初めての読み聞かせと、小さな約束
読書室の準備を始めてから、数日が過ぎた。
エレナは王宮の一室で、机の上に並べられた本を眺めていた。
ミレイユが貴族の知人たちに声をかけてくれたおかげで、絵本や短い物語が少しずつ集まり始めている。
職人街では、古い集会所の修理も進んでいた。
けれど、正式に読書室を開くまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
「……待っているだけでは、もったいないですよね」
エレナは一冊の童話集を手に取った。
先日、子供たちに会った時のことを思い出す。
『できたら、最初の日に行く!』
あの時の女の子の笑顔が、今も心に残っていた。
「場所が完成する前に、一度だけ読み聞かせをしてみるのはどうでしょう?」
エレナが尋ねると、向かいに座っていたルシアンが顔を上げた。
「集会所ではなく、別の場所で?」
「はい。広場の近くにあるお店の方に相談して、少しの時間だけ場所を借りられたらと思うんです」
「いい考えだと思うよ」
ルシアンは頷いた。
「実際に子供たちと本を読んでみれば、どんな準備が必要なのかも分かるだろうしね」
「そうですよね」
エレナの表情が明るくなる。
「それに、完成するまで何もできないわけではありませんから」
「うん。エレナが始めたいと思ったことなんだから、できるところから始めればいい」
エレナは童話集を胸に抱いた。
「では、さっそく相談してみます!」
そう言って立ち上がったところで、扉が勢いよく開いた。
「その話、私も参加するわ!」
ミレイユだった。
「ミレイユ?」
「ルシアンから聞いたの。読書室ができる前に、子供たちへ本を読んであげるんでしょう?」
「はい。まだ場所を借りられるか分かりませんけど……」
「なら、私も一緒にお願いしに行く!」
ミレイユは胸を張った。
「それから、本を読む時の練習も手伝うわ!」
「ありがとうございます」
「ふふっ。楽しみね!」
その後ろから、カイルも姿を見せた。
「私も同行します」
「カイルもですか?」
「子供たちが集まる場所を借りるのですから、安全面の確認は必要でしょう」
ミレイユが笑う。
「それなら、読み聞かせの時はカイルも参加してね」
「……なぜそうなるのですか?」
「だって、カイルも本を読むのが得意そうだもの」
「得意かどうかと、読み聞かせを担当することは別の話です」
「じゃあ、練習してみましょう!」
「話を聞いていましたか?」
エレナは思わず笑ってしまった。
こうして、四人で職人街へ向かうことになった。
職人街に到着すると、エレナたちは以前話を聞いた雑貨店を訪ねた。
店主は四人を見ると、すぐに笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。読書室の準備は順調ですか?」
「はい。少しずつですが、進んでいます」
エレナは丁寧に頭を下げた。
「今日は、一つお願いがあって来ました」
「お願い?」
「集会所が完成するまでの間、子供たちに本を読んであげる時間を作りたいんです。もしよろしければ、お店の近くにある空きスペースを、短い時間だけお借りできないでしょうか?」
店主は少し考えた。
「それなら、店の裏にある小さな休憩所が使えるかもしれません。今は荷物を置くくらいにしか使っていませんから」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、広くはありませんよ」
「十分です!」
エレナは嬉しそうに答えた。
「最初は、少人数で始めたいと思っていますから」
「それなら、ぜひ使ってください」
「ありがとうございます!」
エレナは深く頭を下げた。
最初の読み聞かせを行う場所が、決まったのだった。
翌日。
エレナたちは、約束した休憩所へ向かった。
部屋には小さな机と椅子があり、窓から柔らかな光が差し込んでいる。
大勢が集まることはできないが、数人の子供たちが本を楽しむには十分だった。
「ここなら、ゆっくり読めそうですね」
エレナが部屋を見回す。
「そうだね」
ルシアンが机を整える。
「最初から大きな場所を用意する必要はないんだ」
「はい」
エレナは持ってきた本を並べた。
