ルシアンが選んだ、王都の小さな旅
翌朝。
「今日は僕が案内するよ」
朝食の席で、ルシアンがそう言った。
エレナは少し驚いた。
「本当にルシアンが?」
「昨日、そう約束したからね」
「楽しみです」
エレナは嬉しそうに笑う。
ミレイユも興味津々で身を乗り出した。
「どこへ行くの?」
「それは秘密」
「えー!」
「昨日はミレイユが案内役だったんだから、今日は僕に任せて」
「分かったわ」
ミレイユは少し不満そうにしながらも頷いた。
その隣でカイルが静かに紅茶を飲んでいる。
「カイルは知っているんですか?」
エレナが尋ねる。
「はい」
「どこですか?」
「それは私からは申し上げられません」
「……」
「殿下から秘密にしておくよう言われていますので」
エレナはルシアンを見る。
「徹底していますね」
「せっかくだからね」
ルシアンは笑った。
王宮を出てしばらく歩く。
いつもの大通りを抜け、王都の南側へ向かう。
「こちらは初めて来ました」
エレナが辺りを見回す。
「僕も最近はほとんど来ていなかった」
「ルシアンも知らない場所なんですか?」
「昔、一度だけ来たことがあるんだ」
「昔?」
「子供の頃にね」
ルシアンは少し懐かしそうに笑った。
「母と一緒に来たことがある」
エレナは何も言わず、彼の隣を歩く。
やがて、古い石造りの建物が見えてきた。
「ここ?」
ミレイユが首を傾げる。
「そう」
ルシアンが扉を開ける。
中へ入ると、そこにはたくさんの植物が並んでいた。
「……温室?」
エレナが目を輝かせる。
大きなガラス窓から太陽の光が差し込み、色とりどりの花や植物が育てられている。
「王都植物園だよ」
ルシアンが説明する。
「昔は王族専用の小さな庭だったらしいけど、今は一般にも開放されているんだ」
「こんな場所があったんですね……」
エレナはゆっくり歩き始めた。
海の向こうの国で見た花とは違う。
王都の庭園とも違う。
見たことのない花がたくさん咲いている。
「綺麗……」
エレナは白い花の前で足を止めた。
「これは何という花ですか?」
「確か……」
ルシアンが説明板を見る。
「『月雫』って書いてある」
「月雫……」
白い花びらの中心には、小さな青い斑点がある。
「夜になると、花びらに露が溜まって月の光を反射するんだって」
「素敵ですね」
エレナは花をじっと見つめる。
「夜にも見てみたいです」
「じゃあ、いつか夜に来ようか」
「本当ですか?」
「うん」
「約束ですよ」
「約束する」
「ちょっと!」
後ろからミレイユの声が聞こえた。
「二人とも、植物園に来ても二人の世界に入るのは早すぎない?」
「ミレイユ……」
エレナが少し恥ずかしそうに振り返る。
「だって本当に仲良しなんだもの」
「それは……」
エレナが困っていると、カイルが静かに言った。
「ミレイユ嬢も先ほどから花より珍しい菓子を探していませんでしたか?」
「それは重要な調査よ」
「何の調査ですか?」
「美味しいものがあるかどうかの調査!」
「……なるほど」
カイルは納得したような、していないような顔をした。
エレナは思わず笑った。
さらに奥へ進むと、小さな池があった。
水面には花びらが浮かび、魚がゆっくり泳いでいる。
「ここは昔から変わっていない」
ルシアンが言った。
「昔?」
「うん」
池の前で立ち止まる。
「母と来た時、ここで魚に餌をあげたんだ」
「王子様が?」
「僕だって子供だったからね」
「どんな子供だったんですか?」
「……」
ルシアンは少し考えた。
「落ち着きがなかったと思う」
「意外です」
「そう?」
「もっと静かで、大人しい子だったのかと思っていました」
「それは今の僕だね」
ルシアンは苦笑した。
「昔は木に登って、母に怒られたりしていたよ」
「ふふっ」
エレナは笑う。
「想像できます」
「本当?」
「はい」
「どうして?」
「なんとなくです」
二人で笑う。
ルシアンは池を見つめた。
「母と過ごした時間は、長くなかった」
その声は少しだけ静かだった。
「でも、こういう場所を覚えているんだ」
エレナは彼の隣に立つ。
「忘れなくていいと思います」
「……うん」
「大切な思い出ですから」
ルシアンはエレナを見る。
「ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、その声には深い感謝が込められていた。
その後、一行は植物園の奥にある休憩所へ向かった。
ミレイユがベンチに座る。
「ここ、気に入ったわ」
「私もです」
エレナも隣に座る。
「ルシアンが昔来ていた場所だと思うと、少し不思議な感じがします」
「僕も、今こうしてエレナと来ているのが不思議だよ」
「どうして?」
「昔の僕は、この場所に誰かと一緒にまた来るなんて考えもしなかったから」
「……」
エレナは微笑んだ。
「では、今日を新しい思い出にしましょう」
「うん」
ルシアンも笑った。
帰る前。
エレナは植物園の売店で、小さな花の種を見つけた。
「これは?」
店員が説明する。
「王都ではあまり見かけない花だけど、育てやすいんだそうです」
「……」
エレナは種の袋を見る。
「これ、買ってもいいですか?」
「もちろん」
ルシアンが代金を払おうとする。
「今回は私が払います」
「エレナが?」
「はい」
エレナは小さく笑った。
「自分で育ててみたいです」
「分かった」
ルシアンは頷く。
「じゃあ、どこに植える?」
「考え中です」
「庭?」
「それもいいですけど……」
エレナは少し考えた。
「秘密の庭園に植えるのもいいかもしれません」
「昨日の場所?」
「はい」
ミレイユがすぐに反応する。
「いいじゃない!」
「でも、勝手に植えて大丈夫でしょうか」
カイルが考え込む。
「庭園の所有者を確認する必要がありますね」
「やっぱりカイルはそう言うと思った」
ミレイユが笑う。
「当然です」
エレナも笑った。
「では、ちゃんと確認してからにしましょう」
「それがいいね」
ルシアンが頷く。
植物園を出る。
帰り道、エレナは種の入った小さな袋を大切に持っていた。
「何色の花が咲くんでしょう?」
「まだ分からないの?」
「説明には書いてありませんでした」
「じゃあ、咲いてからのお楽しみだね」
「……」
エレナは嬉しそうに笑った。
「それ、いいですね」
「何が?」
「咲くまで分からないこと」
エレナは袋を見つめる。
「昔の私なら、きっと知りたいと思っていたでしょう」
「未来を?」
「はい」
けれど今は――
分からないことを、楽しみにできる。
「どんな花が咲くのか、知らないまま育ててみます」
ルシアンは微笑んだ。
「うん。それがいいと思う」
二人は並んで歩いた。
王宮に戻る頃には、夕暮れが近づいていた。
エレナは今日一日を思い返す。
植物園。
ルシアンの幼い頃の思い出。
見たことのない花。
そして、自分で選んだ小さな種。
未来は分からない。
けれど、それを不安には感じなかった。
むしろ――
楽しみだった。
「ルシアン」
「うん?」
「今日は素敵な場所へ連れてきてくれて、ありがとうございました」
「喜んでもらえてよかった」
「はい」
エレナは種の袋を胸元に抱える。
「次は、この種が咲いた時にまた来たいです」
「じゃあ、その時も一緒に来よう」
「約束です」
「約束」
二人は笑った。
その小さな約束の先に、どんな花が咲くのか。
今はまだ、誰にも分からない。
だからこそ――
エレナはその未来を、楽しみに待つことができた。




