どうしたって捨てられない想い
手のひらに感じる、ほんの少しだけ速い鼓動。ロジェリオが確かに生きていることを実感して、エリシアは深い息を吐いた。
未だに止まることのない涙を、ロジェリオの手が優しく拭う。
「俺は、リオと呼ばれていたんだな」
吐息まじりにロジェリオが囁く。エリシアは、黙ってうなずいた。
「それならきっと、俺はきみのことを『シア』と呼んだだろうな。俺だけが呼ぶ、きみの名だ」
共に過ごした未来を知らないはずなのに、彼は同じ愛称でエリシアを呼ぶ。それが嬉しくて、瞳からは新たな涙がこぼれ落ちていった。
しばらくロジェリオの腕に包まれているうちに少しずつ落ち着きを取り戻したエリシアは、彼の腕の中から出て、姿勢を正して座り直した。
エリシアの知る恐ろしい未来を、ちゃんと伝えなければならない。
「毒を盛ったのは、私の……弟か、執事――そのどちらかです。『彼』は私と愛し合っていると勘違いをして、あなたの手から救い出すと言って、私をどこかに連れて行こうと……」
掴まれた腕の痛みも、向けられた笑みが気持ち悪かったことも覚えている。なのに、顔だけが思い出せない。
なんとか思い出せればいいのにと頭を抱えるエリシアの肩を、ロジェリオがそっと抱いてくれた。
「無理に思い出さなくてもいい。きっと恐怖から身を守るために、きみの心があえて忘れさせているに違いないから」
「でも、私が覚えていれば……。そうしたら、止められるかもしれないのに」
「そいつは俺を殺しただけでなく、きみを襲おうとした。そうだろう?」
ロジェリオの問いに、エリシアは唇を噛んでうつむいた。人を殺しておいて満面の笑みを浮かべていたあの男は、エリシアを攫って凌辱するつもりだった。ねっとりとした視線を向けられたことを思い出すだけで、吐き気を催す。
「恐ろしい思いをしたんだな、エリシア。守ってやれなくて、すまない」
手で口元を覆うエリシアを、ロジェリオは優しく抱き寄せてくれた。彼のせいではないと言いたいのに、しゃくりあげて言葉にならない。
優しい声で名を呼ばれ、エリシアは震える手を彼の背に回して抱きついた。恐ろしい記憶は頭の中から消えないけれど、彼のぬくもりを感じていたら、ほんの少しだけ恐怖が薄れていくようだ。
「私……、私も、あとを追ったの。『彼』のものになるくらいなら、死んだほうがましだと思って」
震える声で告げると、抱きしめる腕の力が更に強くなった。ロジェリオの苦しげな吐息が、耳元にかかる。
「あなたの――ロジェリオの飲んでいたカップの破片を胸に……。確かに死んだと思ったのに、気づいたら十九の誕生日の直前に戻っていたの」
「っ、エリシア……」
ほとんど吐息だけの彼の声も、震えている。顔は見えないけれど、彼も泣いているような気がした。
「辛い話をさせて、すまない。こんなにも恐ろしい記憶を抱えて、きみは……」
「きっと私が死に戻ったのは、あなたを守るため。私と婚約をしなければ、殺されることはないもの。だから……」
「それは違う。絶対に違う、エリシア」
強い口調で言って、ロジェリオはエリシアの顔をのぞき込んだ。その目は、怖いほどに真剣だ。
「エリシアが俺を守るために距離を置こうとしてくれたというのは、よく分かった。だけど俺を殺したその男は、今もきみに歪んだ想いを抱いているかもしれない。たとえ俺との婚約を回避したところで、きみの身は守れない」
「それは……」
「前回は、俺が先に殺されただけなのかもしれない。次はエリシア、きみが攫われるのが先だったらどうする? 俺はそんなこと、耐えられない。俺も、きみを守りたい」
ロジェリオの言葉に、エリシアは動揺して視線をさまよわせる。婚約を回避すればロジェリオを守れると思っていたから、これまで必死に彼を避けようとしてきたのだ。自分があの男に襲われる可能性があることは、頭の中からすっかり抜けていた。
