同じ記憶を持つ人
食事のあと、自室に戻ったエリシアのもとを、ヴィクトルが訪ねてきた。
侍女のダナはすでに下がっているため、エリシアは使用人を呼ぶためのベルをしっかりと握りしめて応対することにした。
「ごめん、夜遅くに。ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」
「……少しだけなら」
緊張のためか喉がからからになっているのを感じながら、エリシアは弟を部屋の中へ迎え入れる。何かあったときのために、部屋のドアは開けておくことにした。ヴィクトルはそれに対して、何も言わない。
ソファでエリシアと向かい合って座ったヴィクトルは、躊躇うように視線をさまよわせ、やがて何かを決意したように咳払いをすると姿勢を正した。
「あのさ、ものすごく変なことを言っている自覚はあるんだけど……。姉さんは未来の記憶を持ったまま時間が巻き戻る……なんて現象を、信じる?」
「え……」
ヴィクトルの言葉に、エリシアは目を見開いた。それはまさに、エリシアの身に起こったことだ。あの恐ろしい記憶が再び頭の中によみがえり、手が勝手に震える。
それを見た彼は、確信を持ったように身を乗り出した。
「やっぱり姉さんも、『戻ってる』んだね?」
「……っ」
思わずびくりと肩を跳ねさせてしまい、恐怖から逃げるように身体を縮める。ヴィクトルは、そんなエリシアをじっと見つめた。
「おれも、そうなんだ。庭の四阿で……姉さんとロジェリオさんが倒れていたのを見た」
その言葉に、忌まわしい記憶がよみがえる。耳の奥で、激しい雨音が響いているような気がした。エリシアは懸命に声を絞り出す。
「ヴィクトルも……あの場に、いたの……?」
「あの日、おれは出かけていたけど、雨が酷くなったから帰ってきたんだ。そうしたら、庭に人影が見えた。姉さんたちが雨で動けなくなっているのかもしれないって思ったから、傘を持って行こうと……」
うつむいて膝の上で手を組む弟の顔は、いつもより青白く見える。
「そこで、倒れている二人を見たんだ。最初は、心中したのかと思った。だけど、二人にそんなことをする理由はない。だから、誰かに殺されたんだと思った」
彼の声も、微かに震えている。その言葉が正しいのなら、毒を盛ったのはザカリアスなのだろうか。
あの日のことを思い出しているのか、ヴィクトルは強く唇を噛みしめる。
「二人はもう息をしていないことが分かって、どうすればいいのかと思っていた時、後ろから誰かに頭を殴られたんだ。おれが見た人影はこいつだったのかと思ったけど、そのまま動けなくて……。気づいた時には、おれは一年前に戻っていた」
「そんな……。じゃあ、ヴィクトルも……命を」
それ以上言うことはできなくて言葉を切ったエリシアを見て、ヴィクトルは苦い笑みを浮かべてうなずいた。
「あなたも……同じだったのね」
ほとんど吐息のような声で、エリシアはつぶやく。ロジェリオだけでなく、ヴィクトルも亡くなっていたなんて。
あまりに恐ろしい事実を知って、背筋が寒くなる。涙がこみ上げ、頬を伝って落ちていった。
ヴィクトルは、目を伏せてため息をつく。
「あの時おれは確かに死んだはずで、どうしておれの時間が戻ったのかは分からなかった。でも、きっと姉さんを助けるためだと思ったんだ」
「ヴィクトル……」
「おれのことを、本当の家族みたいに受け入れてくれて、ずっと感謝してた。だから今度こそ、姉さんを死なせないって思って……」
強く拳を握りしめて、ヴィクトルはうつむく。
「姉さんの行動が、記憶の中と違っていることには気づいていた。夜会に行きたがらなかったり、ドレスが違ったりしたから。だけど何故前回と違うのか、そもそも何がきっかけであんなことが起きたのかも分からなくて、どうしたらいいのか見当もつかなかった。でもさっきの反応を見て、姉さんもきっとおれと同じだと思ったんだ。あの劇は……姉さんたちが死んだ日に、父さんと母さんが観に行っていたものだったから」
ヴィクトルは、震える声でそう吐き出す。エリシアは思わず立ち上がり、弟の手を握りしめた。お互いの手はぶるぶると震えていたけれど、同じ記憶を持っているという深い絆を感じるような気がした。
エリシアはヴィクトルの隣に座り直し、ゆっくりと口を開く。
「ロジェリオは……殺されたのよ。紅茶に毒を盛られて……」
「毒……?」
「私は、誰がロジェリオを殺したのか覚えていなかったの。分かっていたのは、家族のように思っていた相手だということだけ。私にとってそれは、ヴィクトルか……ザカリアスしかいなかった」
その名前を口にするだけで、身体が震える。信頼できる執事だと思っていたのに、兄のように優しい人だったのに、彼はロジェリオだけでなくヴィクトルのことも殺した。
予想外の名前だったのか、弟も目を見開いて息をのむ。
「ザカリアス……どうしてあいつが」
「私と愛し合っていると……そう思い込んでいたの。絶対にそんなこと、ありえないのに」
