疲弊する日々
ロジェリオの想いを受け入れたエリシアは、彼と婚約することになった。エリシアの両親は大喜びだったし、ロジェリオの両親も歓迎してくれた。
この選択が本当に正しかったのか、あの恐ろしい未来がやっぱり二人を待っているのではないかと不安になることはある。それでもエリシアは、ロジェリオと共に生きていくことを選んだ。
ロジェリオはエリシアの身を心配して、できることなら早く家を出て一緒に暮らすべきだと言う。だけど、挙式もせずに同居することはできない。彼は由緒ある公爵家の嫡男だし、式の準備にもじっくりと時間をかける必要がある。
エリシアの身辺を心配するロジェリオは、なるべくエリシアと一緒に過ごせるように努力してくれている。だけど、彼にも仕事がある。どんなに頑張っても会えるのは月に数回が限界だった。
だからエリシアは、自分の身は自分で守らねばと、弟と執事を警戒する日々を送っている。婚約したことで二人の様子が変わるのではないか、何か起きるのではないかと恐れていたけれど、今のところ目立った変化はないように思う。
「今日もあの人が来るの?」
弟のヴィクトルに聞かれて、エリシアはうなずいた。両親の前では婚約を祝ってくれたけれど、彼はロジェリオの訪問を嫌がっているような気がして落ち着かない。
「そうだけど……、ヴィクトルの邪魔はしないわ。サロンでお茶を飲むだけだもの」
「別に邪魔だなんて思ってない。来客があると家の中が騒がしくなるのが、あまり好きじゃないだけ。姉さんの婚約者に限ったことじゃないよ」
「なるべく静かにするわ」
「いいよ、おれが出かけるから」
そう言って、ヴィクトルは立ち上がると居間を出て行ってしまった。
不機嫌そうな弟の考えが分からなくて、エリシアは黙って彼の消えたドアを見つめる。エリシアの婚約を怒っているのだろうか。姉弟として過ごしているはずなのに、実は愛し合っていると、そう思っているのだろうか。
ヴィクトルがエリシアを見つめる視線に、特別な感情が込められていると感じたことはない。だけどそれは、エリシアが気づいていないだけなのかもしれない。
考え込むエリシアの前に、ことりとティーカップが置かれた。顔を上げれば、そこには穏やかな笑みを浮かべた執事の姿があった。
「眉間に皺が寄っていますよ、お嬢様。お疲れなのでは? 気分がほぐれるよう、カモミールティーにいたしました」
「……ありがとう。でも、さっき朝食でたくさんお茶を飲んだから、今は必要ないわ。もう、部屋に戻るわね」
ザカリアスは執事として純粋な好意でお茶を淹れてくれたのかもしれない。だけど『エリシアのためだけに淹れた紅茶』を飲む気にはなれなかった。
ロジェリオと婚約して以降、エリシアは自身が口にするものにも神経を尖らせていた。エリシアが毒を盛られる可能性は低いと思うけれど、何が起きるかは分からない。
なるべく接触する時間も減らしたくて、エリシアは足早に自室へと戻った。
部屋のドアをしっかりと閉めて、エリシアはため息をつく。再びロジェリオと想いが通じ合ったことは、本当に幸せだと思っている。彼の愛を疑ったことはないし、一緒に過ごす時間はとても楽しい。
だけど、その幸せがいつか崩れてしまうかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらないのだ。
弟と執事、どちらがロジェリオを殺したのかは、まだ思い出せないままだ。必然的に二人を避けることになって、エリシアの心は疲弊している。
「……しっかりしなくちゃ。ロジェリオに心配は、かけられないもの」
そう言って、エリシアは懸命に口角を引き上げた。
昼過ぎに訪ねてきたロジェリオは、大きな花束を抱えていた。その花を見た瞬間、エリシアは大きく目を見開く。
「やぁ、エリシア。きみと会えない時間は、とても長く辛いものだったよ。愛するエリシアに、これを。雪みたいな花をたくさん集めて、一抱えの花束にしてみたんだ」
「かすみ草の花束……! 素敵!」
エリシアは目を輝かせて花束を受け取る。大好きな本に出てくるシーンを再現してくれたプレゼントに、エリシアの頬は喜びで赤く染まった。
かすみ草だけをたっぷりと束ねた花束は、ボリュームがあるのに軽い。まるで本当に雪を集めて花束にしたみたいだ。
「どんな花よりも、この花が一番シアに喜んでもらえる気がしたんだけど、正解だったかな?」
「えぇ! とっても嬉しいわ。ありがとう……!」
嬉しさのあまりロジェリオに抱きついて、エリシアは心からの感謝を伝える。優しく髪を撫でてくれる手にも、たまらなく幸せな気持ちになった。
花を自室に飾ってもらうよう侍女のダナに頼んで、エリシアはロジェリオをサロンへと案内する。
