小さな種に託した、これからの時間
翌朝。
エレナは目を覚ますと、昨日買った小さな種の袋を手に取った。
「……今日は植えられるでしょうか」
袋の中には、まだ何の花になるのか分からない種が入っている。
それを眺めているだけで、少しだけ胸が弾んだ。
朝食を終えると、エレナはルシアンと一緒に王宮の庭師を訪ねた。
「昨日見つけた庭園に、この種を植えたいんです」
庭師は少し驚いた顔をした。
「古い北側の庭園ですか?」
「はい」
「あそこは長い間使われていませんでしたが……」
「勝手に植えるつもりはありません」
エレナは丁寧に頭を下げる。
「許可をいただけるでしょうか?」
庭師は少し考えた後、笑った。
「もちろん構いませんよ」
「本当ですか?」
「ええ。あの庭園を気に入ってくださる人がいるのなら、こちらとしても嬉しいです」
「ありがとうございます!」
エレナの顔が明るくなる。
ルシアンも微笑んだ。
「これで約束を守れるね」
「はい!」
北側の庭園へ向かうと、ミレイユとカイルが先に待っていた。
「おはよう!」
「おはようございます」
ミレイユがエレナの手元を見る。
「それが昨日の種?」
「はい」
「今日植えるのね!」
「その予定です」
「じゃあ、私も手伝う!」
カイルがすぐに言った。
「植える場所を決めてからにしてください」
「分かってるわよ」
「それと、深く植えすぎないように」
「分かってるってば」
「水も与えすぎないように」
「もう!」
ミレイユが頬を膨らませる。
「カイルは私を何だと思ってるの?」
「少々勢いのある方だと思っています」
「否定できない……」
エレナとルシアンは顔を見合わせ、笑った。
庭園の奥。
昨日見つけた東屋の近くに、小さな花壇があった。
「ここがいいです」
エレナがしゃがみ込む。
「東屋からも見えるし、日当たりもいいですね」
ルシアンも確認する。
「確かにここなら育ちそうだ」
「では、ここにしましょう」
エレナは小さなスコップを手に取った。
土を少しずつ掘る。
「……意外と難しいですね」
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
エレナは真剣な顔で土を掘る。
けれど――
「……あ」
スコップが固いものに当たった。
「何かあります」
土を少し払う。
出てきたのは、小さな丸い石だった。
「石ですね」
「庭に昔からあったものかもしれないね」
ルシアンが拾う。
エレナは石を眺めてから、花壇の端へ置いた。
「これはここに残しておきましょう」
「どうして?」
「この庭園が昔からここにあった証みたいだから」
ルシアンは少し驚いた後、笑った。
「それもいいね」
ようやく土を整える。
エレナは種を一粒だけ取り出した。
とても小さい。
指先に乗せると、少し風が吹いただけでも飛んでしまいそうだった。
「これが、あんなに大きな花になるんですね」
「まだ何色になるかも分からないけどね」
「はい」
エレナは種を見つめる。
「だから楽しみなんです」
小さな穴を作る。
そこへ種を入れる。
土を優しくかぶせる。
最後に水を少しだけかける。
「……できました」
エレナは立ち上がった。
「本当に小さいですね」
ミレイユが花壇を見る。
「これ、いつ咲くの?」
「分からないそうです」
「えっ?」
「説明には書いてありませんでした」
ミレイユが腕を組む。
「じゃあ、毎日見に来ればいいじゃない」
「毎日?」
「芽が出る瞬間を見逃したくないもの」
エレナは笑った。
「それもいいですね」
カイルが静かに言う。
「毎日来る必要はないと思いますが……」
「カイルは夢がないわね」
「植物にも休息は必要です」
「植物は休んでるの?」
「少なくとも、ずっと見張る必要はありません」
「……」
エレナがくすっと笑う。
「では、時々見に来ましょう」
「それなら賛成です」
カイルが頷いた。
昼過ぎ。
四人は東屋で休んでいた。
エレナは植えた場所を何度も振り返っている。
「エレナ」
ルシアンが声をかける。
「はい?」
「そんなに見ても、まだ芽は出ないよ」
「……分かっています」
「でも気になる?」
「はい」
エレナは少し恥ずかしそうに笑う。
「昨日買ったばかりなのに、もう少し大きくなってほしいと思ってしまいます」
「分かる気がする」
「ルシアンも?」
「うん」
ルシアンは花壇を見る。
「昔の僕なら、すぐに結果が欲しかったかもしれない」
「今は?」
「待つことも悪くないと思ってる」
エレナはその言葉を聞いて、静かに微笑んだ。
「私もです」
二人はしばらく花壇を眺めた。
まだ何も見えない。
土しかない。
けれど――
その土の下では、確かに何かが始まっている。
「ねえ、エレナ」
ミレイユが声をかける。
「何ですか?」
「この庭園、名前をつけない?」
「名前?」
「そう!」
ミレイユは腕を組む。
「秘密の庭園って呼ぶのもいいけど、私たちだけの名前があった方がいいじゃない」
「確かに……」
エレナは庭を見渡した。
古い木々。
小さな噴水。
東屋。
そして、今植えたばかりの種。
「……『約束の庭』はどうでしょう?」
「約束の庭?」
「はい」
エレナは花壇を見る。
「またここに来ること。
花が咲いたら見ること。
そして、いつかまた新しい場所へ旅に行くこと」
少し照れながら笑う。
「いろいろな約束が、この場所に増えていく気がします」
ルシアンが頷いた。
「いい名前だね」
「私も賛成!」
ミレイユが手を挙げる。
「カイルは?」
「異論ありません」
「決まりね!」
ミレイユが嬉しそうに笑った。
帰る前。
エレナは植えた種の前に立った。
「また来ます」
小さく呟く。
返事はない。
もちろん、種は何も言わない。
それでも――
エレナは笑った。
「次に来た時、少しだけ変わっているといいですね」
「きっと変わっているよ」
ルシアンが答える。
「植物は、僕たちが見ていない間にも成長しているから」
「……そうですね」
エレナは頷く。
人も同じなのかもしれない。
何か特別なことが起こらなくても。
見えないところで、少しずつ変わっていく。
だから、急ぐ必要はない。
未来を先に知る必要もない。
ただ今日を過ごして、明日を迎える。
それで十分だった。
庭園を出る直前、エレナはもう一度振り返った。
昨日までは、ただの古い庭園だった。
今日からは違う。
ここには、自分たちが植えた小さな種がある。
いつか芽を出すかもしれない。
花を咲かせるかもしれない。
どんな色になるのかも分からない。
それでも――
楽しみに待っていたい。
「行きましょう」
ルシアンが手を差し出す。
「はい」
エレナはその手を取った。
四人は王都へ向かって歩き出す。
後ろには、まだ何も咲いていない花壇。
けれど、その小さな土の中には――
これから始まる時間が、静かに眠っていた。




