言葉を綴る場所
私たちは急いで王都を出た。
馬車の中では、誰もほとんど口を開かなかった。
私の胸元に見える黒い糸は、ずっと同じ方向へ伸びている。
私の家。
そこに何があるのか。
家族は無事なのか。
考えるほど不安が大きくなった。
「エレナ」
向かいに座るルシアンが、私を見つめる。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
私は正直に答えた。
「家族が心配なの」
「必ず間に合わせる」
ルシアンはそう言って、私の手を握った。
その温かさに、少しだけ落ち着く。
けれど、黒い糸は消えない。
むしろ、屋敷に近づくほど濃くなっていた。
「カイル」
ルシアンが前方へ声をかける。
「あとどれくらい?」
「もうすぐです」
馬車が速度を上げる。
しばらくして、遠くに見慣れた屋敷が見えてきた。
私は窓から身を乗り出す。
「……何か変」
屋敷の門が開いている。
いつもなら、門番が二人いるはずなのに。
誰もいない。
「止めて!」
馬車が急停止する。
カイルがすぐに降り、剣を抜いた。
「私が先に確認します」
「待って」
私は屋敷を見る。
黒い糸が、屋敷の中へ続いている。
そして、その先に――
一本の赤い糸が見えた。
「……血の糸?」
私が呟いた瞬間、ルシアンの表情が変わった。
「エレナ、ここから動かないで」
「でも――」
「頼む」
彼の声があまりにも真剣だった。
私は頷いた。
ルシアンとカイルが屋敷へ入っていく。
ミレイユと私は馬車の中で待った。
数分が過ぎる。
何も起こらない。
「……遅いわね」
ミレイユが不安そうに呟く。
私は目を閉じた。
糸を追う。
黒い糸。
屋敷の廊下。
階段。
そして――父の書斎。
「……お父様」
私は立ち上がった。
「どうしたの?」
「書斎に何かある」
「でも、ルシアンが――」
「行かなくちゃ」
私は馬車を降りた。
「エレナ!」
ミレイユも慌てて追ってくる。
屋敷の中へ入ると、空気が妙に静かだった。
使用人の姿がない。
家具は荒らされていない。
まるで、誰かが意図的に人だけを消したようだった。
「……おかしい」
ミレイユが震える。
私は黒い糸を追った。
廊下を進み、階段を上がる。
父の書斎の前で止まった。
扉が少しだけ開いている。
「お父様……?」
返事はない。
私はゆっくり扉を開けた。
「……!」
部屋の中央に、父が倒れていた。
「お父様!」
駆け寄ろうとした私の腕を、ミレイユが掴んだ。
「待って!」
床に魔法陣が描かれている。
黒い線が複雑に絡み合い、中央には見覚えのない紋章が浮かんでいた。
「触らない方がいいわ!」
そのとき。
「エレナ!」
背後からルシアンの声が響いた。
彼が部屋へ駆け込んでくる。
父の姿を見た瞬間、顔色が変わった。
「これは……」
「お父様が!」
ルシアンは魔法陣を確認する。
「カイル!」
「はい!」
カイルが父のそばにしゃがみ込む。
「呼吸はあります。命に別状はなさそうです」
「よかった……」
私は胸を撫で下ろした。
けれど、父の手元に何かがあることに気づいた。
小さな箱。
私はそれを見つめる。
「……あれ」
黒い糸が、その箱から伸びている。
「ルシアン」
「分かってる」
彼が箱へ近づく。
「これは?」
「父が持っていたものみたい」
箱には鍵がかかっていた。
カイルが周囲を調べる。
「鍵はありません」
私は父の手を見る。
そこには小さな銀色の鍵が握られていた。
「これ……」
鍵を取ろうとした瞬間。
父の指が動いた。
「……エレ……ナ」
「お父様!」
父がゆっくり目を開ける。
「ここ……は……?」
「私よ。エレナよ」
「……そうか」
父は苦しそうに息を吐いた。
そしてルシアンを見た。
その瞬間、目を大きく見開く。
「……殿下」
「お久しぶりです」
「なぜ……ここに……」
父はルシアンを知っている。
私は驚いた。
「お父様、ルシアンを知っているの?」
父は答えようとした。
しかし、視線が私の胸元へ移った。
「……見えているのか?」
「何が?」
父は震える手で私を指した。
「その……糸が」
「……!」
部屋の中が静まり返った。
「お父様にも見えるの?」
「いや……私には見えない」
父は首を振った。
「だが、知っている」
ルシアンが一歩前へ出る。
「何を知っているのですか?」
父は苦しそうに目を閉じた。
「十年前のことを……」
私の心臓が大きく鳴った。
「お父様は、十年前の事件を知っているの?」
「……全部ではない」
「じゃあ、何を知ってるの?」
父はしばらく沈黙した。
そして、震える声で言った。
「ルシアン殿下を助けたのは……」
そこで言葉が途切れる。
「誰なの?」
父は私を見る。
その目には、恐怖が浮かんでいた。
「……お前の母親だ」
「え……?」
息が止まった。
「お母様が……ルシアンを助けた?」
ルシアンも驚いている。
「彼女が……?」
父は頷いた。
「十年前、魔獣に襲われた王子を見つけたのは、私の妻だった」
「でも……どうして?」
「彼女は……」
父が言葉を続けようとした瞬間。
窓が砕けた。
「伏せろ!」
ルシアンが私を抱き寄せる。
ガラスが床に散らばる。
カイルが剣を抜いた。
「敵襲です!」
窓の外に、黒い影が立っていた。
その人物は顔を隠している。
そして私を見ると、低い声で言った。
「やはり、娘にも受け継がれていたか」
「……何を?」
男は笑った。
「お前の母親と同じ力を」
私の胸元で、黄金色の糸が強く輝いた。
そして初めて。
黒い糸の先にいる人物が、はっきりと見えた。
「……あなたは」
男の姿を見た瞬間。
頭の奥に、十年前の記憶が蘇る。
炎。
雪。
幼いルシアン。
そして、私の母。
『この子を連れて逃げて!』
母の声が聞こえた。
『この子だけは、絶対に殺させないで!』
私は息を呑んだ。
十年前。
私が生まれる前。
母はルシアンを救っていた。
そして――
その事件には、私の家族も深く関わっていた。