一緒に過ごす場所は、絶対に人の目があるところだ。かつては人払いをした庭の四阿やエリシアの部屋で甘く親密な時間を過ごしたけれど、今回は絶対にそんなことはしない。
部屋の隅に必ず使用人を待機させて、当たり障りのない会話だけをする。それでも、ロジェリオと一緒に過ごせるというだけで幸せだ。
ロジェリオの前で、エリシアは自らの手でお茶を淹れた。使用する茶葉も、その場で新しいものを開けるようにしている。
「さぁ、どうぞ。今日は少し暑いから、爽やかなミントティーにしてみたわ」
「ありがとう、エリシア。本当だ、いい香りだな」
すんと鼻を鳴らして、ロジェリオが紅茶に手を伸ばす。その瞬間、エリシアは彼の手を掴んだ。
「待って。……やっぱり、こっちのカップを使って」
言い訳のように、糸くずが入っていたからとつぶやいて、エリシアは自身のカップと入れ替えた。ロジェリオは、黙ってそれに従ってくれる。
恐る恐る口をつければ、爽やかなミントの香りが口の中に広がった。飲み込んでも何も感じないし、毒は入っていない。
だけどまだ安心はできない。エリシアは、今度はロジェリオをじっと見つめた。彼がゆっくりとカップを口に運び、やがて喉が動く。
「――うん、とても美味しいよ。エリシアは紅茶を淹れるのが上手だね」
そう言って微笑んだロジェリオを見て、エリシアはようやく肩の力を抜いた。
他愛ない会話を楽しんでいるうちに、エリシアも少しずつ緊張が解けてくる。弟は出かけているし、執事は父親の執務の手伝いをしているはずだ。きっと、何も起こらない。
それでもどこか気を張ったまま、二人の時間は終わりを告げた。ロジェリオを見送るために、エリシアも玄関ホールへと向かう。
「今日はありがとう。とても楽しい時間を過ごせたよ」
「こちらこそ、ありがとう」
「今度は、ぜひうちでお茶をしよう。母もエリシアに会いたいと言っていたよ」
「まぁ、嬉しい。ぜひ」
うなずいたエリシアを、ロジェリオはそっと抱き寄せる。
「うちなら安心して過ごせるだろう? それに、もっと親密な触れ合いだってできる」
こそりと囁かれた言葉に、エリシアの頬に血が上る。悪戯っぽい顔で笑ったロジェリオは、頬に掠めるような口づけを残すと、帰って行った。
頬に残る柔らかな感触を噛みしめつつ、エリシアはぼうっとその場に佇んでいた。
◇
心の落ち着かない日々を過ごすうち、ロジェリオと婚約を交わして数か月が経っていた。
二人は今も、軽いキスを交わす程度の触れ合いしかしていない。エリシアがそれ以上の関係になることを、拒んでいるからだ。
ロジェリオが殺された時、あの男はエリシアが純潔でないことを怒っていた。ロジェリオに抱かれたことがあの惨劇のきっかけのひとつだったなら、せめて結婚して家を出るまでは一線を越えてはならないと思うのだ。
もちろんロジェリオにもそれは伝えてあるし、彼も理解してくれている。今世では経験がないとはいえ、キス以上の甘い触れ合いを知っているエリシアは、ロジェリオに抱きしめられるたび、身体が切なく疼くのを感じているけれど。
ある日の夕食の席で、ふと父親が何かを思い出したような声をあげた。
「そういえば王立劇場で、秋の新作劇の公開が決まったそうだ」
「まぁ、どんなお話かしら」
観劇を好む母が、興味を引かれた様子で身を乗り出す。父親は、劇のタイトルを思い出すように顎に手を当てた。
「えぇと、なんだったかな……。あぁそうだ、人魚をモチーフにした悲恋の物語だ」
「人魚姫ね! 素敵だわ。ぜひ観に行きたいわね」
食事をしながら聞くともなしに会話を聞いていたエリシアは、思わず手を止めた。母親が口にしたタイトルには、聞き覚えがある。それは、ロジェリオが殺された日に両親が観に行っていた演目だったはずだ。
「チケットの手配を、いたしましょうか?」
執事のザカリアスがそう言うのを聞いた瞬間、エリシアは思わず口を開いた。
「っ、だめ!」
「だめだ!」
何故か同時に弟のヴィクトルも声をあげ、お互いの目が合う。ヴィクトルは、驚いたように目を見開いていた。
両親は苦笑して、エリシアとヴィクトルを交互に見る。
「どうしたの、二人とも。声を揃えて」
「えっと……あの、主演の方がすごく人気で、なかなかチケットが取れないと聞いたわ」
「うん、前売りも完売だって。だから観に行くのは難しいんじゃないかな」
ごまかすように言葉を重ねるエリシアに、ヴィクトルも同調する。
「そうねぇ。この前のチケットも、人気で取れなかったものね」
母親がため息をつき、食卓での会話は別の話題へと流れていく。
黙って食事を続けながら、エリシアはヴィクトルが何度もちらちらと視線を送ってくるのを感じていた。




