子供たちの笑顔のために、最初の準備
翌朝。
エレナは朝食を終えると、机の上に何冊かの本を並べた。
童話集、冒険物語、動物の図鑑。
どれも、以前から自分が気に入っていた本だった。
「……どれがいいでしょう」
一冊ずつ手に取り、表紙を眺める。
昨日、職人街で出会った子供たちの顔が浮かんだ。
『絵がいっぱいある本なら好き!』
『誰かが読んでくれたら聞きたい!』
その言葉を思い出し、エレナは一冊の童話集を開いた。
挿絵が多く、文章も短い。
これなら、小さな子供たちでも楽しめるかもしれない。
「まずは、この本から始めてみましょう」
エレナは本を籠に入れた。
その時、扉がノックされた。
「エレナ、入ってもいい?」
「はい、どうぞ」
入ってきたのはミレイユだった。
「おはよう! 昨日の話、ルシアンから聞いたわ」
「おはようございます」
「子供たちのために、本を読める場所を作るんでしょう?」
「はい。でも、まだ準備を始めたばかりです」
「それなら、私にも手伝わせて!」
ミレイユは迷いなく言った。
「ありがとうございます」
「まずは何をすればいい?」
エレナは机の上の本を見た。
「子供たちが楽しめる本を集めたいんです。それから、どんな場所なら気軽に来られるのかも考えたくて」
「なるほど……」
ミレイユは少し考えた。
「だったら、私の家にも聞いてみるわ。読まなくなった絵本や物語があるかもしれないもの」
「本当ですか?」
「もちろん!」
ミレイユは笑った。
「それに、貴族の家には本がたくさんあるでしょう? 誰かが協力してくれるかもしれないわ」
「助かります」
「任せて!」
ミレイユは胸を張った。
「こういうことなら、私も得意よ!」
エレナは嬉しそうに頷いた。
自分一人では、どこから始めればいいのか分からないことも多い。
けれど、協力してくれる人がいる。
それだけで、少しずつ前へ進める気がした。
昼前。
エレナとミレイユは、王宮の一角にある小さな応接室で、集められそうな本を整理していた。
「これは絵本ね」
「こちらは動物の図鑑です」
「こっちは……文字が多すぎるかしら?」
ミレイユが厚い本を持ち上げる。
「最初は難しいかもしれませんね。でも、年上の子なら興味を持つかもしれません」
「確かに。全部を小さな子向けにする必要はないものね」
二人は本を種類ごとに分けていった。
絵本。
短い物語。
冒険譚。
動物や植物の本。
文字を読む練習ができる本。
「……こうしてみると、いろいろな種類がありますね」
エレナが呟く。
「本って、物語を楽しむだけじゃないものね」
ミレイユも頷いた。
「知らないことを知ったり、自分の知らない世界を見たりできるわ」
「はい」
エレナは一冊の冒険物語を手に取った。
そこには、遠い国を旅する少年の挿絵が描かれていた。
「私も、小さい頃にこういう本を読んで、知らない場所へ行ってみたいと思ったことがあります」
「それで本当に旅に出たのね」
「ふふっ。そうですね」
エレナは笑った。
「今度は、この本を読んだ子が、いつか自分の行きたい場所を見つけてくれたら嬉しいです」
「素敵ね」
ミレイユは優しく微笑んだ。
午後。
ルシアンとカイルも合流し、四人で本を運ぶための準備を始めた。
「これだけ集まったんですね」
エレナは机の上を見て驚いた。
まだ十分とは言えないが、絵本や短い物語が何冊も揃っている。
「ミレイユが声をかけてくれたおかげだね」
ルシアンが言う。
「えへへ。私も頑張ったもの!」
ミレイユが得意そうに笑った。
「それで、次は場所ですね」
カイルが整理した本の数を確認する。
「子供たちが集まるなら、広さだけでなく、出入りのしやすさや安全性も考える必要があります」
「はい。昨日のお店の方にも、もう一度相談したいと思っています」
エレナは頷いた。
「それに、子供たちが遊んでいる広場の近くなら、見つけてもらいやすいと思うんです」
「確かに」
ルシアンは地図を広げた。
「この辺りに、以前は小さな集会所として使われていた建物があったはずだよ」
「集会所ですか?」
「うん。今も使われているかは分からないけど、調べてみる価値はあると思う」
「見に行ってみたいです」
「分かった。明日、一緒に確認しよう」
エレナは頷いた。
計画が少しずつ具体的になっていく。
まだ完成には遠い。
それでも、昨日までは思いつきにすぎなかった願いが、今は現実に近づいていた。
その日の夕方。
エレナは一人で、童話集を開いていた。
明日、子供たちに会った時に読んであげられるよう、声に出して練習しているのだ。
