私のことを忘れてください
気乗りしないまま迎えた夜会の日、エリシアはのろのろと身支度をしていた。
夜会を回避しようと体調不良を装ってばかりいたためか、父親には絶対に体調を崩さないようにと厳命されて、ここ最近は侍女のダナまでエリシアの体調を気にしてピリピリとしている。
仮病じゃなくて本当に熱でも出てくれればいいのにと思っていたのに、体調だけはすこぶるいい。気分はどんよりと沈んでいるけれど。
今夜のドレスも傷跡を隠すために、鎖骨下までレースで覆われたデザインだ。ロジェリオと一緒に参加するものの、彼の色である金と緑は身につけないように徹底した。アクセサリーは全てシルバーでまとめ、ドレスの色も淡い紫だ。
ロジェリオが迎えに来てくれたとの知らせを受けて、エリシアは重い腰を上げた。
「エリシアお嬢様、本当に体調は大丈夫ですか?」
ドアを開けてくれながら、執事のザカリアスが心配そうな声で囁く。本当は今すぐ逃げ出したいくらいだけど、そんなことができないのは分かっている。エリシアは意識して笑みを浮かべた。
「えぇ、大丈夫よ。お父様にも、心配しないでと伝えておいて」
「承知いたしました……が、体調が優れないようでしたら、無理はなさいませんよう」
「ありがとう」
そう言って前を向けば、見送りのためか弟のヴィクトルもやってきていた。エリシアのドレスに目を留めた彼は、軽く首をかしげる。
「あれ、そんなドレス、持っていたっけ?」
「お父様が、せっかくだからと新しく仕立ててくださったの」
絶対に公爵令息を逃がすな! と鼻息を荒くした父が、今夜のためにドレスを新調してくれたのだ。流行りのドレスショップの新作は随分と高価だったろうに、エリシアが玉の輿に乗れるならそんな投資も微々たるものだと考えているようだ。当のエリシアは、ロジェリオと婚約する気なんてないのだけど。
エリシアの説明に、ヴィクトルはなるほどとうなずき、じっとドレスを見つめた。
「ふぅん、見たことがないなと思ったら、そういうことか。うん、姉さんによく似合っていると思うよ」
淡々とした口調ながら褒められて、エリシアは若干の違和感を抱く。弟は、エリシアのドレスを褒めるような子だっただろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
小さく礼を言って、エリシアはロジェリオの待つ玄関ホールへと向かう。
足音に気づいたのか、ふと顔を上げたロジェリオは、エリシアの姿を認めた途端にぱあっと顔を輝かせた。
会えて嬉しいと言わんばかりのその表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
それに彼が着ているグレーのジャケットには見覚えがある。恋人同士として参加した前世でも、彼は同じものを身に纏っていた。襟元の飾りには空色の石が使われていて、それは恐らくエリシアの瞳の色を意識したものなのだろう。あえて彼の色を排除した装いをしている自分が、少しだけ申し訳なくなる。
だけど、ここで絆されてはならない。エリシアは今夜、ロジェリオに嫌われる覚悟なのだ。
エリシアは、仕方なく参加してやるのだという表情に見えるよう、わざと不機嫌な顔をしてみせる。
「やぁ、エリシア嬢」
「……こんばんは」
「こんなにも美しいきみをエスコートすることができて、とても幸せだよ。いい夜にしよう」
そう言って差し出された腕に、エリシアはあえて小さなため息をつきながら手を添えた。
ロジェリオが用意してくれた公爵家の馬車に乗って、会場を目指す。少しでも距離を取りたくて、エリシアはロジェリオと対角線上の位置に腰を下ろした。
「エリシア嬢」
「ごめんなさい、話しかけないでいただけますか」
「えっ」
「馬車は苦手で、酔ってしまいそうなんです。気を紛らわすために、窓の外を見ていたいので」
馬車に酔うなんて真っ赤な嘘だけど、エリシアは窓の外に視線を向けたまま抑揚のない声で言う。こんな感じの悪い女だなんて思わなかったと、幻滅してくれればいいのにと心の中で願いながら。
ロジェリオは分かったと小さく答えて、以後は話しかけてくることはなかった。重たい沈黙が落ちるが、仕方がないことだと言い聞かせる。
やがて会場に到着し、馬車から先に降りたロジェリオが手を差し出してくれた。
「酔いはどうだろうか。休憩室を借りて、少し休んだ方がいいかもしれないな」
「いえ、平気ですから」
「無理はしたらだめだ、エリシア嬢。会場で倒れたら大変だろう。まだ開始時刻までは少しあるし、体調を整えてからの方がいい。もちろん回復しないようなら、すぐに帰ろう」