動物の絵本。
短い冒険物語。
森に住む小さな動物たちのお話。
どれも、子供たちが楽しめそうな本ばかりだった。
「私はこの本を読みたいわ!」
ミレイユが一冊の絵本を手に取った。
「この動物、すごく可愛いもの!」
「どんなお話なんですか?」
「森に住むウサギが、友達を探しに行くお話よ」
「楽しそうですね」
「でしょう?」
ミレイユは本を開き、さっそく声に出して読んでみた。
「むかしむかし、森の奥に――」
ところが、数行進んだところで、急に声が大きくなる。
「そしてウサギは、森の中を走って、走って、走って――!」
「ミレイユ、少し声が大きいです」
カイルが冷静に指摘した。
「えっ?」
「小さな部屋です。もう少し落ち着いて読んだ方が、聞きやすいと思います」
「そう?」
「はい」
ミレイユは咳払いをした。
「では、もう一度……」
今度は小さすぎて、最後の方が聞こえなくなった。
「……ミレイユ」
「何よ!」
「今度は声が小さすぎます」
「難しいわね!」
エレナは笑いながら頷いた。
「でも、楽しそうに読めていると思います」
「本当?」
「はい。子供たちもきっと、ミレイユの気持ちが伝わると思います」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「それなら、もっと練習するわ!」
やがて、約束の時間になった。
広場で出会った子供たちが、少しずつ部屋へ集まってくる。
「本当に読んでくれるの?」
あの時の女の子が、エレナを見上げた。
「ええ。今日は、この本を読もうと思っているの」
エレナは絵本を見せた。
表紙には、小さな鳥と森の動物たちが描かれている。
「わあ、可愛い!」
「どんなお話?」
「それは、読んでからのお楽しみよ」
エレナが微笑むと、子供たちは嬉しそうに椅子へ座った。
最初は少し落ち着かない様子だったが、エレナが本を開くと、部屋は静かになった。
「むかしむかし、深い森の中に、小さな鳥が住んでいました――」
エレナは、ゆっくりと物語を読み始めた。
小さな鳥は、広い世界を見たいと思っていた。
けれど、自分の翼でどこまで飛べるのか分からず、なかなか森の外へ出られなかった。
ある日、森で出会った動物たちが、それぞれ違う道を教えてくれる。
鳥は迷いながらも、自分で行き先を選び、初めて見る景色に出会っていく。
エレナは、一つ一つの場面を丁寧に読んだ。
鳥が勇気を出す場面では、少し声を弾ませる。
友達と別れる場面では、静かに言葉を紡ぐ。
そして、最後のページを開いた。
「小さな鳥は、森の外に広い世界があることを知りました。でも、森に帰れば、また会いたい友達が待っています。だから鳥は、これからも自分の翼で、行きたい場所へ飛んでいこうと決めたのでした」
読み終えると、部屋はしばらく静かだった。
エレナは少し不安になった。
「……どうだった?」
一人の男の子が、ぱっと顔を上げた。
「鳥さん、すごい!」
「私も、こんな森を見てみたい!」
「ねえ、鳥さんは次にどこへ行くの?」
次々と声が上がる。
エレナはほっとして、笑顔になった。
「それは、まだ分からないわ。でも、きっと自分で行きたい場所を見つけると思う」
「いいなあ!」
女の子が目を輝かせた。
「私も、知らないところへ行ってみたい!」
「僕も!」
エレナは子供たちを見つめた。
物語の続きを知りたいと思ってくれたこと。
自分も何かをしてみたいと感じてくれたこと。
それが、とても嬉しかった。
読み聞かせの後は、子供たちが絵を描く時間になった。
エレナが用意した紙と色鉛筆を配ると、みんな思い思いに描き始めた。
森を描く子。
鳥を描く子。
空いっぱいに大きな翼を描く子もいた。
「見て、お姉さん!」
女の子が紙を持ってきた。
そこには、森の中を飛ぶ小さな鳥が描かれていた。
「とても素敵ね!」
「この鳥、森の外まで飛んでいくの!」
「そうなの?」
「うん! それで、帰ってきたら、みんなに見たものを教えてあげるの!」
エレナは笑顔で頷いた。
「きっと、みんな喜ぶと思うわ」
その言葉に、女の子は嬉しそうに絵を抱きしめた。
少し離れた場所では、ミレイユが子供たちの絵を見て回っていた。
「わあ、この竜、すごく格好いい!」
