勉強時間を奪っていた自覚もあるから、エリシアも自室で過ごすから大丈夫だと弟に言い張ることにした。
とはいえ自室にいても落ち着かないことに変わりはない。ロジェリオの顔が見たくて手紙を書いてみたものの、返事はまだ届かないから、きっと彼も忙しいのだろう。次に会う約束をした日まで、あと五日もある。
ため息ばかりついているエリシアを見かねたのか、侍女のダナがお茶を淹れてくれた。読むともなしに本のページをぱらぱらとめくっていたエリシアは、甘い匂いに気づいて顔を上げる。テーブルの上には、いい香りのお茶の準備が整っていた。
「お茶をいかがですか? 最近のお嬢様は、お顔が疲れているようで皆心配しているんですよ」
「ごめんなさい、心配かけて。やっぱり公爵家へ嫁ぐとなると、色々と考えてしまうこともあるのよ」
「いわゆるマリッジブルーというものでしょうかねぇ……。お嬢様なら大丈夫ですよ。公爵家の皆様も、きっとあたたかく迎えてくださるでしょう」
「そうね、ありがとう。お茶、いただくわね」
そう言ってエリシアはティーカップに手を伸ばした。普段飲んでいるものとは違う、キャラメルのような香りがする。口に含めば柔らかな甘さが広がり、とても美味しかった。まるで甘いものを食べたような満足感で、あっという間に飲み切ってしまう。
「今日のお茶、すごく飲みやすかったわ」
感想を伝えると、飲み終えた茶器の片付けをしていたダナが嬉しそうな顔になった。
「お口に合ったようで、よかったです。お顔の色もよくなったみたいですね。わたしはこのあと買い物に行く予定ですから、少し外しますね。お嬢様は、ゆっくりとお過ごしください」
「えぇ、ありがとう」
うなずいて、エリシアは再び本に手を伸ばした。熱い紅茶で身体があたたまったのか、気分もほぐれたような気がする。
その時、部屋を出ようとしたダナがふと足を止めて振り返った。
「そういえば今日の紅茶、お嬢様の様子を心配したザカリアスさんが特別にブレンドしてくれたものなんですよ」
「え……っ」
「お嬢様がとっても喜んでいたと、ザカリアスさんに伝えておきますね。では、行ってまいります」
「え、待っ……」
エリシアが呼び止める声に気づかなかったようで、ダナは部屋を出て行ってしまう。急に吐き気を覚えて、全身が寒くなり、エリシアは思わず口元を押さえた。信用している侍女のダナが淹れてくれてものだからと警戒していなかったのに、まさか茶葉をザカリアスが用意していたなんて。
彼女に悪気はないことは分かる。ザカリアスは優秀で優しい執事として、使用人らにも信頼されているのだから。
飲んでしまった紅茶を今すぐに吐き出したい気持ちになり、エリシアは立ちあがろうとした。その時、何故か急激な眠気が襲ってきた。
「う……」
視界が暗くなって、目を開けていられない。もしかして、あの茶葉に何か仕込まれていたのだろうか。
ふらつく身体を叱咤して、エリシアは立ち上がると、よろめきながらドアへ向かう。誰かに助けを求めなければ。
崩れ落ちそうになりながらも、なんとかたどり着いたドアを開けて、エリシアは部屋の外に顔を出した。
「誰か……」
「おや、お嬢様。どうされましたか?」
すぐそばで聞こえたのは、ザカリアスの声。どうしてここにと思う間もなく、よろめいた身体を支えられる。肩を抱く手が気持ち悪くて、エリシアは小さく呻いた。
「やめ……て」
「体調が悪いのですか? お部屋に戻りましょう」
「ぃや……っ」
懸命に抵抗しようとするものの、強烈な眠気に襲われて身体に力が入らないし、声も思うように出せない。
「大丈夫ですよ。ゆっくりとお休みください、エリシアお嬢様」
耳元で囁かれた声に、全身の毛が逆立つほどの不快感を覚える。離してと訴えたつもりの声は微かな吐息にしかならなくて、エリシアの意識はそのまま闇に飲まれた。
◇
ゆっくりとエリシアは意識が浮上していくのを感じていた。視界に映るのは、見慣れた自室のベッドの天蓋。だけど、何故か手足が動かない。感覚がなくて、指先ひとつ動かすことができない。
「……っ」
声も出せなくて、まるで胸を押さえつけられているように息が苦しい。