忌まわしい記憶の中の顔が鮮明になり、ザカリアスの姿を取る。熱を帯びたまなざしを向けられたこと、湿った手で腕を掴まれたこと――。
急激な吐き気を催して、エリシアは低く呻いて口元を覆った。エリシアを気遣う様子を見せながら、ヴィクトルは首を振る。
「そんな勘違いをするなんて、信じられない……」
「密かに愛し合う関係だから、周囲の目を欺くために私が仕方なく婚約したと思っていたのよ。望まない結婚をする私を救い出すためにって……そう言ってロジェリオを……っ」
それ以上を口に出すことはできなかった。亡くなったロジェリオの顔が脳裏をよぎり、エリシアは悲鳴を堪えるために、強く唇を噛みしめる。身体はぶるぶると震えているけれど、必死に呼吸を整えて冷静になろうとする。
「ふ、二人だけで暮らそうって、私をどこかへ連れて行こうとしたわ。だから私は……っ、ザカリアスの手から逃れるために……」
「姉さん、それ以上言わなくていい」
ヴィクトルは、震えるエリシアの手をそっと握ってくれた。そのぬくもりが嫌だと感じないことにホッとしながら、エリシアは深い息を吐いた。
「気づいたら私は、十九の誕生日の直前に戻っていたの。毒を盛ったのがどちらなのか分からなくて、だから私は二人を避けるしかなかった……」
ヴィクトルに対しても、冷たい態度を取ってしまった。エリシアが小さく謝罪の言葉をつぶやくと、弟は謝る必要なんてないと首を振った。
「姉さんの身に起きたことを考えれば、そんなの当然だ。だけど、ザカリアスはいつから姉さんのことを狙っていたんだ……」
「分からない。でも、ロジェリオとの結婚を阻止しようとしていたのは間違いないから、私が婚約しなければロジェリオは殺されずにすむと考えたわ。死に戻った時点で私はまだロジェリオと出会っていなかったから、夜会を欠席して会わないようにしていたんだけど……。どんなに避けようとしても、出会ってしまうの。前回と違う服、違う行動をしても……だめだった」
目を閉じて、エリシアはため息をつく。再びロジェリオと想いを通じ合わせたことは、確かに幸せだ。それでも、本当にこれでよかったのか、またロジェリオが殺される未来が待っているのではないかという恐怖はずっと頭から離れない。
再び身体が震えるのを感じて、エリシアは自らの身体を抱きしめるように腕を組んだ。
ヴィクトルは、真剣な表情でエリシアに向き直ると、きゅっと唇を引き結んだ。
「きっとおれたちがこうして時を戻ったのは、幸せになるためだ。今度こそ姉さんが幸せになれるなら、おれはなんでもするよ」
その発言を心強く思いながらも、エリシアは滲んだ涙を拭って弟を見上げる。
「ありがとう、ヴィクトル。だけど、またあなたが傷つくことになるのは嫌なの。ロジェリオだけじゃなく、ヴィクトルのことも失いたくないのよ」
「大丈夫だ。警戒すべき相手がザカリアスだと分かったんだから、前みたいなことにはならない。姉さんのことも、もちろんロジェリオさんのことだって、絶対に傷つけさせない」
強い口調でそう言ったヴィクトルだったけれど、現在のところザカリアスを遠ざける方法はない。
ザカリアスは有能な執事だし、父親の信頼も厚い。仕事ぶりはまじめで、他の使用人からの評価も高い。いくらなんでも、未来でロジェリオやヴィクトルを殺してエリシアを攫う可能性があるなんて理由で、解雇することは不可能だ。
「あいつのことは、おれが調べるよ。姉さんをどこかに連れて行くつもりだったのなら、それなりに準備が必要だ。尾行してでも、証拠を見つけてやる」
「でも、気をつけてね。絶対に危険なことはしないと約束して。ザカリアスは、あなたのことも……」
「分かってる。姉さんも、今まで以上に気をつけて。絶対に二人きりにならないようにして、会話もなるべく避けて。目も合わせない方がいい」
真剣にそう言ってくれるヴィクトルは、心からエリシアのことを案じてくれているようだ。だけど、弟ばかりに負担をかけているような気がして申し訳ない。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、ヴィクトルは口の端で小さく笑った。
「おれを家族として受け入れてくれた姉さんに、ようやく恩返しができるんだ。できることはなんでもしたいんだよ」
「恩返しなんて……。うちに来た時からずっと、ヴィクトルは大切な弟よ」
「うん。おれにとっても、大切な姉さんだ。だから、必ず幸せになって」
「それなら、ヴィクトルも幸せになると約束して。私たちが死に戻ったのは、幸せになるためでしょう」
そう言ってエリシアは弟の目の前に小指を差し出した。ヴィクトルは驚いたように一瞬目を見開いたあと、くしゃっと目を細めて笑った。そして、そっと小指を絡めてくれる。
「……うん、分かった。約束」
その笑顔は幼い頃とちっとも変わっていなくて、エリシアの顔にもようやく笑みが浮かんだ。