ロジェリオの表情は真剣で、心からエリシアのことを案じているように見える。馬車酔いなんて嘘だと言うこともできず、気づけばエリシアは休憩室へと案内されていた。
会場で体調を崩した参加者のために、夜会では休憩室がいくつか用意されることが多い。とはいえそれは表向きの理由で、ほとんどが恋人たちの逢瀬の場として使われているのが実情だ。エリシアもかつては、ロジェリオと休憩室で二人きりの甘い時間を過ごしたことがある。
もちろん今のロジェリオが、そんな不埒な目的でエリシアを連れ込んだわけではないと分かっている。だけどエリシアにとっては愛する人と二人きりという状況に、冷静ではいられない。
「あの……大丈夫です。もうすっかりよくなりました」
「本当に?」
じっとのぞき込むように見つめられて、エリシアはおろおろと視線をさまよわせる。意識してはだめだと思うのに、頬が熱くなっていくのを自覚して、ますます動揺してしまう。
「えぇ、なんの問題もありません……っ」
「そうか、よかった。安心したよ」
ホッとしたような笑みを見せられて、エリシアの胸は罪悪感に疼く。嘘ばかりついているエリシアに、彼はどうしてこんなにも優しいのだろう。
少し距離を開けてエリシアの隣に腰を下ろしたロジェリオは、言葉を探すようにうつむき、何度か手を組み直した。そして何かを決意したような顔でエリシアに向き直る。
「エリシア嬢、きっともう気づいているだろうが、俺は……きみのことが好きだ」
「……っ」
この状況でまさか告白されるとは思わなくて、エリシアは目を見開いて固まった。もはや何を言えばいいのか分からなくなってしまう。
ロジェリオは照れ笑いを浮かべながら、エリシアを見つめた。
「先日の夜会で、きみの持っていたハンカチがあっただろう。あの花――かすみ草は、俺のすごく好きな花でね。素朴で脇役感の強い花だけど、昔から愛読している本に出てくることもあって、ずっと好きなんだ」
穏やかな声でロジェリオが話すのを聞きながら、何度出会っても彼は同じことを言うのだなと、心のどこかがふわりとあたたかくなるのをエリシアは感じていた。
――知っているわ。私も同じ本が好きだから。
心の中でそうつぶやくけれど、決して口に出すことはしない。
黙ったままのエリシアに、ロジェリオは微笑みかける。
「だから、きみがかすみ草の刺繍をしたハンカチを持っていて、運命を感じたんだ。……いや、一方的に運命を感じられても困惑するだけだと思うけど。でも、一緒に踊ったダンスが楽しくて、可愛らしいきみのことをもっと知りたくなった。劇場で再会できた時も、本当に嬉しかったんだ」
切なげな表情でそう言うと、ロジェリオは心を落ち着けるかのように唇をぺろりと舐めた。そして再びまっすぐにエリシアを見据える。
「きみにはまだ決まった相手がいないと聞いている。願わくば、俺をその候補として考えてはくれないか? すぐに返事をくれなくてもいい。俺のことを知ってもらった上で判断してもらったら……」
真剣な口調で告げられた想いに、エリシアの胸がいっぱいになる。ロジェリオが再びエリシアを好きになってくれたことは、本当に嬉しい。エリシアも彼を愛していると、素直に告げられたらどれほどいいだろうか。
だけど、それができないことをエリシアは知っている。彼と一緒になることは、絶対にできないのだ。
涙がこみ上げるのを堪えて、エリシアはうつむいてかぶりを振る。
「っ、ごめんなさい。私……無理です。あなたの気持ちを受け入れることは……できません」
身を切るような思いで断りの言葉を告げると、ロジェリオが息をのむのが聞こえた。やがて震える吐息を吐き出した彼が、ぐっと拳を握りしめるのが見えた。
「それは……どうして。もしかして、好きな人がいるのか……?」
「そう、です。私には、ずっと心に想う人が……います」
エリシアは、震える声で吐き出す。嘘ではない、エリシアはロジェリオのことをずっとずっと想っているから。
ロジェリオは誠実な人だ。エリシアが他の人に想いを寄せていると知ったら、強引に迫るような真似はしないはずだ。
これ以上彼と親しくならないためには、こうするのが一番いい。
「だから、私のことはどうか忘れてください。あなたには、もっと相応しい人がいます。その方と……幸せになってください」
微かに声が歪んだが、はっきりと拒絶したことは伝わったはずだ。
思わず小さく息を吐くと、堪えきれなかった涙が一粒、頬を伝って落ちた。
エリシアは急いでそれを拭うと、立ち上がる。
「ごめんなさい。失礼します」
早口でそう言って、休憩室を飛び出した。