「でしょう?」
「この翼なんて、とっても大きいわ!」
子供が誇らしそうに胸を張る。
一方、カイルは机の間を歩き、色鉛筆が床に落ちていないか確認していた。
「カイル、そんなに見回らなくても大丈夫よ」
ミレイユが笑う。
「転んだら危険ですから」
「じゃあ、カイルも絵を描けば?」
「私がですか?」
「そう。何でもいいから!」
「……」
カイルはしばらく考えた後、子供から余った紙を一枚受け取った。
そして、真剣な顔で描き始める。
数分後。
「できました」
紙を見たミレイユが固まった。
「……これ、何?」
「城です」
「えっ?」
そこには、四角い建物と、規則正しく並んだ窓が描かれていた。
「……ものすごく真面目な絵ね」
「城ですから」
「そういう問題じゃないのよ!」
近くにいた男の子が、絵を覗き込んだ。
「お兄さん、騎士も描いて!」
「騎士ですか?」
「うん!」
カイルは真剣に頷いた。
「分かりました」
その様子を見て、ルシアンが小さく笑った。
「カイル、今日は大人気だね」
「殿下まで……」
エレナは笑いながら、その光景を見つめた。
ここにいる誰もが、それぞれの形で子供たちと時間を過ごしている。
自分一人では、きっとここまでできなかった。
協力してくれる人がいるからこそ、今日という時間が生まれたのだ。
帰る時間になると、子供たちは名残惜しそうに本を片づけ始めた。
「次はいつ来るの?」
女の子がエレナに尋ねる。
「また、近いうちに来るわ」
「本当?」
「ええ。でも、次に来る時は、もう少し準備をしてからね」
エレナは優しく笑った。
「ここは今日だけの場所だけれど、みんなが安心して本を読める場所を、ちゃんと作りたいの」
「じゃあ、待ってる!」
女の子は元気よく答えた。
「次は、竜のお話を読んで!」
「分かったわ。探しておくわね」
エレナは頷いた。
子供たちが帰っていくのを見送りながら、胸の奥が温かくなった。
まだ読書室は完成していない。
でも、今日、確かに一つの物語をみんなで楽しむことができた。
それだけで、大きな一歩だった。
帰り道。
エレナは、いつもより少しゆっくり歩いていた。
「疲れた?」
ルシアンが尋ねる。
「少しだけ。でも、楽しかったです」
「うん。みんな、喜んでいたね」
「はい」
エレナは微笑んだ。
「物語を読んでいる時、みんなの表情が少しずつ変わっていくのが分かりました」
「それを見るのが好き?」
「……はい」
エレナは考えながら答えた。
「物語を聞いて、笑ったり、驚いたり、自分ならどうするか考えたり……。みんな、それぞれ違うことを感じていました」
「それが、物語の面白さなのかもしれないね」
「そうですね」
エレナは空を見上げた。
「私、これからも続けたいです」
「うん」
「読書室が完成した後も、時々は子供たちに本を読んであげたいです」
ルシアンは微笑んだ。
「きっと、いい時間になるよ」
エレナは頷いた。
自分が好きなものを、誰かと分かち合う。
その喜びを、今日初めて、少しだけ深く知ることができた。
その夜。
エレナは日記を開いた。
『今日は、初めて子供たちに物語を読みました。』
『最初は少し緊張しましたが、みんな楽しそうに聞いてくれました。』
『読み終わった後、それぞれが物語の続きを想像して、絵を描いてくれました。』
ペンを止め、今日の女の子の笑顔を思い出す。
『物語は、読む人の数だけ、違う楽しみ方があるのかもしれません。』
そして、最後に書き加えた。
『次に会う時も、みんなが楽しめる物語を持っていきたいです。』
エレナは日記を閉じた。
窓の外には、静かな星空が広がっている。
明日になれば、また読書室の準備が待っている。
建物の修理も、本集めも、まだ終わっていない。
けれど、今日という一日で分かったことがある。
自分が作りたいのは、ただ本を並べる部屋ではない。
子供たちが新しい物語に出会い、自分の好きなものを見つけ、いつか自分自身の物語を描けるような場所なのだ。
「……頑張ろう」
エレナは小さく呟いた。
いつか、あの古い集会所の扉を開けた時。
今日のような笑顔が、たくさん見られますように。
そんな願いを胸に抱きながら、エレナは明日へ向かう準備を始めた。




