読書室を開くために、決めなければならないこと
子供たちへの初めての読み聞かせを終えた翌朝。
エレナは、机の上に広げた書類を前に、腕を組んでいた。
紙には、読書室を開くために必要なことが書き出されている。
建物の修理。
本棚と机の準備。
本の寄付の整理。
子供たちが安全に過ごすための決まり。
そして、読書室を管理する人。
「……思っていたより、決めることが多いですね」
思わず呟くと、隣に座っていたルシアンが書類を覗き込んだ。
「建物を用意するだけでは終わらないからね。けれど、昨日の読み聞かせで分かったこともあるだろう?」
「はい。子供たちは、本を読むだけでなく、自分で絵を描いたり、物語の続きを想像したりするのも好きみたいです」
「なら、それも読書室でできるようにしたいね」
「そうなんです!」
エレナは顔を上げた。
「本を読む場所だけではなく、読んだ物語について話したり、絵を描いたりできる場所にしたいです」
「いいと思うよ」
ルシアンは微笑んだ。
「エレナが本当に作りたい場所が、少しずつはっきりしてきたね」
その言葉に、エレナは嬉しそうに頷いた。
けれど、すぐに書類へ視線を戻す。
「そのためにも、まずはマルタさんに正式な計画をお見せしないといけませんね」
「そうだね。修理の見積もりも、そろそろ届く頃だと思う」
ちょうどその時、扉が開いた。
「おはよう! 読書室の準備は進んでいる?」
ミレイユが、両手に大きな籠を抱えて入ってきた。
「ミレイユ、その籠は?」
「もちろん、本よ!」
籠の中には、色とりどりの表紙の本が積まれていた。
「知り合いに声をかけたら、思っていた以上に集まったの。絵本だけじゃなくて、動物の図鑑や、子供向けの冒険物語もあるわ」
「こんなにたくさん……!」
エレナは目を輝かせた。
「ありがとうございます、ミレイユ!」
「どういたしまして。もっとも、全部を持ってくるのは大変だったけれど」
ミレイユはちらりとルシアンを見る。
「ねえ、王子様。こういう時こそ、王宮の馬車を使うべきではなくて?」
「昨日のうちに言ってくれれば、手配できたのに」
「昨日は、こんなに集まると思わなかったのよ!」
「なるほど。次は先に知らせてくれると助かるよ」
「……次もあると思っているの?」
「これだけ熱心なら、きっとあるだろう?」
ルシアンの穏やかな返事に、ミレイユは一瞬だけ言葉を失った。
「……なんだか、私のことをよく分かっているみたいで悔しいわね」
エレナはくすりと笑った。
ミレイユが来てくれたおかげで、読書室に置ける本はさらに増えた。
それでも、ただ数を揃えればいいというわけではない。
「本の状態も確認しないといけませんね。それから、子供たちが自分で選びやすいように、種類ごとに分けたいです」
「それなら、私も手伝うわ!」
ミレイユはすぐに籠から本を取り出し始めた。
「絵本、冒険物語、動物の本……。あら、この本は大人向けではないかしら?」
「文字が少し難しそうですね。こちらは、もう少し大きくなった子供たち向けにしましょう」
二人は一冊ずつ内容を確かめながら、本を分けていった。
昼過ぎ。
エレナたちは職人街の古い集会所へ向かった。
入口では、家具職人の見習いが待っていた。
「お待ちしていました!」
彼は以前、エレナたちに協力を申し出てくれた青年だった。
「修理に使える木材をいくつか調べてみました。全部を新しく作るより、使えるものは直した方が費用を抑えられそうです」
「本当ですか?」
「はい。特に、奥にある棚は傷んでいる部分を交換すれば、まだ使えます」
青年に案内され、エレナたちは建物の中へ入った。
壁の一部にはひびがあり、窓枠も古くなっている。
床には傷んだ板が残っていたが、以前よりも片づけが進んでいた。
「ここは子供たちが歩く場所ですから、床の修理を優先したいです」
カイルが記録を確認しながら言った。
「窓の鍵も交換した方がよいでしょう。出入口は一つだけにせず、緊急時に使える経路も確保したいところです」
「そうですね」
エレナは頷いた。
「本棚も、子供たちが自分で本を取れる高さにしたいです。重い本は下の段に置いて、倒れないように固定できれば……」
「それなら、棚の構造も少し変えましょう」
青年が答えた。
「子供たちが引っ張っても、簡単には倒れないようにできます」
「お願いします!」
エレナは手帳に書き留めた。
以前なら、建物の修理について何を確認すればいいのか、ほとんど分からなかっただろう。
けれど今は、子供たちがこの場所で過ごす姿を想像しながら、必要なことを考えられる。
その時、ルシアンが壁際を指さした。
「この辺りに、読み聞かせ用の場所を作るのはどうかな?」
窓から柔らかな光が入る一角だった。
「椅子を並べるより、大きな敷物を敷いて、子供たちが座って聞けるようにしてもいいと思う」
「素敵ですね!」
エレナは、その場所を見つめた。
「ここなら、みんなの顔を見ながら本を読めそうです」
「ただし、床をきちんと直してからだね」
「はい。安全が一番ですから」
エレナは頷いた。
理想を形にするためには、急いではいけない。
