雨の四阿で
あとからあとからこぼれ落ちる涙を拭いながら、エリシアはやみくもに足を動かす。息が上がってきたので一度足を止めて周囲を見回すと、いつの間にか庭に出ていたことに気づく。
会場内からは人々の明るい声が聞こえるものの、庭は静かだ。小さくしゃくりあげたあと、エリシアは噴水そばのベンチに腰を下ろした。
これからどうすればいいのだろうか。ロジェリオに合わせる顔はないし、帰るためには迎えの馬車を呼ばなければならない。両親は夜会でロジェリオとの仲が進展することを期待しているだろうから、言い訳も考える必要がある。
「……もっと、嫌われるようにふるまえばよかったのかしら」
ため息まじりにエリシアはつぶやく。彼の家柄が目当てで、結婚したら財産を食いつぶすような悪女を演じていれば、彼の方から離れていってくれたかもしれない。そんなことを思うものの、今更どうしようもない。
大好きな人に想いを告げられたのに、それを断らなければならないなんて。だけど死に戻ったエリシアは、今度こそロジェリオを守ると決めているのだ。
涙を拭こうとしたエリシアは、今日もかすみ草の刺繍が施されたハンカチを持っていることに気づいて苦い笑みを浮かべる。お気に入りのハンカチだったけれど、これはもう処分するべきなのかもしれない。見ているだけで、ロジェリオのことを思い出してしまうから。
ハンカチで目元を押さえても、涙は一向に止まらない。ロジェリオの告白を断ったのはエリシアの方だけど、エリシアもまるで失恋をしたような気分だ。
その時、こちらに近づいてくる足音が聞こえてエリシアはぴくりと肩を震わせた。
「……っ、エリシア嬢」
駆け寄ってきたのは、予想通りロジェリオだった。あちこち走り回っていたのか、額には汗が浮かび、呼吸も荒い。
「ロジェリオ様」
「追いかけるような真似をして、すまない。だけど、どうしても気になって……。本当にきみが俺のことを嫌いだと言うのなら、すっぱりと諦めようと思った。だけど、きみは俺を拒絶するようなことを言いながら泣いていた。その理由が知りたいんだ」
「理由なんて……ありません。ただ、私はあなたに相応しくないと思っただけ」
「どうしてそんな風に思うんだ。誰かに何かを言われた?」
ロジェリオの言葉に、エリシアは黙って首を横に振る。涙の理由なんて、説明できるわけがない。
まさか追いかけてくるなんて思わなかったと思いつつ、エリシアは必死に言葉を探す。だけど何を言えばいいのか分からない。
その時、肩にぽつりと冷たいものが降ってきた。思わず顔を上げると、いつの間にか空は星も見えないほどに分厚い雲がかかっていて、次々と雨粒が降ってくる。
「っ、雨だ。エリシア嬢、ここにいては濡れてしまう。ひとまずこっちへ」
そう言ってロジェリオは、エリシアの手を引くと走り出した。
あっという間に雨足は強くなり、二人は慌てて近くの四阿に飛び込んだ。ざぁっと激しい雨音のせいで、会場の喧騒も聞こえなくなる。
「すごい雨だな、しばらく動けそうにない」
空を見上げたロジェリオは、困ったようにため息をつくとベンチに座るようにと促した。だがエリシアは、その場から一歩も動くことができずにいた。
突然の雨、二人きりの四阿――。
それは、ロジェリオが亡くなった時とよく似た状況だった。
今の二人は婚約していないし、ここは自宅でもない。お茶の準備なんてないから、彼が毒を盛られることはない。あんな恐ろしいことが、起こるはずがない。
分かっていても、エリシアの脳裏にはロジェリオの最期の姿が浮かんで離れない。
「エリシア嬢?」
凍りついたようにその場で硬直していると、ロジェリオが心配そうな顔になる。彼は今、ちゃんと生きている。必死にそう思おうとするのに、足の震えが止まらない。