「……むかしむかし、森の奥に、小さな家がありました」
静かな部屋に、自分の声が響く。
少し読み進めたところで、エレナはふと顔を上げた。
「……あれ?」
物語の途中に、主人公が困っている場面があった。
以前なら、ただ先を読み進めていたかもしれない。
けれど今は、子供たちがこの場面を聞いたら、どんなことを考えるのだろうと思った。
主人公を応援するだろうか。
それとも、別の方法を提案するだろうか。
「……聞いてみたいですね」
エレナは微笑んだ。
物語は、読む人によって感じ方が違う。
同じ本を読んでも、誰もが同じことを思うわけではない。
だからこそ、みんなで楽しむ意味があるのかもしれない。
エレナは本を閉じた。
そして、日記を開く。
『今日は、子供たちのための本を集めました。』
『ミレイユも協力してくれて、思っていたよりたくさんの本が集まりました。』
少し考えてから、続ける。
『明日は、場所を探しに行きます。』
最後に、こう書き加えた。
『いつか、子供たちと一緒に物語を読める日が楽しみです。』
翌日。
エレナたちは職人街へ向かった。
昨日、ルシアンが話していた集会所を確認するためだ。
広場を抜け、細い道を進んでいく。
やがて、古い石造りの建物が見えてきた。
「ここですか?」
エレナが尋ねる。
「うん。昔、職人たちが集まる場所だったと聞いたことがある」
ルシアンが答えた。
建物の扉には、古びた鍵がかかっていた。
窓から中を覗くと、椅子や机がいくつか残っている。
「今は使われていないみたいですね」
ミレイユが言った。
「ですが、建物の状態を確認する必要があります」
カイルが周囲を調べる。
そこへ、近くの工房から年配の男性が出てきた。
「その建物が気になるのかい?」
エレナは丁寧に頭を下げた。
「はい。私たちは、子供たちが本を読める場所を作りたいと思っています」
「本を?」
「ええ。この建物を使えるかどうか、知りたくて……」
男性は建物を振り返った。
「ここは昔、職人たちが集まって話し合いをしていた場所だよ。だが、使う人が減ってからは閉めたままになっている」
「そうだったんですね」
「ただ、持ち主は別にいる。勝手に使うことはできないよ」
「もちろんです」
エレナは頷いた。
「まずは、持ち主の方に相談したいと思っています」
男性は少し感心したように目を細めた。
「なるほど。なら、管理している人を紹介してあげよう」
「本当ですか?」
「ああ。子供たちのために使うというなら、話くらいは聞いてくれるはずだ」
エレナの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
男性は笑った。
「ただし、建物は古い。修理が必要かもしれないぞ」
「はい。それも含めて、きちんと確認します」
エレナは深く頭を下げた。
帰り道。
エレナは少し緊張していた。
場所を借りられるかどうかは、まだ分からない。
修理が必要なら、時間も費用もかかるだろう。
それでも――
「一歩、進めましたね」
エレナが言う。
「うん」
ルシアンが頷いた。
「最初から全部を決める必要はないよ。相談して、できることから始めればいい」
「はい」
エレナは手元のメモを見た。
本を集めること。
子供たちの希望を聞くこと。
場所の持ち主に相談すること。
やるべきことは、まだたくさんある。
けれど、もう何をすればいいのか分からずに立ち止まってはいなかった。
「……私、頑張ってみます」
「応援しているよ」
ルシアンは優しく笑った。
エレナも笑顔を返した。
王宮に戻ると、ミレイユが集めた本をもう一度確認し始めた。
「場所が決まったら、どんな本を置くかも考えないとね」
「はい」
「それから、みんなで読む日も決めましょう」
「楽しそうです」
カイルは書類をまとめながら言った。
「まずは建物の使用許可と修繕費の見積もりが先です」
「分かってるわよ」
ミレイユは笑った。
「でも、楽しみなことを考えるのも大事でしょう?」
「……それは否定しません」
エレナは二人を見て、嬉しそうに微笑んだ。
自分一人で始めた小さな目標。
それが今、少しずつ周りの人たちにも広がっている。
いつか、この場所に子供たちの笑い声が響く日が来るだろうか。
まだ分からない。
けれど、その未来を思い描くことはできる。
エレナは机の上に並んだ本を見つめた。
「……早く、みんなに読んであげたいです」
その声は、期待に満ちていた。
そして彼女は、次に進むための新しい一歩を、心の中で静かに選んだ。