「俺を殺し、エリシアを襲うのは、きみの弟か執事――そのどちらかなんだろう?」
「えぇ。私の家の庭でお茶を飲んでいた時のことだし、私が家族同然に思っていた相手だということは確実だから……」
エリシアは、弟のヴィクトルが本当は従弟であることと、執事のザカリアスを兄のように慕っていたことを説明する。
二人のことをエリシアは、家族のように思っていた。だからこそ、向けられた想いが恐ろしかったのだ。
「それなら尚更、俺はエリシアと離れたくない。きみを守ることのできる立場でいたい」
「でも」
「俺のことを嫌いじゃないなら、どうか一緒にいて。きみのことが好きなんだ。今度こそ俺が、絶対にエリシアを守るから」
まっすぐに見つめられて、エリシアは思わず息をのむ。
死に戻ったことや、未来で起きる惨劇のことなど、普通に考えれば突拍子もないことを言っている自覚はある。だけどそれを疑うことなく信じてくれたロジェリオを、そしてそれでもなおエリシアへ想いをぶつけてくれる彼の気持ちを、受け入れてもいいのだろうか。
エリシアは、ゆっくりと手を伸ばしてロジェリオの胸に再び手を当てた。伝わってくる鼓動が、彼が生きていることを教えてくれる。
「あなたを守るために、この想いは捨てるべきだと思っていたの。だけど、どうしても無理だった。だって私、あなたのことが好き……」
こみ上げる想いは涙となって、瞳からあふれる。それを拭うことなく、エリシアはロジェリオを見上げた。
「何度も自分に言い聞かせたわ。誰か他の人と幸せになってくれたらって……、生きていてくれるならそれでいいって。でも、そんなの嫌……! 私は……っ、あなたと――ロジェリオと、幸せになりたい。この先の未来も、一緒に生きていたいの……」
「大丈夫だ。絶対に幸せになれる。俺がエリシアを……シアを、守るから」
強く腕の中に抱き込まれ、こぼれた涙は彼のシャツに吸い込まれていった。
ロジェリオの手が頬を滑り、上を向くよう促す。その手に従って顔を上げれば、彼は黙ってエリシアを見つめていた。深い緑の瞳の中に、エリシアの顔が映っている。
引き寄せられるようにお互い顔を近づけ、唇が重なる。エリシアの記憶の中では数えきれないほどに交わした甘いキス。だけど今世では初めての口づけだ。
唇を触れあわせるだけで、泣きたくなるほどに幸せを感じる。あふれた涙は、ロジェリオが優しく吸い取っていった。
何度も啄むような口づけを繰り返しているうちに、エリシアの身体から力が抜けていく。雨はまだ激しく降っていて誰かが通りかかることはないだろうけれど、こんなにも親密な触れ合いをしていることが恥ずかしくなる。
「……っリオ、だめ……これ以上は」
「分かってる。さすがにここできみを抱くようなことはしないよ。だけど、離れたくないんだ。ずっと抱きしめて、キスをしていたい」
熱を帯びた囁きに、エリシアの体温も上がる。恥ずかしさをごまかすために、エリシアは指先にくるくると横髪を巻きつけた。
それを見たロジェリオが、小さく笑う。
「可愛い癖だな」
「え?」
「シアは、髪をいじる癖があるだろう。可愛いなと思ってたんだ」
ロジェリオはエリシアの手を取ると、指先にそっと唇を押し当てる。
「可愛いこの手に、ついキスをしたくなると思いながら、見ていた」
かつてと同じことを言うロジェリオを見て、エリシアはまた涙が滲むのを感じた。何度出会っても、彼はきっとエリシアを愛してくれるのだろう。
恐ろしい未来が再び訪れるかどうかは分からない。だけど、ロジェリオと迎える幸せな未来を信じたい。
そんなことを思いながら、エリシアは彼の背に腕を回してぎゅっと抱きついた。