かたかたと身体を震わせるのを見た彼は、エリシアが雨に濡れて冷えたと勘違いしたらしい。上着を脱ぐと、そっとエリシアの肩からかけてくれた。彼のぬくもりに包まれて、知らず涙がこぼれ落ちる。
「やめて……ください。私に、近づかないで」
「それは、どういう……」
「だめ。一緒にいては、いけないの。お願い、どうか私のことを……嫌いになって」
堪えきれず、エリシアは両手で顔を覆った。
自分はロジェリオのことを嫌いになれないのに、彼には嫌いになれと言うなんて、身勝手すぎる願いだ。
だけど彼を愛しているからこそ、一緒にいることはできない。
言葉にできない想いが、呻き声となって唇から漏れた。
「エリシア嬢」
囁くような声で名前を呼ばれ、彼がハンカチを差し出してくれたのが指の隙間から見えた。エリシアはそれを拒絶するように、顔を覆ったまま首を振る。
「俺はエリシア嬢のことが好きだし、どうしたってきみを嫌いにはなれない。きみが流す涙の意味を知りたいんだ。俺のことが嫌で泣いているわけではないと思うんだけど、それは勘違いかな……?」
「私……私は……」
ロジェリオの優しい声がエリシアの耳にしみ込んでいく。嫌いになってと言ったはずなのに、想いを告げられると胸の奥が締めつけられるほどに嬉しい。
何か言わねばと口を開くものの、しゃくりあげるばかりで言葉にならない。それに、何を言えばいいのかも分からない。
「エリシア嬢、こちらへ。ベンチに座ろう」
そう言って、ロジェリオはそっと背を押してベンチに座るよう促した。エリシアとは距離を取って、彼も腰を下ろす。
「きみが、何故か俺を避けようとしていることは分かるよ。だけど、それが本心でないことも分かる。他の人と幸せになってと言いながら、酷く傷ついた顔をしていた。だから……少しは俺のことを想ってくれているんじゃないかと、自惚れたくなる」
その通りだと思いながら、エリシアはただ黙ってうつむいていた。涙だけが、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
一緒にいてはならないと思うのに、今こうして共に過ごしていることすらエリシアにとっては喜びだ。
エリシアと結ばれたらロジェリオの未来に死が待っていることは分かっている。だけど彼が他の人と幸せになるところを想像したら息もできないほど苦しくなる。
どうすればいいのだろうと、エリシアは目を閉じた。涙が頬を伝って、落ちていく。
「顔も見たくないくらい俺のことを嫌いなら、どうかそう言って。そうしたら俺はここを出て、もう二度ときみに会わないと約束するよ」
静かな声でそう告げられて、エリシアはぴくりと肩を震わせた。ロジェリオはじっと沈黙して、エリシアの答えを待っているようだ。
嫌いだと一言告げれば、彼との縁は切れる。そうすればいいと分かっているのに、唇はどうしても動かない。
だってこんなにも愛している人のことを、たとえ嘘でも嫌いだなんて言えるはずがない。
「……そんなこと、言えない」
エリシアは、震える声で吐き出す。一度声を出せば、言葉は勢いよく唇から飛び出した。
「嫌いだなんて……言えない。言えるはずないわ。こんなにも好きなのに……! だけど、どうしてもだめなの。私と一緒にいたら、あなたは……っ」
「俺が、何?」
はっきりとした声で問われ、エリシアはハッとして口をつぐむ。
ロジェリオが死んでしまう未来を知っているなんて、信じてもらえるわけない。
「エリシア嬢、教えて。きみが何を抱えているのか、俺は知りたい」
「無理、言えない……」
「どうして? それが、きみが俺を避ける原因なんだろう? だったら、俺にも関係があることなんじゃないのか?」
「だって……きっと、信じてもらえないわ。それに、あなたを不快にさせてしまう」
「エリシア嬢の言うことなら、俺は信じるよ。だから、どうか教えて。きみの苦しみを俺も一緒に背負うことはできないのかな」