子供たちが安心して過ごせる場所を作ること。
それが、何よりも大切だった。
建物の確認を終えると、四人はマルタのもとを訪ねた。
マルタは、集会所の管理を任されている女性だった。
彼女はエレナたちが差し出した書類に目を通し、何度か頷いた。
「床と窓の修理、それから棚の固定。必要なことが具体的になってきましたね」
「はい。こちらが、現時点での修理計画です」
エレナは説明を続けた。
「本を読む場所と、絵を描いたり物語について話したりする場所を分けたいと思っています。ただし、最初から大きな設備を用意するのではなく、必要なものから少しずつ揃えるつもりです」
「運営する人は決まっていますか?」
マルタの質問に、エレナは少し考えた。
「私が中心になって管理したいと思っています。ただ、私一人では難しいので、協力してくださる方を探しています」
「開いている時間や、子供たちの出入りについても決まりが必要ですね」
「はい。保護者の方にも分かるように、利用できる時間や約束事を掲示したいです」
マルタは書類を閉じた。
「分かりました。これなら、正式に検討できます」
エレナの胸が高鳴った。
「では……!」
「ただし、修理費用の最終的な金額と、実際に管理する人の体制は確認させてください。それが分かるまでは、開室の日を決めることはできません」
「もちろんです」
エレナはしっかりと頷いた。
「必要なことを一つずつ整えます」
マルタは、少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、子供たちのことをよく考えているのですね」
「……ありがとうございます」
「でも、あなた自身が無理をしすぎないことも大切ですよ。善意だけで続けるのは、簡単ではありませんから」
その言葉に、エレナははっとした。
自分が頑張ればいい。
最初は、そう考えていたのかもしれない。
けれど、読書室を長く続けるためには、自分一人の力だけに頼るわけにはいかない。
「はい。皆さんと相談しながら、無理なく続けられる方法を考えます」
「それなら、きっと良い場所になるでしょう」
マルタは微笑んだ。
集会所を出た後、エレナは手帳を開いた。
新しく決めることが、また増えている。
けれど、不思議と気持ちは重くなかった。
「……少しずつ、形になってきましたね」
「うん」
ルシアンが隣で頷く。
「最初は、本を並べることから始まったのにね」
「今は、子供たちが安心して過ごせる場所を作ることが、どれほど大切なのか分かってきました」
「エレナが考えて、周りの人たちと一緒に作っているからだと思うよ」
エレナは彼を見上げた。
「ルシアンも、たくさん助けてくれています」
「僕は、君がやりたいことを手伝いたいだけだよ」
あまりにも自然に言われたので、エレナは少しだけ頬を赤くした。
「……そういうことを、急に言わないでください」
「どうして?」
「どうしてって……」
答えに困って視線をそらす。
その様子を見ていたミレイユが、すかさず二人の間に顔を出した。
「あらあら。読書室の計画だけじゃなくて、こちらも順調みたいね?」
「ミレイユ!」
「私は何も言っていないわよ?」
「今、絶対に何か言いました!」
ミレイユは楽しそうに笑いながら、先へ歩いていった。
カイルは小さく息を吐く。
「……帰りましょう。これ以上遅くなると、明日の準備に支障が出ます」
「カイルは本当に真面目ね」
「必要なことですから」
「じゃあ、明日は本の整理を手伝ってくれる?」
「最初からそのつもりです」
「ふふっ、頼りにしているわ!」
ミレイユの笑顔に、カイルは返事をしなかった。
ただ、その歩調は彼女に合わせるように、ほんの少しだけゆっくりになっていた。
その夜。
エレナは机に向かい、読書室の計画書を整理していた。
修理の優先順位。
本の分類。
利用時間と安全のための決まり。
そして、協力してくれる人たちの名前。
最後の欄を見つめながら、エレナはペンを止めた。
ここに名前が増えていくたびに、この計画は自分一人のものではなくなっていく。
それが、とても心強かった。
日記を開き、今日の出来事を書き始める。
『今日は、読書室を開くために必要なことを、改めて考えました。』
『本を集めることも、建物を直すことも大切です。でも、それ以上に、子供たちが安心して過ごせる場所にすること。そして、無理なく続けられる仕組みを作ることが必要なのだと分かりました。』
少し考えた後、最後に書き加える。
『一人では難しいことも、誰かと一緒なら、少しずつ進められるのですね。』
エレナは日記を閉じた。
読書室が開く日は、まだ決まっていない。
けれど、そこへ向かう道は、確かに続いている。
明日は、修理費用の見積もりを確認し、本の整理を進めよう。
そして、子供たちが安心して過ごすために、何ができるのかを考えよう。
エレナは机の上の計画書を丁寧にまとめた。
いつか、あの扉を開く日が来た時。
子供たちが迷わず中へ入ってこられるように。
その日を思い描きながら、エレナは静かに灯りを消した。