どうして、誰か助けてと心の中で叫ぶものの、微かな吐息が漏れるだけ。
その時、エリシアの視界に人影が映り込んだ。
「エリシアお嬢様、大丈夫ですか?」
にやにやと笑いながら顔をのぞき込んでくるのは、ザカリアスだ。彼はゆっくりとエリシアの頬に手を伸ばしてくる。湿った手が頬に触れて、まるで虫が這っているような嫌悪感を覚える。だけど声を出すことはできなくて、震える吐息だけが微かに響いた。
ザカリアスは頬を撫でながら、息がかかりそうなほど近い距離でエリシアをじっと見下ろす。
「二人きりで一緒に暮らそうね、エリシア。愛してるって、言ってくれただろう?」
にいっと口の端を引き上げたザカリアスが、更に顔を近づけてくる。頬を、なまぬるい吐息が掠めた。
「いや……嫌あぁぁぁっ!」
必死に叫んだところで、目の前からザカリアスの姿が消える。荒い息を吐きながら周囲を見回して、さっきのが夢であったことを確認したエリシアは、震える身体を抱きしめた。まだ鼓動は痛いほどの速さで打っているし、呼吸も整わない。
「お嬢様、お目覚めですか?」
声をかけられてびくりと肩を震わせるものの、声の主は侍女のダナだ。ゆっくりと顔を上げると、彼女は心配そうな顔でエリシアを見つめていた。
「ご、ごめんなさい……怖い夢を、見て」
「お疲れなのかもしれませんね。汗をかいてらっしゃるようですし、お着替えをしましょう」
優しくダナに促されて、エリシアはうなずいた。
着替えをしながら、エリシアが倒れたあとのことをダナが教えてくれる。どうやらエリシアを部屋に運ぼうとしているところを見かけたヴィクトルが、医者を呼ぶようにとザカリアスに命じたらしい。ヴィクトルは自分がエリシアについているわけにはいかないからと、ダナを呼び戻してくれたようだ。
意識を失っていた時間はそれほど長くないようで、もうすぐ医者が到着する予定だという。
ザカリアスがここにいないのは確かで、夢で見たようなことは起こっていないのだと、エリシアはホッとため息をつく。
やがてザカリアスが医者を伴って戻り、エリシアは診察を受けることになった。
最近はストレスであまり眠れていないこともあって、疲れがたまっていただけだろうとの診断が下される。さっき飲んだお茶のせいで急激な眠気に襲われたことを話してみたものの、茶葉自体には不審な点はないと言われてしまった。
せめてエリシアが飲んでいたお茶が残っていればと思ったのだが、エリシアを寝室に運んだあと、ザカリアスが手際よく片付けてしまったようだ。彼は執事としての仕事をこなしただけだし、客観的に見ればその行動に不審な点などない。
「ともかくゆっくりとお休みになることですね。それから、もう少しお食事をとられた方がいい。随分と瘦せたように思いますから」
医者の指摘に、エリシアはうなだれる。睡眠がとれていないことはもちろん、食事もあまり食べられないのだ。だけど、弱っていてはザカリアスにつけいる隙を与えてしまうかもしれない。無理にでも食べなければと、エリシアはため息をついた。
◇
相変わらず心の落ち着かない日々を過ごしているエリシアだったが、ある日突然先触れもなくロジェリオが訪ねてきた。
「エリシア、もしかして体調が悪かった……? 少し瘦せたみたいだ」
「大丈夫、ロジェリオに会えたらすごく元気が出たわ。でも、どうして突然……?」
愛する婚約者に会えたことは嬉しいものの、連絡もなしに訪ねてくるのは珍しい。首をかしげたエリシアを見て、ロジェリオはどこか苦い表情になった。そしてエリシアを抱き寄せるふりをしながら耳元に唇を寄せる。
「きみに何通か手紙を送ったけど、届いていないみたいだね」
「手紙……知らないわ」
「返事がなかったから、気になって。それで、来てみたんだ」
そう囁いたあと、ロジェリオは大げさな仕草でエリシアを抱きしめた。
「仕事がひとつ片付いたら、どうしてもエリシアの顔が見たくなってね。連絡もなしに訪ねて、すまない」
きっとそれは、執事に聞かせるためでもあるのだろう。エリシアも会えて嬉しいと笑顔で応えることにした。