そっと伸ばされた手が、涙に濡れたエリシアの頬に触れる。指先であふれる涙を拭い、ロジェリオは顔をのぞき込んだ。大好きな深い緑の瞳が、じっとエリシアを見つめている。
「お願いだ、エリシア嬢」
「……っ」
真摯な口調で乞われて、また新たな涙が浮かび、彼の手に落ちた。これ以上は隠しきれないだろうと、覚悟を決める。
一度深く息を吐いて心を落ち着け、エリシアはゆっくりと口を開いた。
「私は……この先の未来に起きることを、知っているの」
震える声でそう告げると、ロジェリオは、驚いたように目を見開いた。表情は硬いものの、冗談だろうと笑い飛ばすような雰囲気はない。
「……きみの知っているその未来で、俺たちの身に何かが起こるということかな」
「信じてくれるの……?」
「もちろんだ。嘘でも俺のことを嫌いだといえないような優しいきみが、俺を騙すような真似をするわけない」
当然のことのようにうなずくロジェリオを見て、エリシアのこわばった心が少し緩む。
だけどあの恐ろしい出来事を口にするには、かなりの勇気を必要とする。エリシアの唇は、ぶるぶると震えた。
「私たちは婚約をして、結婚式を控えていて……。そして……ある日、あなたは……っ」
言葉にしようとするものの、声が出ない。唇どころか全身が震えて、血の気が引いていく。
あの雨の日、倒れたロジェリオの苦悶の表情。どんなに叫んでも握り返してくれることのなかった、冷たい手。
あなたは殺されるのだと、ロジェリオに伝えるのが恐ろしい。口にすれば、それが本当のことになってしまいそうだから。
「……っやっぱり、言えない……。怖いの」
「何を聞いても俺は平気だ。だから、教えて」
喘ぐような呼吸を繰り返すエリシアの手を、ロジェリオが握りしめた。あの忌まわしい記憶の中とは違う、あたたかな手。そのぬくもりに縋るように、エリシアは彼の手を握り返した。
そして、ごくりと唾を飲み込んでロジェリオをじっと見上げた。
「っ、あなたは、毒によって……命を落としました。……殺されたの」
ほとんど吐息のような声で伝えた言葉は、彼にも届いたようだ。信じられないといった様子で硬直するロジェリオから視線を逸らして、エリシアはうつむいた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙が、ドレスにいくつもの染みを作っていく。
「私は何もできなくて……ただ泣いていることしか……っ」
絶望の中、泣き叫んでいたことを思い出して、エリシアはひきつった声をあげる。
呼吸はどんどん速くなり、息を吸っても苦しさは増す一方だ。
「私……私の、せいで……っ」
悲鳴のような声でそう言ったエリシアの身体を、ロジェリオが強く抱きしめた。優しく背中を撫でる手は、エリシアに大丈夫だと言ってくれているようだ。
「きみのせいじゃない。自分を責めないでくれ」
耳元で、ロジェリオがゆっくりと言い聞かせるように囁く。だけど、エリシアはゆるゆると首を横に振った。
「違うの……っ、だって私の、せいでロジェリオは死んでしま……っ」
「エリシア、俺を見て」
ロジェリオの手が頬に触れ、上を向くよう促す。かつてと同じように名を呼ばれ、エリシアはハッとして顔を上げた。まっすぐに見つめる優しい表情が、記憶の中の彼と重なる。
「……リオ」
ぽつりとつぶやいたエリシアに、ロジェリオは安心させるような笑みを浮かべた。
「俺は、ここにいる。ちゃんと生きている」
彼はエリシアの手を取ると、自らの胸に押し当てた。手のひらには、力強く打つ鼓動が感じられる。
「生きて……」
「あぁ、そうだ。だから、大丈夫だ。きみの恐れる未来は、決して訪れない」
ロジェリオは、きっぱりとした口調でそう言い切った。




